2013.2.17更新

「時代の奔流を見据えて──危機の時代の平和学」

目次 プロフィール
木村 朗 (きむら あきら、鹿児島大学教員、平和学専攻)


特別寄稿 アジア記者クラブ定例会リポート(2012年12月14日)
裁判員制度の危険な罠-存続ではなく廃止を!

  アジア記者クラブで講演をさせていただくのは去年の7月、福島の事故を受けて、私がもともと原爆投下の問題もやっているということで、 「原爆神話からの解放と核抑止論の克服―ヒロシマ、ナガサキからフクシマへ」 というご報告をさせていただいた以来です。 私は裁判員制度の問題に強い関心があり、ちょうど3年目の見直しがなされる、検討が本格的に始まるこの時期に報告をさせていただきたいとお願いして、 今日こういう機会を設けていただいた。

  最初に自己紹介をさせていただきたい。私のもともとの専門はユーゴスラビアの第二次大戦中から戦後にかけての政治外交史で、 最初の論文は1948年のコミンフォルムからのユーゴスラビア共産党の追放、 国レベルで言えばソ連・ユーゴ紛争〜どちらも今は存在しない国になってしまったが〜という、社会主義大国と社会主義小国、 スターリンとチトーというカリスマ的指導者、いい悪いは別として、 そういう2人の指導者がトップにいた時代の社会主義大国と小国の対立と衝突の問題を党レベルや国家レベルでやって、 社会主義とナショナリズムの相克が大きなテーマであった。 1985年から87年まで2年近く旧ユーゴスラビア・セルビア共和国のベオグラード大学政治学部に留学して、そのテーマを研究した。

  ユーゴスラビアに関心を持ったのは、自主管理とか非同盟、 あるいはユーゴスラビアがソ連とは少し違った形で連邦制度と民族問題をやっていることに関心をもったのがきっかけだった。 ただ、そういった問題はもちろん関心があったけれど、最初にやったテーマは先ほど言ったようなものとなった。 その後、1987年に日本に戻ってからユーゴスラビアでは経済危機が深刻化し、民族対立が表面化して、 結果的に非常に不幸な最悪の形で国家の解体と内戦の勃発ということで大きな犠牲を強いられる形となった。 私は日本に帰国してから、かの地の悲劇をみることになった。 留学から戻って、内戦が始まる前に1回、内戦中に1回、内戦が終わった後も3回ぐらい、それぞれ1ヶ月ずつユーゴスラビア各地を訪問した。 今は6ヶ国に分かれているけれど、今から考えると非常に多様性のある国だったので、一つの国にまとまっているのが不思議な気がした思いもある。

  内戦と国家崩壊の過程で、国際社会の民族地域紛争への対応ということで、国連やNATOの関与の問題も少しやった。 1999年にはコソボ紛争をめぐるNATOの空爆という問題でまた世界の注目を集めた。そういった問題をしながら、外国研究をやるのは何のためかといえば、 やはり日本を中心として国際社会をみるということであったので、日本にも関心が移り、日米安保体制、沖縄を中心とする米軍基地問題を扱うことになった。 あるいはヨーロッパの冷戦とのかかわりで旧ユーゴ・ソ連紛争をやったが、 アジアの冷戦とのかかわりで日本に目を転じて原爆投下の問題を研究レベルでの主要なテーマにするようになった。 さらに2001年に9・11事件があって、その9・11事件についても少し関心をもってやることになり、 その後のアメリカを中心とする新しい帝国秩序の問題にも取り組んでいる。

  このように自分の専門は大ざっぱに言えば国際政治というか国際関係論であったが、テーマそのものから言えば平和学がもっとも近い。 その平和学を専門とする私がなぜ冤罪や報道被害、裁判員制度の問題に取り組むことになったのかを説明したい。 7〜8年前に鹿児島大学でマスコミ論講座というものが立ち上がって、そこに4年間、委員としてかかわった。 私が委員をやっている時に大きなテーマとして取り上げたのが、冤罪と報道被害の問題である。その前後に、鹿児島で志布志事件という冤罪、 でっち上げ、権力犯罪とも言える事件が起こり、その問題にもかかわるようになり、さらに裁判員制度にも関心を持って取り組むことになった。 そして、その志布志事件と裁判員制度を扱ったのが 『市民を陥れる司法の罠―志布志冤罪事件と裁判員制度をめぐってー』 (南方新社、2011年5月刊行)という地元の出版社から出した本で、 実はその前にマスコミ論で最初にお呼びした河野義行さんらにも書いていただいている 『メディアは私たちを守れるか? ―松本サリン・志布志事件にみる冤罪と報道被害』(凱風社、2007年11月刊行)という本を、私が編者になって先行的に出したという経緯がある。

  今、総選挙の真っ最中である。争点は何かという時に、具体的にはもちろん、脱原発とか消費税増税とかTPP参加の是非とか、 また隠された争点としてオスプレイ強行配備、日米地位協定改定、日米安保問題がある。 しかし根本的には、憲法改正というか、集団的自衛権の解釈変更や秘密保全法の問題などもあるが、 私はやはり、今回の総選挙で問われるべきは3年前の前回と同じく、対米自立と脱官僚政治ではないかと思う。 また、3年前の総選挙の半年以上前から浮上した、いわゆる小沢事件、小沢捜査、小沢問題。 これは第1ラウンドが西松建設事件、第2ラウンドが陸山会事件、第3ラウンドとして検察審査会による強制起訴という形での小沢裁判ということで、 つい最近、小沢氏に二度目の東京高裁での無罪判決が出され、検察官役の指定弁護士が上告を断念したことで無罪が確定した。

