2009.7.30更新

「裁判員制 潜む危うさ 推定無罪は守られるのか
 強制参加、統治側に加担へ」

木村 朗 (鹿児島大学教授、平和学専攻)

  裁判員裁判が間もなく始まる。この制度が成立するまでの経緯で改めて不可解なのは、陪審員制度の復活・実現を長年追及し続けてきたはずの日弁連が、 ある時点から裁判員制度の導入に転換・同調したことである。 5年前に衆参両院で超スピード審議で与野党一致で採択されたという驚くべき経緯もこうした日弁連の姿勢と無関係ではあるまい。 また当時、年次改革要望書 などを通じた米国の圧力や財界の意向を背景に、規制緩和路線の一環としての米国型の訴訟社会導入を前提とするロースクール創設や、 裁判の迅速化を優先課題とする司法改革に帰結したという事情も注目される。
  裁判員制度は、司法への市民参加を同じ謳い文句にしながらも、市民のみが事実認定をする陪審員制度とは本質的に 「似て非なるもの」 である。
  陪審員制度は従来の職業裁判官裁判への懐疑から生まれたものであり、被告人に裁判方式を選択する権利を認めている。 職業裁判官とともに事実認定だけでなく量刑判断まで行うのが裁判員制度であり、被告人に選択の自由はない。 裁判員と職業裁判官との間の圧倒的な知識・経験の差や公判前手続きからの裁判員の排除などから、 裁判員裁判が裁判官主導となり従来の職業裁判官裁判を補完・強化する結果を生むことは必至である。 裁判員制度には様々な争点があるが、本当に無罪推定原則の徹底と冤罪防止につながるのか、また国民の司法参加がはたして民主主義の拡充になるのか、 という二つの問題をここでは考えてみたい。
  第一の点では、裁判員制度は、志布志事件や足利事件に見られるような冤罪や誤判を生じさせる現在の日本の刑事司法が抱える深刻な構造的欠陥 (人質司法・代用監獄、自白獲得中心主義、別件逮捕勾留、高すぎる有罪率、判検交流による両者の癒着など) を必ずしも是正するものではなく、 むしろ冤罪や誤判を増加させる恐れが強いとも言える。なぜなら、すでに導入されている非公開の公判前整理手続では、 従来の弁護活動で用いられてきた無罪獲得の様々な手段や方法が使えなくなる一方で、それに代わる有効な方策・対抗手段も見つけにくいからである。
  つまり、第1回公判が始まる前の段階で争点整理が強行される公判前整理手続では、 被告人・弁護人側は原則的に初期段階でその全ての証拠の証拠調べ請求をさせられるが、 その一方で検察側が握っている全ての証拠の完全開示を行う保障が必ずしもないため、結果的に被告人・弁護側の防御活動が著しく困難になることが予想される。
  また、裁判員制度では、裁判員の負担軽減のために裁判の迅速化が最優先され、事件の真実発見や裁判の公平性・正確性が犠牲にされる可能性がある。 そして何より問題なのは、日本では先進国ではまれな死刑制度が存置されたままであり、 その結果、裁判員裁判では冤罪・誤判による死刑判決の決定に多数決という形で一般市民が否応なく加担させられる場合もあり得る。 まさに 「世界に例のない野蛮な制度」 (郷原信郎弁護士の言葉) と言えよう。
  第二の点は、裁判員制度導入による国民意識の変化と社会体制の変容という、刑事司法の枠を越えた日本の民主主義と人権にかかわる問題である。 2001年6月に小泉政権に提出された 「司法制度改革審議会意見書」 は、司法改革が 「国民の統治客体意識から統治主体意識への転換」 を促すものであるとしている。 つまり、国民を刑事裁判における処罰作用・制裁行為という強権的統治に強制的に参加させて、 治安の維持と社会の安全を担う国家の責任ある統治主体へ作りかえることを最大の課題にしているのである。
  被害者参加制度の導入と裁判員制度との組み合わせは、裁判員となる一般国民を被害者・検察官側に立たせて、 現在の刑事司法の有罪推定と厳罰化の傾向に一層拍車をかける結果を生むおそれがある。
  日本の裁判員制度は、被告人に選択肢を与えず強制的に選ばれて裁判員となる一般国民に処罰付の厳重な守秘義務を課すとともに、 無実と判断した場合にも量刑判断に加担することをも強いるものである。 報道被害を繰り返してきたメディアにも、「裁判員の予断排除」 の名目から様々な報道規制が改めて浮上する可能性がある。
  このように裁判員制度は、秘密主義・強制主義の色彩の濃いものである。有事法制の一環としてすでに導入されている国民保護計画と同じく、 国家統制を日ごとに強めつつある現代日本の 「新たな国造り」 に向けた、国民総動員のための重要な道具の一つとして機能する可能性が強いという声も上がっている。 裁判員候補者通知書が 「現代版赤紙」 と呼ばれるのも、そうした懸念があるからであろう。 行政による司法の支配強化によって三権分立という民主主義の根幹が脅かされ、人権侵害が多くの分野で拡大するという事態も十分に予想される。
  既成事実の重さに圧倒されて思考停止に陥るのではなく、この裁判員制度が持つ危険な本質に真正面から向き合うことがいまこそ一人ひとりの国民に求められている。 裁判員制度の凍結・廃止と陪審制の復活・実現は今からでも遅くはない。
(『朝日新聞(九州・沖縄版)』 2009年7月10日付の夕刊/11日付朝刊に掲載)