2011.8.6 9.9更新

「時代の奔流を見据えて──危機の時代の平和学」

目次 プロフィール
木村 朗 (きむら あきら、鹿児島大学教員、平和学専攻)


 第三四回

福島 「原発震災」 の意味を問う
〜錯綜する天災と人災(その四 上)

  はじめに
  ごれまで3月11日の大震災(地震と津波)と福島第一原発事故の同時発生後の政府・東電・メディアの対応をめぐって、一体何が起こっていたのか、 そこでの重要な争点と課題は何なのか、を中心にみてきました。 東日本大震災後の日本と世界の状況を論じる場合、1.スリーマイル、チェルノブイリからフクシマへ、2.9・11から3・11へ、 3.ヒロシマ、ナガサキからフクシマへ、という主に三つのとらえ方があるように思います。 今回以降の本論評では、そうしたとらえ方があることを前提にしながら、個別のテーマに絞る形で福島 「原発震災」 の意味を考えていきたいと思います。

  その初回となる今日は、原爆投下66回目の原爆記念日を迎えたということもあって、原発と原爆の関連性について、少し考察してみたいと思います。

4.原発(被曝)と原爆(被爆)の関係性を問う
―人類は核(原子力)と共存できるのか
(1) 原発爆発と原爆攻撃−核爆発(攻撃)後の死の光景
  先日(7月22日)アジア記者クラブで 「原爆神話からの解放と核抑止論の克服─ヒロシマ、 ナガサキからフクシマへ」 という講演題目でお話をさせていただく機会がありました。 また、8月8日には長崎市の長崎原爆被災者協議会(被爆者の店)で開かれる 『広島・長崎への原爆投下再考・日米の視点』 (アメリカン大学のピーター・カズニック先生と私の共著で、法律文化社から昨年11月に刊行)の出版を記念する公開セミナー ―米国はなぜ2発目の原爆を投下したのか─でも同じテーマで報告させていただく予定です (その共著の翻訳を担当していただいたカナダ在住の乗松聡子さんが運営しているサイト 「Peace Philosophy Center」 を参照。 最近の充実ぶりには目を見張るほどです。特に注目されているのが、原発・核問題と沖縄・安保問題です。ぜひ一度アクセスを!)。

  ここでは、原発事故と原爆攻撃の共通性に注目したいと思います。両者の共通性をまず感じるのは、「核爆発(攻撃)後の死の光景」 です。 私自身もそうですが、多くの方々や論者が、大震災と原発事故後の光景を、まるで戦時中における大空襲(爆撃)後の徹底的に破壊された東京、 あるいは原爆投下直後の広島、長崎の地獄のような悲惨な光景とを重ね合わせて感じているようです。

  ジャーナリストの鳥越俊太郎さんは、 原発事故を起こした東京電力・福島第一原子力発電所の正門前まで突撃取材した直後の和歌山放送の第87回情報懇談会(4月26日)において、 「被災地の光景は、原爆を投下されて焼け野原になった広島、長崎の光景、さらには東京大空襲の光景を見るようだ」 と語っています (「一語一絵 中島耕治のちょっといい話−和歌山放送社長ブログ」 を参照)。

  ノンフィクション作家の佐野眞一さんは、 未曾有の原発事故によってゴーストタウンと化した通称 「浜通り」 の双葉町に4月24日に行ったときに見た光景のことを、 「まるで夢で見た風景の中を歩いているようだった。通りには人っ子ほとりいないにもかかわらず、横断歩道脇のボタンを押すと信号だけは点滅した。 …(中略)だが、豊かな暮らしはその原子力によって奪われ、 商店街は、核戦争後の世界のように不気味に静まりかえっていた」 と描写している(『週刊現代』 2011年5月23日号を参照)。

  浅田彰さん(批評家、京都造形芸術大学大学院長)も、「東日本大震災とそれによって起こった原子力発電所事故は、 われわれの目前におそるべき廃墟を現出させた。その廃墟は、1923年の関東大震災や1995年の阪神・淡路大震災を想起させる以上に、 見方によっては原子爆弾を投下され敗戦に追い込まれた1945年の日本の廃墟と重なって見える」 と指摘しています (「浅田彰大学院長 『アサダ・アキラ・アカデミア』 (磯崎新、岡崎乾二郎、椿昇)開催!」 を参照)。