  この小沢問題に象徴される、検察とメディアというよりも、 権力の暴走とメディアの加担という問題が今の日本の民主主義にとって深刻かつ喫緊の問題となっている。 実はこの問題こそ総選挙で問われなければならない。この問題は対米自立と脱官僚政治という、その中心的な課題とも直接かかわる重要な問題である。 今日、これからお話しする裁判員制度の問題は、実は小沢問題、小沢裁判、小沢事件ともさまざまな点で重なっている。 とりわけ検察審査会の問題では、検察によって捏造された捜査報告書による検察審査会の議決の誘導、 あるいは最高裁事務局による 「架空決議」 の疑いという非常に深刻な問題が今表面化している。 それはまさに裁判員制度にもあてはまる欠陥・問題点をそのまま現した問題ではないかというのが私の基本的な見方である。 裁判員制度にせよ小沢問題にせよ、 私のような民主主義の危機という問題意識で公の場で主張される法律・政治関係の研究者とか弁護士その他の法曹関係者があまりにも少ないのは異常である。 こうした現状を、私は日本の民主主義にとって非常に深刻な状況だと考えている。 私のような主張をする者が少数派というよりも異端派というか、変人扱いされる状況が今でも続いているということは、現在の刑事司法、 日本の民主主義をめぐる危機的な状況を表しているのではないかというのが私の基本認識である。

  なぜそういう風にとらえるのかというと、裁判員制度が施行されて3年になるということで今、見直しの論議が出てきているが、 ほとんどが 「おおむね順調である」 とか、「制度は定着した」 とか、あたかも9割ぐらいの人が全面的に支持、賛成しているかのような報道が、 当局者の発表とともにたれ流されているという現状があるからである。果たして本当にそうなのか。それは実態と大きくかけ離れたものではないかと思う。 いま裁判員制度についての改善点に関する提言などを検討する有識者の委員会を法務省が立ち上げており、 日本弁護士連合会や市民の側からも裁判員制度についての見直しのための検討とその報告書、提言などが出揃い始めているけれど、 裁判員制度の凍結や即時廃止を求めるような私のような主張・声は一切、封じ込められている。

  そのような声が国民のなかにないわけでは決してない。私もその一員である 「裁判員制度はいらない!大運動」 の集会は、 裁判員制度導入前から導入後の今も大きな集会を何度も、たとえば日比谷公会堂で1000人、2000人規模が参加する集会を何回もやっている。 異常だなと思うのは、その動きをメディアがまったく報じないこと。それだけでなく、私が参加した時に目撃した情報だが、 入り口付近に30〜40人の黒っぽい背広を着た集団がビデオその他を構えて入場者をチェックしていた。 会場入り口にいる主催者側の人に聞いたら、「あれは公安の方。私たちの集会には毎回、ああいう形で来ている」 ということであった。 私は、辺見庸さんや斎藤貴男さんが言われているように、日本にこれからファシズムが来るのではなく、すでにファシズム状況が来ているのだと痛感した。 ファシズムが完成しているとか全面的とまでは言わないが、すでに日本はファシズム的な状況、 戦前の大政翼賛体制に近いような状況がもう成立しつつあるのだという認識である。 国策に反対するものが 「非国民」 とされるような状況を実際に目撃・体験して肌身で感じてゾッとした経験がある。

  今度の総選挙でも少なからぬ影響をあたえている北朝鮮によるカッコつきのミサイル、 実際にはロケットなのに何が何でもミサイルと政府・メディアは決め付けたいようで、 「事実上のミサイル」 という欺瞞的な言い方で一般国民の恐怖感をあおりながら、オスプレイ、尖閣問題ともあわせて、 軍事力で日本を守るしかないかのようなまるで戦争前夜のような状況が意図的に作り出されていることと、 この裁判員制度あるいは小沢問題に象徴される国家権力・刑事司法中枢での反動化、ファッショ化、とは表裏一体である。

  私が裁判員制度に反対する根本的な理由は二つある。その一つは刑事司法の側面からみた問題である。 被告人の弁護権というか防御権が、裁判員制度では根本的に守られないのではないか。 日本弁護士連合会などは冤罪防止につながるということで裁判員制度賛成の一つの理由とするが、冤罪防止につながるどころか、 それが増えるだけでなく隠ぺいされる危険性さえあるのがこの裁判員制度であるというのが私の根本的な見方である。
  もう一つの問題は時代状況との関連である。私は刑事司法をやっている法律学者ではなく、政治(学)を専攻している人間だ。 だからこそ、裁判員制度をもう少し広い文脈でとらえた場合にどう見えるかといえば、先ほどの戦争とファシズムの時代状況との関連において、 国民保護法制と並んで裁判員制度というのが国家による国民(市民)の動員と統制、そういう制度として機能する側面を持っている。 国民保護法制は、国民の避難、保護、救援を口実として、戦争準備と実際の戦時(有事)における戦争協力を義務づける、 強制づけるものであるとみなすことができる。
  要するに国民保護法制の本質的な側面は国防意識の涵養である。そのような視点で国民保護法制をみることができるとするならば、 裁判員制度は社会秩序の維持、すなわち治安意識、それを一般国民にも持たせようとする側面があるのではないか。

