音楽・女性・ジェンダー ―─クラシック音楽界は超男性世界!?
第1回 音楽・女性・ジェンダー ―─クラシック音楽界は超男性世界!?
私は本年3月末、35年間の音楽大学教員生活を終えた。
65歳の定年制に従ったまでだが、正直、ヤレヤレと言う気持ちでいっぱい、未練はほんの少しだけ。
折に触れ学生たちの真摯な反応に出会えたこと、そうした学生たちと友人として長きに渡る濃い付き合いが出来そうなこと…
これぞ教職の特権にして最大の喜びといえるだろう。だがそれを別にすれば、在職の後半分はとりわけ、場違いな居心地の悪さに悩まされ続けた。
理由は…上野千鶴子の言葉を借りれば、「学問界隈ではジェンダー研究者を名乗ってよいことは何もない」、
まさにその 「ジェンダー」 問題に目から鱗の衝撃を覚え、15年来どっぷりと漬かってしまったからだ。
端的にいえば、もっぱら男の領分と信じられてきた作曲家に、実は女も多数いたという史実の喧伝にこれ勤め、
結果的に音楽業界では全く評価されなかった…勤務先では紛うことなき窓際族として終えた次第である。
「女性作曲家」 は何故そんなにあり得ないことなのか。
文学や絵画では女性のビッグ・ネームはいくつも知られているのに…もちろんポピュラー音楽の世界ではシンガー・ソングライターとして著名な女性も多数いるが、
ここでいう 「作曲家」 はあくまでアカデミズムのお墨付きを得ているクラシック界のこと、
しかも 「ソング=うた」 より大編成のオーケストラが響き轟かせる器楽曲…ベートーヴェンの交響曲 「運命」 が一番わかりやすいシンボルかも…
を作り上げる人物を指すのだ…このイメージに女性がそぐわないのは、はなから納得されよう。
だが 「音楽」 が人に与える喜びや感動は、何もそうした大げさな体裁からばかり生まれるのでは決してないはず…それこそ歌も楽器も、
たった一人から数人の小さなアンサンブルまで、様々な可能性がある。私見では 「大きなことは悪いこと」 とさえ言いたいのだ。
声量の大小がコンクールでも真っ先に審査の対象とされる歌い手、微妙な繊細さを犠牲に大きな音を出すべく 「進化」 させられた楽器たち、
それに見合うべく拡大したホールとその音響設計…どこもかしこも、つまりは 「強者」 の、
もっといえば 「男性的」 な側面が支配しているのが現今のクラシック音楽界なのであるが、
それを象徴するのが小中校の音楽室の壁に今もって健在な男性ばかりの 「大作曲家」 肖像群であろう。
「現今の」 と断ったのはほかでもない、音楽ファンが最も一般的に慣れ親しんでいるモーツァルトからドビュッシーまで、
つまり18世紀から20世紀初頭までの音楽状況は今とはかなり違っていたからである。
何より、大きなコンサート・ホールやオペラは例外で、音楽する現場は貴族の私邸や市民の客間などが圧倒的多数だった。
そうした小ぶりで親密な場、言い換えればサロン風な空間を取り仕切るのが女性であったからには、
実際にそこで聴かれた音楽が上に述べたような大仰な造りであったはずもない。まさにここでの主役は歌とピアノ独奏。
そしてこの二つのジャンルこそ、19世紀中に少なくとも2000人は確認済みのクラシック系女性作曲家がもっとも得意としたものだったのである。
今回、本紙面に連載させていただくことになったきっかけは、私が昨年開催した 「女性作曲家音楽祭」 のガイドブックをNPJ代表の梓澤和幸氏にお届けしたことだった。
5日間、12コンサートからなるその 「音楽祭」 では、上記の時代に属するおよそ30人の女性のピアノと室内楽を取り上げたのだが、
梓澤氏が実際にはお聴きいただけなかったにもかかわらず、私に連載をお申し出で下さったのは、一個人の編集になるそのガイドブックからさえ、
「女性作曲家」 がかつて確かに存在した、
さりながら現実の音楽界は男性作曲家ばかりを軸に全てが動いている…そのギャップの奇異を放置できぬと見抜かれたからだろう。
そこで次回から、まずはこの 「音楽祭」 を通して炙り出された 「クラシック音楽と女性」 をめぐる問題点を、当事者として整理・回顧して見たい。
どうぞよろしくお付き合い下さい。
2008.6.7
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