  柄谷行人さん(文芸評論家、哲学者)も、アメリカの新聞に頼まれて書いたエッセイの中で、 「そこに今度の地震がおこったのである。それは再び戦後の焼け跡を想起しただけではない。 原発の事故は広島や長崎を想起させずにいられない」 と語っています(柄谷行人 「地震と日本」 『現代思想 特集 東日本大震災 危機を生きる思想』 2011年5月号、を参照)。

  また、ネット社会で発言を続けている 「日々坦々」 さんは、 ご自分のブログで、「3号機が爆発したビデオは、まさに原爆のきのこ雲を連想させた画であった。」、「不謹慎かもしれないが、戦後の焼け野原と、 今の東北地方の津波で街全体が無くなっている爪あとと、どこか似ているような気がする。 それに広島、長崎の原爆投下も今の福島原発事故にダブる。」 と述べている(「世界では日本は広島・長崎に続いて3度目の被ばくを経験している、 とも言われている?!)。

  そして、在外被爆者訴訟の元原告で長崎の被爆者の廣瀬方人さんがは、「津波が引いた後に広がる瓦礫の映像を見ながら私は体中に寒気を覚えた。 あの光景は私が被爆直後に見た原爆の焼け跡とそっくりであった。あのときも目の前に木材や瓦礫が音もなく広がっていた。 自然の驚異の前では人智が及ばなかったことを私たちはいやというほど知らされた」 と語っています 「ヒロシマ・ナガサキ通信」 No.191、2011年5月31日発行、 を参照)。

  その他にも、インターネットを見てみると、次のような感想・印象が多く出されています。
  「そのテレビの画面に映し出された光景は津波の破壊力。海岸線は原爆投下後の広島・長崎を思わせるほど無残な姿に…」、 「戦場と 見紛うような光景だった。」、「南浜町はさながら原爆が投下された跡のようだった。跡形も無い、とは正にこの光景のことを指すのだろう。」、 「女川町は空襲を受けた町のようだ戦場と見紛うような光景だった。」、「戦争当時と今の原発事故の報道はまったく変わらない。」 「白黒写真で見てきた 東京大空襲、原爆が投下された後の広島・長崎の光景と重なった。」、 「広島・長崎でエノラゲイが原爆投下した直後の悲惨な光景を目にされているのですね。」、「筆舌に尽くし難い状態、まさに原爆投下後のような光景です。」、 …等々。

  それから、これは上記の流れ・趣旨とは違った意味で注目された例ですが、フランスの風刺番組 「レ・ギニョル・ド・ランフォ」 は、 実物の政治家や著名人などとソックリな人形を使って、面白おかしく伝える番組で、 被災地の支援にやって来た外国人兵士が東日本大震災で被災した福島の町の風景写真と、 原爆投下直後の広島の写真を2枚並べて 「日本は60年たっても、変わっていない」 などと、2つの荒れ果てた地を見せて笑いにしたり、 「日本がこんな国とは知らなかった」 とちゃかす内容でした。もちろん、こうした広島や福島で被害にあった人達を侮辱し傷つけるような内容に対しては、 在パリ日本大使館が、同番組の編集長宛てに 「被災者の感情を著しく傷つける内容があった」 として文書で抗議したのは当然です (「60年経っても日本は変わらない」 広島と福島を笑いにしたフランス番組、 大使館が批判 を参照)。

  しかし、世界が日本をどのように見ているか、という点を理解するためにはある意味で興味深いものであったとも言えます。
  このような流れを受けて、今年の原水禁大会と広島・長崎の平和宣言文にも変化の兆しが見られるようです。 大震災と原発事故を受けて初めて開催される今年の原水禁世界大会は、これまでの大会は違って、核兵器廃絶とともに、 脱原発を大きなテーマ・課題として掲げるものになりそうです。 広島、長崎に先立つかたちで福島で開催された原水爆禁止日本国民会議(原水禁)の被爆66周年原水爆禁止世界大会は、 主催者の予想を上回る参加者が全国各地から集まり、「脱原発」 「さよなら原発」 「原発のない未来を!」 「すべての原発を廃炉に」 「子どもたちを放射能汚染から守れ」 等々ののぼりや横断幕に書かれた文字が目立ったといいます。 また、主催者あいさつに立った川野浩一・原水禁議長は 「われわれは、原水禁初代議長の故森滝市郎氏の 『核と人類は共存できない』 という呼びかけに応えて原爆と原発に反対する運動を続けてきたが、そのことは正しかった。 が、核兵器廃絶に偏り、反原発が弱かったことを反省せざるをえない」 と述べ、 「これからは、ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ、ノーモア・フクシマの運動を進めよう。 福島第一原発の事故を最後の原発事故にしよう」 と呼びかけたと伝えられています (NPJに掲載されているジャーナリストの岩垂 弘氏の 「原水禁の世界大会が福島で幕開け」 2011.08.02 「さよなら原発」 の声高く を参照)。