  裁判員を経験した人が、ふざけ半分に 「人を一度裁いてみたかった」 とか、そういう本音で発言したりもしているとも聞く。 裁判員制度の危険性は、死刑制度を存置したまま制度を導入し、 なおかつ途中から当初予定していなかった被害者参加制度との抱き合わせで一体化して機能し始めていることだ。 私が耳を疑うのは、死刑制度には非常に深刻な問題があると分かっていながら、死刑に反対している市民こそ、 裁判員制度に参加して死刑求刑の裁判に立ち会って、 その苦渋の決断をするのが国民としての義務だということを人権を研究している憲法学者が言ったりすることである。 これはすごく倒錯した見方だと思う。ただ、裁判員制度導入を推進した当局側の最大の狙いもそこにある。 なぜ死刑や無期懲役につながるような重大犯罪だけが対象なのか、なぜ故意に殺人を犯した事例だけを最初に取り上げようとしているのかということも、 裁判員制度の導入の最大の目的、狙いが表れている問題だと思う。そのように考えた時、この裁判員制度は誰がどのような意図で、 どういう経緯で導入したのかという原点にもどって考える必要がある。

  最初の段階で私は 「対米自立と脱官僚政治」 と言った。私は基地問題と原発問題もやっているが、そこでの最大のテーマも、 戦後の日本は果たして民主主義国家、独立国家であったと言えるのかであった。私は、本当の意味で日本が民主主義国家であったためしも、 独立国家であったためしもないと思う。だからこそ3年前の総選挙の大きなテーマが対米自立と脱官僚政治であったのである。 しかし、今の民主党政権はまったくの死に体で、完全に官僚とアメリカの言いなりで、オスプレイ問題がその象徴だといえる。 対米自立と脱官僚政治を中核として担った小沢氏や民主党を創設した鳩山氏はすでにあのような形で党を離れているか、「引退」 に追い込まれている。 そして残された反小沢派、はっきり言って私は、小沢問題での権力犯罪という側面への加担者がこの民主党の現執行部であると思っている。 そういった人々が対米自立と脱官僚政治を投げ捨てて、 権力犯罪である小沢裁判に加担しているという恐ろしい状況が生じているのが今であるという風に思っている。

  裁判員制度の導入の経緯をみれば、1990年代半ばから始められた年次改革要望書という名の、アメリカからの構造改革、 規制緩和など新自由主義的な改革の要求の数々があった。その象徴が、一つは郵政民営化問題である。 これについては自民党を離党、除名させられた人々が再び政権交代で戻って〜その中心的な人物が亀井静香氏だと思う〜 郵政民営化の見直しという形で何とかそれを阻もうと必死の努力をしているものの、現在に至るまでそれは日の目をみることなく、 郵政民営化を阻止するために創設した国民新党から亀井氏が追い出されるというきわめて悲惨な状況となっている。 すべての問題がそのような形で袋小路状態にある現在につながっていると言わざるを得ない。 現在につながる問題は、そのほとんどが直接的には小泉政権(小泉・竹中政権とも言われている)に起源を求めることができる。 その小泉政権は、対米従属の新自由主義的な改革、悪法制定を次々と実行した恐るべきファッショ政権だったと私は認識している。 また、小泉政権が登場する前後の時期に司法改革なるものがトップダウン的に出される中で、この裁判員制度の導入問題が浮上してきた。 当時司法改革の最大の眼目が裁判の迅速化であって、これはやはりアメリカの要求であった。アメリカ側としては、外資がどんどん日本市場に参入した時に、 民事訴訟となった時にあまりにも膨大な時間が裁判にかかっては困るということで裁判の迅速化が至上命題になった。

  日本側も、裁判の迅速化についてはアメリカと共通の問題意識があったと思うが、裁判員制度導入の過程で一番の問題である民事裁判での適用ではなく、 刑事裁判それも重大な事件に限る形になっていったのは、 民事裁判への適用はアメリカ側が望まなかったという経緯があったという指摘もされている(関岡英之著 『拒否できない日本 アメリカの日本改造が進んでいる』(文春新書、2004年)。 刑事裁判に裁判の迅速化が適用される中で、それが裁判員制度に形を変えていく経緯については、もともとは日本弁護士連合会を中心とする弁護士たちは、 陪審員制度という形での国民の司法参加(これは民主主義の拡大という側面を持っており、 ヨーロッパやアメリカでも先進国ではすでに取り入れられている制度でもある)を求めてきた。

  しかし、この陪審員制度と実際に導入されることになった裁判員制度とは似て非なる制度である。 最高裁や検察庁、法務省は、陪審員制度は絶対に受け入れることができないという。 なぜならば、現行の司法制度や刑事司法に何ら大きな問題点はないというのが最高裁や検察庁、法務省の基本的な立場だからである。 ただ日本弁護士連合会の主張は少し異なる。当時の日本弁護士連合会の立場は、現状の刑事司法はある意味で絶望的な状況にあり、 これを改善するには国民の司法参加という大きなインパクトをもって変えるしか打開の道はないと考えて、一縷の望みをそこに託すと。 本来ならば自分たちの理想であった陪審員制度を徹底的に要求する姿勢を貫けばよかったのだが、 それが政治権力からの巻き返しになし崩し的に妥協する形で、陪審員制度とは似て非なる裁判員制度が導入されることになったというのが実際の経緯である。 その一方で、民事裁判への市民参加はなぜか見送られた。それは、民事裁判でも新たに論点整理手続きが導入されることになり、 裁判の迅速化を望んでいたアメリカ側の要求は満たされることになったと同時に、民事裁判に市民が陪審員制度などを通じて参加すれば、 アメリカの国益に反する判決が出やすいということで、それが外されたという事情・経緯があるからだ。

  当局側、とりわけ法務省や検察庁は裁判員制度導入に最初から積極的だった。ここで最大の問題は、当時の最高裁の姿勢、対応である。 最高裁は当初、プロの裁判官による裁判しか憲法は規定していないということで、「評決権のない参審制度」 ならまだ受け入れ可能だが、 裁判官と同等の権利で評決に市民が参加できるような裁判員制度は違憲の疑いがあるというのが基本的な姿勢であった。 しかし最高裁は、そうした姿勢が途中で腰砕けになって、裁判員制度が違憲か否かという問題(これとは違った観点からも憲法違反だという指摘は、 さまざまな方面からも提起されているが)を棚上げにして裁判員制度導入に積極的に協力していくことになった。 その結果、現行の刑事司法を肯定しながら、市民の司法参加を形だけ取り入れて、現行制度の大きな改変ではなくてそれを補完、 補強をする制度として裁判員制度が導入されたのである。 それはたとえば、評決をする場合に必ず裁判官が1人は入らなければならないとか、検察官に控訴権、上訴権が認められていることにも示されている。 そのため、1審の裁判員裁判でたとえ無罪判決がだされても、検察側が控訴し、上級審で逆転判決が次々に出ている。 何のための裁判員裁判かという批判が高まっているのが現状だ。

  裁判官にとっても、裁判員制度になっても何ら困らないような運営ができるようになっている。 当初、裁判官と裁判員の数についても現行制度では3対6だが、市民側は当初3対9とか2対6とか、もっと裁判官の比重を小さくするような形の提案をしていた。 しかし、そういう主張は次々とつぶされて、結局は3対6になった。こうして裁判官にとって非常に有利な形で裁判員制度は落ち着いた。 これに関連して守秘義務の問題に触れると、守秘義務は裁判員のプライバシーの秘密保護、あるいは身の危険から守るためと言われているが、 実際には評議の秘密を公開されて一番困るのは裁判官だ。裁判官が都合の悪い形で誘導しているとか、そういうことが明らかになっては困るので、 実はそれを防ぐために守秘義務が、裁判が終わった後も一生、義務として裁判員経験者に課せられることになっているのではないかと私は思う。 こうした点はあまり報道されていないし、これまで実際の守秘義務違反の懲罰適用もないので、多くの国民はその恐ろしさがわかっていないと思う。 しかし、罰金50万円以下だけでなく、懲役6ヶ月という重い実刑さえも、守秘義務違反の内容によっては科せられるのだ。

  私は先ほど、裁判員制度について違憲の疑いが強いという最高裁の主張を紹介した。 それは、国民にそのような重い負担をさせてはならないという理由ではなく、そもそも国民にそのような刑事司法判断ができる能力が備わっているのか、 そうではないだろうという観点から裁判員制度に反対する視点と表裏一体の関係だと思う。 そうした理由で裁判員制度を否定するという見方が一つあると思う。私は必ずしもそういう見方ではない。 日本弁護士連合会が一貫して言っているように、条件さえ整えば陪審員制度を日本に導入することには積極的な意味合い、意義があるという立場である。 しかし、結論的に言えば、今の裁判員制度をそのまま、 今行われている裁判員制度導入3年後の見直しの中で陪審員制度へ移行すれば問題が片づくというものではない。 私は現行の裁判員制度は即時凍結して廃止することしか最終的な選択肢はありえないと考える。 まずそれを実現した後で、現状の刑事司法が抱えているさまざまな深刻な問題(死刑制度の撤廃、代用監獄・人質司法の廃止なども含めて)を解決した上で、 教育、マスコミを通じて、国民の司法についての理解・知識を涵養し、さまざまな環境整備を行った上で陪審員制度を導入するならば、 積極的な意味合いを持つことが可能だという立場である。

  あまり触れられていない点であるが、裁判員制度と陪審員制度のどこがどう違うのか。 一般的に報道では、陪審員制度は有罪か無罪かの事実認定だけを行うもので、 裁判員制度はそれに加えて量刑判断を行うものだという程度の説明しかされていない。そのような説明はあまりにも表面的である。 裁判員制度と陪審員制度は確かに国民の司法参加という意味合いでは共通の側面があるが、両者には根本的な違い、 差異があることをまず知っておく必要がある。

  陪審員制度はプロの裁判官の裁判を市民が根本的に批判して否定する発想から生まれたものである。 なぜならば、第一に裁判官は裁判において有罪か無罪かの決定に直接関与することができない。 つまり陪審員制度はプロの裁判官を基本的に排除した制度である。そして、第二に被告人には、プロの裁判官による裁判を受けるか、 陪審員による裁判を受けるかを決める選択権がある。それはあくまでも被告人からみた人権尊重の延長線上に出てきた制度であり、 被告人に選択権が認められない裁判員制度はそこが決定的に違う。そのほかにも、検察側に控訴権がなく一審で裁判が最終的に確定する、 評決は多数決ではなく全員一致だとか、いろいろな違いがある。しかし何といっても根本的な違いは、プロの裁判官の関与を一切認めず、 それを否定すること、そして被告人に選択権を認めていることの2点を挙げることができる。 これは、現行の司法制度に何ら問題はないとしている日本の裁判官や検察官、法務省の官僚にとっては、とうてい受け入れがたい選択肢であろう。

  現在日本弁護士連合会の中の一部から、たとえば見直しの論点として、守秘義務の緩和だけでなく、死刑判決を全員一致とするとか、 被告人に選択権をあたえるという意見も出ていると聞くが、そういう提案を当局側(法務省官僚、最高裁、検察庁など)が受け入れる余地は一切ないと思われる。 それは、彼らの導入の狙いと真逆の選択であるからである。すでに当局側の法務省幹部などは、裁判員制度の見直しで法律改正の必要はなく、 ガイドラインを作って運営の改善を行えば十分だろうということで、守秘義務の緩和程度でお茶を濁すような姿勢を露骨にみせている。 日本弁護士連合会なども含めてさまざまな改善点を提起している人々も、自分たちが出している論点が、法務省官僚や検察庁、 最高裁など当局側の思惑に沿ったような改善点であれば受け入れられる余地がないわけではないが、 そうでないものは裁判員制度の本質と根本的に衝突するのだということを理解できていないのではないかというのが私の立場だ。