  最後に採択された大会アピールは、「福島第一原発事故は、チェルノブイリ原発事故と並ぶ原発史上最大級の事故となりました。 ヒロシマ・ナガサキから66年、チェルノブイリ原発事故から25年、私たちはこのフクシマから立ち上がらねばなりません。 (中略) 今、あらためてその運動の質が問われています。「フクシマ」 の現実とどう向き合っていくのかが、私たちの大きな課題です。 『フクシマ』 をスタートとする運動の構築を模索していきます」 と宣言しています (「被爆66周年原水爆禁止世界大会・福島大会アピール」 2011年07月31日)。

  そして、本日(8月6日)発表された 広島市の平和宣言文 には、「東京電力福島第一原子力発電所の事故も起こり、今なお続いている放射線の脅威は、 被災者をはじめ多くの人々を不安に陥れ、原子力発電に対する国民の信頼を根底から崩してしまいました。 そして、『核と人類は共存できない』 との思いから脱原発を主張する人々、あるいは、原子力管理の一層の厳格化とともに、 再生可能エネルギーの活用を訴える人々がいます」 との文言が 「今年3月11日に東日本大震災が発生しました。 その惨状は、66年前の広島の姿を彷彿させるものであり、とても心を痛めています」 との表現とともに見られます。 これは、確かに脱原発の動きを伝えてはいますが、『核と人類は共存できない』 との訴えもあくまでも間接的言及にすぎず、 いわゆる 「減原発」 の考え方にも通じる内容であると受け止めることができます。

  また、今年の長崎市の平和宣言文には、事実上の “脱原発” が盛り込まれそうだという情報もあります。 今年の平和祈念式典には、核保有国の英、仏、ロシアを含め最多の49カ国だけでなく、 福島市の瀬戸孝則市長や福島県いわき市の中学生43人も参列する予定です。 長崎市の田上富久市長は7月28日に、長崎原爆の日(8月9日)の平和祈念式典で読み上げる平和宣言文の骨子を発表しました。 その骨子によれば、福島第1原発事故を受けて、原子力に代わる安全なエネルギー社会への転換の必要性を訴えた内容となっているといいます。 このように平和宣言文で原発のあり方について言及するのは1948年に同宣言が始まって以来初めてです。 田上市長は 「長崎の思いは二度とヒバクシャを世界につくらないということ。 その先には原発ではないエネルギーに支えられる社会があると思う」 と語っています(『西日本新聞』 2011年7月28日付)。 しかし、この長崎の平和宣言文は、宣言に 「脱原発」 の文言を直接盛り込まなかった理由を問われて 「脱原発という言葉は(即時原発撤退など)幅を持って使われている」 と田上市長が説明しているように、 すごく曖昧な部分を残した妥協の産物という側面もあるようです。 この間の経緯については、長崎市在住の漫画家で起草委員の一人でもある西岡由香さんのMLへの投稿がすごく参考になるので、 少し長くなりますがご紹介させていただきます(『週刊金曜日』 2010年8/6 8/13合併号に掲載された西岡由香さんの注目記事 「今年の平和宣言文に 『平和憲法』 の文字は入るのか」、 および故鎌田定夫・長崎平和研究所創設者が編集された 『広島・長崎の平和宣言―その歴史と課題』 平和文化、1993年6月刊行)も参照)。