  厳罰化の傾向も裁判員制度の導入の前からの日本社会の病理として出ていたが、 裁判員制度導入後の判決をみれば検察側の求刑を上回るような信じられない判決も出ており、明らかにさらなる厳罰化の傾向が出ていると思う。 とりわけ性犯罪や傷害致死罪などの裁判においてはそれが顕著である。これに対して無罪判決も一部で増えているではないかとの声もある。 覚せい剤密輸などの薬物事件で無罪判決が増えているというのは確かにそうだが、それはもともと証拠が乏しく、 誰かに入れられたかもしれないとかいう問題も含めた時に、素人判断からみても有罪にもっていくには無理があるということで、 そこで無罪判決が増えているとの理解で飽きる。それは、無罪推定原則からして好ましい結果であると評価できるが、 当局側にとっては、無罪率があまりにも高まるのは好ましくないということで非常に都合の悪い結果となっているといえよう。 だからこそ、裁判員制度の対象事件から外そうという動き、提案が実は検察当局から出されていて、 その方向にそった形での見直しは行われる可能性が高いと思われる。

  裁判員制度の最大の問題点として先ほど、被告人の防御権などの権利が侵害される側面と、 社会状況とのかかわりで国民が国家に動員・統制される側面を指摘した。ここでは、それとは違う二つの観点、 すなわち、強制主義と秘密主義の問題を取り上げたい。まず秘密主義で言えば、裁判員制度導入の経緯からして秘密のヴェールに包まれていた。 ほとんどの国民が知らない間に裁判員法案が法律として通って、その後の5年間の試行期間を経て導入された。 この裁判員制度導入前後の世論調査でも8割以上の国民が反対していたにもかかわらずである。 国民の知らないうちに導入されることになったのは、やはり当時日本弁護士連合会が賛成に回ったというのが大きく影響して、 野党側も 「日本弁護士連合会が賛成しているなら」 ということで、審議もほとんどないような形で、 共産党も社民党も含むすべての与野党が賛成してこの法律が通ることになった。

  その後の5年間の準備期間で模擬裁判などの試行をしている時に深刻な問題点が次々と明らかになる中で、 裁判員制度の導入延期とか凍結の動きが一部の政治家あるいは政党の中から生まれていた(保坂展人社民党議員や小沢一郎民主党代表など)。 しかし、解散・総選挙が引き延ばされたこともあって、制度見直しを求める声が実際の運営に反映されることなく裁判員制度が導入されることになった。 それから3年たって既成事実化され、今では政党レベルで裁判員制度の廃止、凍結を唱える勢力、政治家がほとんどいなくなっているというのが現状だ。

  強制主義というのは、国会で裁判員法(正式名称は、「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」)という法律ができたから導入するという形で、 国民が知らないところで、「 勤労の義務」、「納税の義務」、「子どもに教育を受けさせる義務」 という憲法の三大義務に、 突然 「裁判員制度に参加する義務」 が加えられた形になっている。そこには重大な憲法違反の疑いがあると当初から指摘されていた。 裁判員候補の呼び出しを特別な事由がない限り断ってはならないというような規定もそうである。 その選定過程も非公開で秘密である。すべてが秘密主義でもあるし強制主義でもあると思う。秘密主義については、守秘義務だけでなく、 非常に深刻だなと思うのは、公判前整理手続きが基本的には法曹三者のみの非公開で行われることになった点である。 これは、明らかに、公開の裁判を受ける権利という憲法規定に違反する問題だと思う。 こうした 「秘密」 と 「強制」(これに 「迅速」 も加わる)は、まさに戦前の暗い時代の刑事司法の基本的な側面であって、 それが現代に復活しているのではないかと言える。

  裁判員制度の問題点については、詳しくは 「NPJ」 の論評や私の本をみていただきたいと思う。 故土屋公献弁護士(元日本弁護士会会長)が著作(石松竹雄・伊佐千尋両氏との共著 『えん罪を生む裁判員制度―陪審裁判の復活に向けて』 現代人文社、 2007年刊行))の中で、日本の刑事司法の深刻な問題点がいっこうに改善されないまま裁判員制度が導入されたことに警鐘を鳴らされている。 そこでは、「冤罪を生み誤判の温床にもなっている 『現在の救いがたい危機にある刑事訴訟制度とその運用状況』」 をまず指摘するとともに、 「こうした惨たんたる現状を改善する努力をしていたはずの日弁連が、代用監獄の廃止、取り調べの弁護人の立会い、 取調べ状況の録音またはビデオの開示。自白調書の証拠能力の否定、すなわち自白法則、任意性のない自白を排除することの徹底、 検察官手持ち証拠の全部開示、権利保釈の徹底、人質司法の廃止、判決理由の明確化、 等々の司法改革がどれ一つ実現しないまま裁判員制度に逃げ込んだこと」 を痛烈に批判しているが、まさにこれは本質的な指摘であり、 そこに裁判員制度のすべての問題点の起源をみることができる。

  どうしても不可解なのは、日本弁護士連合会おいて三分の二以上の多数の弁護士が、こうした深刻な問題点がある裁判員制度に、 現状においても賛成している人がなぜなのかという点である。「冤罪の防止につながる」 とか、 「3年間の運用をみれば冤罪防止に役立つような好ましい傾向が生まれてきている」 というような肯定的評価をしているのであるが、 何を根拠にそういう風に言えるのか。裁判員制度や公判前整理手続きが導入される前までは、 重大な冤罪事件においては検察側が死刑判決まで重要な証拠を隠し通して、 弁護側が粘り強く追及して再審が進められる中で検察側が隠していた手持ち証拠を初めて開示するというようなこと(これは、 事実上の犯罪ではないか!)が実際に行われてきた。それが裁判員制度導入後に、検察側も最初からある程度手持ち証拠を出すようになってきており、 確かにそういった検察側の証拠開示の点での一定の積極的な側面が出てきているのは事実である。 しかし、私が先ほど言ったように、検察官がなぜ一貫してこの裁判員制度に賛成、支持なのかということを考えた時、 公判前整理手続きで手を縛られるのは検察側以上に弁護側だという点が重要である。 弁護側は、公判前整理手続きの時点で重要な証言や証拠などのあらゆる手の内を事前に出さざるを得ない。 後から重要な証拠や証人が現れた場合も、それが後半で取り入れられるとは必ずしも限らない。 なぜなら、裁判員制度は被告人の権利保障のために導入されたものではなく、主役はあくまでも裁判員=国民である。 国民を統治客体から統治主体にする、「国民の理解を増進し、健全な常識を反映させる…」 ということを司法改革の眼目にしている。 また、裁判の迅速化と裁判員の負担軽減が最も優先されるため、審理は最初から3日間とか、 長くても1週間が基本だというようなレベルで運営されているからである(実際には、100日以上にもなる長期裁判も行われているが…)。

  それから、最初に言った点であるが、3対6という裁判官とか検察側に非常に有利な裁判体の構成になった。 多数決であるならば、3+6=9で、その多数決は5となる。裁判官は検事の作る調書(検面調書)に基本的に信頼をおきがちで、 判検交流で裁判官と検察官が 「馴れ合い」 一体になりやすいというのが現状の刑事司法だと思う。 たとえ弁護側が当該事件が冤罪あるいはでっち上げで被告が無実・無罪だと確信していても、6人中5人の裁判員を獲得するのはかなり困難であるはず。 その逆に検察側は、裁判官を含む3人は最初から自分たちの立場に近いということを考えれば、 あと6人の裁判員のうち2人だけを獲得すればいいという計算になる。 それを考えた時、弁護側にとって、冤罪の可能性がある裁判で無罪判決を勝ち取ることがいかに困難かがわかるだろう。 そういうことは客観的にみればすぐにわかるようなことだと思うが、 それでも日本弁護士連合会が 「裁判員制度は冤罪防止につながる」 と言い切れるのはなぜなのか、私には不可解である。

  裁判員制度が導入される前に、たとえば和歌山カレー事件(この事件は冤罪の可能性が強いと多方面で指摘されているし、 私もそのように考えている)の林真須美被告、今は死刑囚となられている方が、裁判員制度導入にあたって林さんが言われた言葉も非常に重いと思う。

  「最高裁判決があったが、わたしは犯人ではない。カレー事件には全く関係しておらず、真犯人は別にいる。 すべての証拠がこんなにも薄弱で、犯罪の証明がないにもかかわらず、どうして死刑にならなければならないのか。 もうすぐ裁判員制度が始まるが、同制度でも死刑になるのだろうか。無実のわたしが、国家の誤った裁判によって命を奪われることが悔しくてならない。 一男三女の母親として、この冤罪(えんざい)を晴らすため、これからも渾身(こんしん)の努力をしていきたい。」(『産経新聞』 2009年4月21日付)

  実際に裁判員制度でも死刑判決が複数出されているが、そのなかには冤罪の可能性が疑われる事件もある。 たとえば具体的な事件としては、練炭殺人と言われた首都圏での結婚詐欺、 連続不審死事件の裁判員裁判で木嶋佳苗被告に死刑判決(2012年4月13日)が出ている。 鳥取の連続不審死事件でも上田美由紀被告に最近、死刑判決(2012年12月4日)が出ている。 この2件の事件については、状況証拠だけでのかなり無理な推論による有罪・死刑判決が出されており、私は冤罪の可能性がかなり強いと思っている。 もし裁判官によって裁判員に対して有罪・死刑判決への意図的な誘導がなされたとすれば実に重大である。

  ここで最大の問題は、これまで述べたように裁判員制度では秘密主義が一貫しているので、 3年後の見直しを行うといっても守秘義務の壁に阻まれてこれまでに実施された裁判員裁判の具体的な検証が十分にできない、 とくに冤罪であるかどうかを検証することが著しく困難になっていることである。