  ≪ こんにちは、長崎の西岡です。市長が8月9日の平和祈念式典で読み上げる平和宣言文、私も18人の委員の一人をつとめています。 今日が3回目の起草委員会でした。例年なら、2回目の委員会後、事務局がまとめた文案を協議するのですが、今回は前代未聞の事態になりました。 市長から 「文案を作る前に、福島第一原発の事故を受けて、宣言文で脱原発についてどう扱うべきかを協議する場にしたい」 という提案が、 おとといになって届いたのです。
  さあ大変。「脱原発しかるべき」 と思ってもらえるような資料を提示しなきゃ。
  (…中略) 先日のメールで、委員の最長老の先生に、「脱原発を入れないように」 と、元・市役所職員からの圧力がかかっていることを書きました。 マスコミがずらっと並んだ会議室に入ると、席順は、最長老の先生、脱原発派の先生、そして私という順でした。 先生は圧力に屈するのか? と思いつつ席につこうとしたら、私を見てニヤッと笑い 「強硬派が3人並びましたね」。 その言葉を聞いた途端、涙が出るくらいうれしかった! 屈するどころか、先生は 「ここまで言うか」 というくらいつっこんだ発言をしていました。
  「私たちは今まで国策によるマインドコントロールで、原発安全神話をインプットされてきた。原発が安いというのもウソ」 「日本の科学力なら、 安全な原発を作るのでなく自然エネルギーをもっと開発できる」 「リスクが大きい原子力の代わりがないならともかく、代わりの自然エネルギーがある。 リスクの高い方から低い方を選択する権利と義務が私たちにはある」 「主張すべき論点をぼかすべきでない。 なんらかの意思表示をするのは長崎の義務」 「市長が脱原発と言っても叩かれるとは思わない。求心的に言っている人もポジションによって意見は変わる。 脱原発をイデオロギーとか言ってる人は気にしないでいい」 「科学の進歩は神の領域まで踏み込んだ。その傲慢さがひずみとなって現れた。 私たちは自然への畏怖の念を持つべき」 「自然との共存を。核との共存を考えるべきでない」 「最終的に原発依存から決別したい」
  すごい! チラッと市長を見たら、複雑な顔をして座ってました。18人の委員のうち今日は6人欠席、 あとの委員もほとんどが 「原発は制御できない」 という意見でした。
  「長崎が脱原発を言わないのは無責任。長崎の役割が問われる」 「原発と原爆はつながっている」 「今後、“原発ウチの町に来て” という人がいるのか?」 「多くの原爆被爆者が亡くなったのは放射線が原因」 「福島の人たちの前で原発は安全と言えるのか。何が人間に 「議論が高まってから、 ではなく先に危険だとわかった人から発信していくこと。脱原発を言わなければ、あと何回こういう事故が起こったら長崎は脱原発を言うのか、 と問われる」 「これだけの事故を起こして平和利用と言えるのか。核の平和利用もやめるべき」 「“ちょっとしたひびわれなら” と原発事故は隠されている。 うさんくさい原発は信用してはいけない」 「国が安全と言ったからといって思考停止してはいけない」 「いま、脱原発を打ち出さないと長崎は信用されなくなる」
  文字で書くと皆さんガンガン発言したようですが、総じて、おだやかな言い回しでした。 「脱原発論は慎重に」 「原発止めたら電気足りないし経済活動ができないから、脱原発は難しい」 っていう意見もありました。(…中略)
  「被爆の苦しみを知っている長崎だからこそ今、原発からの脱却を訴えなければ。いのちを守るのに中立はありません。 長崎から歴史に残る宣言文を世界に」 といった内容を発言したのですが、会議後、 新聞社の若い男性記者が駆け寄ってきて 「発言を新聞に載せていいですか?」 と聞いてくれたのはうれしかった〜。 ただ、会議後の市長の記者会見では脱原発を入れるのかどうか市長ははっきり答えなかったそうです。
  (…中略)原発神話に浸かってしまった人たちのマインドコントロールを少しずつでも溶かしていけるよう、微力をつくします。西岡由香 ≫

  そして、日本被団協も先月の13日に、東京都内で代表理事会を開き、本年度の運動方針として 「脱原発」 の取り組みの追加を正式に決めています。 具体的には、段階的な原発の停止、廃炉、すなわち原発の新設、増設計画の撤回、 既存のすべての原発の安全性の総点検と年次計画を立てた上での操業停止、廃炉により国内から原発をなくすよう、国や電力会社に求めていく姿勢で、 大きな方針転換だと思います(『中国新聞』 2011年7月14日付)。
  日本も 「3・11」 と 「フクシマ」 というかつてない未曾有の大震災・原発事故(地震、津波、放射能の複合災害)を経験して、 少しずつですがようやく変わりはじめたようです。

2011年8月6日(66回目の原爆の日を迎えて)
【次回の(その四 中)に続く】