  志布志事件があった鹿児島では、裁判員裁判としては初めて検察側による死刑求刑がなされた鹿児島高齢者夫婦殺害事件があった。 これは非常に異例の事件で、被告のものと同一とされたDNAや指掌紋があったにもかかわらず、結果的には無罪判決が出されて、 「健全な市民感覚の反映」 だというような、裁判員裁判のいい傾向が表れた判決として一般的には報道されている。 しかし、この事件でも実は、まかり間違えば有罪判決、死刑判決が出た可能性が強い。 なぜならば、殺人の態様が非常に残酷で被害者が複数(2人)であっただけでなく、 白濱政弘被告は一貫して否認していたので反省の念がなく情状酌量の余地がないとみなされて、 有罪であるならばその後の量刑は間違いなく死刑になったであろうと言われているからだ。 もしこの事件で無罪判決ではなく有罪・死刑判決だったら、先ほど挙げた二つの事件以上に明白な冤罪事件であったと言い切れると思う。 結果的には、この事件については鹿児島地裁で無罪判決が下されたのであるが、それは平島正道裁判長の強い意向があってのことであって、 一般に報道されたような裁判員の健全な常識や市民感覚が生かされた結果であるとは思われない。 裁判長が積極的な訴訟指揮を行ったというのは、公判の進め方だけでなく、 高度な刑事司法判断による複雑な論理構成がなされている判決文の内容をみてももうかがえる。 また一般の感覚から言えば、「(被告と同じ)DNAと指掌紋があるのになぜ犯人じゃないの?」(これは被害者遺族の主張でもあった!) というのがむしろ普通の市民感覚であったと思うからである。しかし、こう無罪判決に対して検察側がただちに控訴している。 また逆転有罪(死刑)判決が下されるとも予想された福岡高裁宮崎支部で控訴審が開かれる前に被告が病気で死亡たため、 最終的な判決が確定されることなく裁判が打ち切られるという状況になった。

  もしかしたら裁判員裁判でも、すでに冤罪に市民が加担させられるようなことさえ起こっているかもしれないということを考えた時、 裁判員制度導入はやはり取り返しの出来ない誤りであったといわざるを得ない。ただでさえ死刑判決に、自分は無実で無罪だと確信していた人でさえ、 多数決で有罪とされたならば、その後の死刑判決にも間接的に加担させられるというのはあまりにも過酷である。 その精神的なトラウマで、場合によっては自殺者が出るかもしれない。とりわけ、冤罪であることがわかれば、そういった傾向・可能性はより強くなるであろう。 実際にそういう事件がすでに起きている可能性さえあるというのに、 それでも裁判員制度は 「冤罪の防止につながる」 と主張される弁護士さんたちはどういう風にとらえているのか、 直接あってお聞きしたいというのが私の率直な思いである。

  裁判員制度の大きな問題点としては、死刑制度との関連以外に、裁判員法成立時には想定されていなかった被害者参加制度との一体化という問題がある。 その弊害がどのような形で起きているのかを、先ほど取り上げた鹿児島高齢者夫婦殺害事件で考えてみる。 この事件の結審の時に、千人以上もの傍聴希望町希望者がいたが、私は幸運にも抽選が当たって傍聴することができた。 その結審では、検察側と弁護側の最終陳述だけでなく、被害者遺族の方4人の意見表明と被告の意見表明が午前と午後に分けるかたちで行われたが、 それを身近で聞けるという貴重な体験だった。被害者の遺族は、非常に残酷な殺され方をした両親のことを思って、「極刑を望みます」 と強く言う。 それを裁判員たちは直接聞かされる。裁判員制度と被害者参加制度との一体化によって、裁判員は単に検察官の補佐的な役割を負わされるだけでなく、 遺族感情・被害者意識との一体化でより感情的な魔女狩り裁判になる傾向に拍車をかけることになったというのが結審を傍聴した私の実感である。 それは、無罪判決が出た時の記者会見で、 裁判員の方たちが 「遺族の方には申し訳ないですが」 という言葉わざわざつけながらコメントをするという異常な光景にもあらわれている。 また、無罪判決が出た翌日の新聞・テレビで、被害者遺族の方が、「被告が犯人であることを今でも確信している、控訴を強く望む」 という発言をして、 それがそのまま当然であるかのように報道されていることにも大きな問題がある。

  一般に新聞・テレビは、一審で無罪判決が出た時には裁判員制度導入のプラスの成果だという風に大きく報道するが、逆転有罪判決が出た時には、 この判決は1審の裁判員裁判の判決を無視するもので、そもそもの裁判員制度の趣旨にも反する、というような報道はほとんどしない。 だから裁判員制度の問題でも、やはりメディアの問題が深刻な問題として挙げられる。 常に被害者、遺族の立場に感情移入したかのような報道が一貫してなされており、 そのメディアの報道によって裁判員となった市民だけでなく将来裁判員となる市民までが大きな影響を受けているのである。 判決後のコメントで、「新聞各紙など、メディアの情報を参考にさせてもらった」 ということを堂々と言われる裁判員の方も出て来ており、 これは予断排除の原則からすれば大きな問題である。 本来ならば陪審員制度のように裁判員もすべてホテルなどに缶詰めとなってメディア情報から遮断される環境を整備する必要があるはずだが、 それが一向になされておらず野放しにされている。 それが、検察側の求刑以上に重い判決を出すという魔女狩り手的な裁判員裁判にもつながっているという事実をここでは強調しておきたい。

  公判を開始する前に予断を持つという点では、裁判官も一緒である。日本の裁判員制度では、公判前整理手続きと、 公判を実際に担当する裁判官は同一人物となっている。だから、裁判官は裁判が始まる前から、すでに公判で論じられる資料を全部読んでいて、 何日間でどういう形で裁判を進行するかという筋書きだけでなく、有罪か無罪かの事実認定だけでなく、 具体的な法の適用と量刑判断についての結論さえ予断としてほぼ全部でき上がっている可能性が高いと思われる。 裁判員裁判で同じ裁判官が公判前整理手続きだけでなく公判も担当するのは、非常に重大な制度的欠陥であることは明らかである。 この欠陥については、実は最高裁なども制度導入前から、現状においては人員方不足でそれを実現する条件が無いことを事実上認めていたのである。 それでも、自ら欠陥があると認めた問題でさえあえて棚上げにして裁判員制度を見切り発車したというのが実情である。

  すでに裁判員裁判は破綻していると私が思うのは、現在でも裁判員制度に積極的に参加する国民は非常に少数派であって、 圧倒的多数は裁判員裁判には消極的か反対の立場だからである。裁判員候補に参加する人々の数は、これも法務省の世論操作で隠されているようだが、 実は85%ぐらいの国民が拒否をしているとも指摘されている(「裁判員制度はいらない!大運動」 の通信を参照)。 罰則規定もあるのだが、現実にはあまりにも裁判員の候補を辞退する人が多くて一切適用することができない。 圧倒的多数の人が、実は理由無しも含めて、裁判員になることを拒否しているというのが実情だ。

  そしてもう一つ、裁判の迅速化をうたって始めた裁判員制度であるけれど、実際には公判前整理手続きと公判の両方においてかなり滞りができている。 裁判官の人員を公判前整理手続きに重点的に配置すると、公判が滞る。逆に、公判の方を優先させると、公判前整理手続きが滞る。 そのため本来なら裁判員裁判でやらなければならないような裁判さえも、裁判員裁判で行うことができなくなっている。 公判が引き延ばされることよって被告人への人権侵害が生じているだけでなく、 裁判官たちも睡眠時間を削って対応使用にもすでにその限界をはるかに超えていると悲鳴を上げているのが実情である。 私が恐ろしいと思うのは、このような裁判員裁判ついての実情や問題点が、メディアではほとんど報道されないし、 学者や弁護士などからも何の指摘もされないことである。 また、裁判員裁判を経験した人たちもそうした問題点をメディア関係者にしゃべったりはしているが、 それをメディア側が意図的に排除・封じ込めて報道していないという現実がある。 この問題は、今日は主題ではないので詳しくお話できないが、まさに小沢問題にもそのまま表れている。 検察のリーク情報だけを伝えることでメディアは検察側に加担する形で小沢氏を犯罪者扱いする報道に終始してきたという問題にも重なる。

  検察審査会問題に関連して言うならば、私は検察審査会の存在自体には運用次第ではプラスの側面があると思う。 これは、刑事裁判に市民が参加する場合についても、陪審員制度という形を、条件を整えた上で実施すればプラスの側面があるという見方と一緒である。 それは、検察が起訴権を独占しているという現状の一角を切り崩すものであり、検察審査会の本来の趣旨から言えば、 検察側が仲間内の犯罪を隠蔽するような事例にこそ、その威力を発揮すべきだと考える。 たとえば検察審査会に提出する捜査報告書を捏造した田代正広検事の場合、最高検は2012年7月9日、 虚偽有印公文書作成などの容疑で告発されていた田代検事を不起訴処分(嫌疑不十分)としたが、 それを不服とする市民有志が今度は検察審査会に提訴してそれを審査しているというケースである。 それとは逆に、検察当局からあらゆる疑いをかけられて、強制的な家宅捜索だけでなく、秘書と本人からも何度も事情聴取をした上で、 結局嫌疑不十分で二度も不起訴になった小沢一郎氏を、新たな証拠・証言も無いまま、 検察審査会が匿名の市民による告発を受理したというのは不可解である。 しかも強制起訴による裁判の第一審においても無罪判決が出た人をあえて控訴したのは、法的根拠卯が疑われるだけでなく、 検察審査会の本来の趣旨・存在意義をねじ曲げる権力の恣意的乱用であると言える。 さらに無罪判決が確定した今日においても、 無罪ではあっても無実ではないというような安倍自民党総裁の発言があたかも道理があるかのように報道しているマスメディアの現状には非常に恐ろしいものがある。

  検察審査会の悪用という意味では、検察官だけでなく裁判官も加担しているという疑惑が浮上している。 検察審査会の事務局を運営しているのは最高裁事務総局であるが、単に検察側(田代元政弘検事だけでなく、その上司である佐久間達哉元特捜部長、 大鶴基成元次席、木村匡良元主任検事、斎藤隆博特捜副部長、 吉田正喜元副部長なども含む)による捜査報告書の捏造で検察審査会の結論を二度目の起訴相当議決に誘導したという問題だけでなく、 最高裁事務総局さえもそれに 「架空議決」 という違った形で加担しているという疑いさえ出ているのである(森ゆうこ著 『検察の罠』 日本文芸社、 2012年5月刊行、郷原信郎著 『検察の崩壊 失われた正義』 毎日新聞社、2012年9月刊行、志岐武彦、 山崎行太郎共著 『最高裁の罠』 ケイアンドケイプレス、2012年12月刊行などを参照)。 このように、検察審査会というのは使い方によっては、検察側がまともにやっては起訴できない、権力にとって危険な人物を、 市民を動員した検察審査会を利用する形で追い落とすことができるということが今回の小沢裁判を通じて実際に証明されたといえよう。 それによって小沢氏は二度目の総理になるチャンスをつぶされたことになる(なぜなら、民主党代表選当日に、 二度目の起訴相当議決が出されたことになっており、それが代表選出の直前に伝えられたため投票結果に大きな影響をあたえたと言われる。 もちろん、一度目は、西松建設事件での大久保隆規秘書逮捕によって小沢氏が民主党代表を辞任することになったことである)。

  このようにして小沢問題(小沢一郎氏に対する冤罪と報道被害の問題)にも検察審査会が深く関与しているのも重大な問題であることはいうまでもありません。 またこれまで述べたように、 裁判員制度・裁判員裁判において同じように冤罪と報道被害への市民とメディアの加担という重大かつ危険な運用が刑事司法への国民参加、 市民参加という民主主義の拡大の名のもとになされているという実態があるということを多くの皆さんに知っていただきたいと思います。 以上で私からのお話を終わります。
(「アジア記者クラブ通信」 2013年2月号に掲載)