2009.2.7

音楽・女性・ジェンダー
―─クラシック音楽界は超男性世界!?
小林 緑
目次 プロフィール
第9回
モーツァルト時代の女性作曲家たちと音楽の「女性性」

  西洋クラシックの作曲家のなかで日本人に一番人気が高いのは…? 年末の 「第九」 洪水を思い返せば、「ベートーヴェン」 が正解かもしれない。 だがやたら気ぜわしく急き立てられるようなこの国の年越しをなんとか乗り越えさせるための、これは興奮剤のような効果を見越してのことではないか。 むしろ年間を通じて、様々な角度からの情報を集約すれば、おそらくモーツァルトのポピュラリティに敵う人はいないのではないか、と愚考するが、いかがであろう。 なにしろ 「モーツァルト協会」 など、その名を冠して定期的に活動している愛好家組織やサークルが何種類もあるのだから…というわけで、 今回はモーツァルトと同時代の女性作曲家をめぐる、最近の情報も取り込んだ雑文で、お許しいただきたい。

  モーツァルト生誕250年の2006年は全世界的に各種イヴェントで沸き返り、NHK総合テレビでも 「毎日モーツァルト」 と題して代表曲にまつわる映像を一年間連続流したものだ。 ところがその250年の前倒しの形で2005年11月18日から20日の3日間、オーストリア放送協会ホールでは 「モーツァルト時代および今日の女性作曲家たち」 という連続コンサートと研究発表およびシンポジウムが実施されていた。 以前にも記したと思うが、私にとって 「今日=現代の女性作曲家」 の活躍ぶりは、男性中心史観を覆すには何の役にも立たない。 それゆえ本稿は 「モーツァルト時代の女性」 だけに絞ることをお断りした上で、手始めにこれについての私の新聞記事 (2006年3月3日、 読売夕刊 “海外の文化” 欄掲載) から抜粋してみよう (なお、本件についての詳しい報告は <女性と音楽研究フォーラム> 会報第6号 [2006/5/20発行、 p.16-18] の玉川裕子氏の論考を参照されたい)。

  「…既存資料が示す当時の女性作曲家はおよそ180人。今回は14人の実演つきを含む94人の名前が紹介されたとのこと。 いまだ正規の女性団員を認めないウィーン・フィルの本拠地でこの動き…かつていささかモーツァルト研究に携わり、今は 「女性と音楽」 に専心する私としては感無量だ…。
  その作曲能力は疑うべくもないモーツァルトの姉ナンネルにおける音楽創造への内的葛藤。 自作として確認できるのは歌ひとつだけというマリー・アントワネットを 「作曲家」 とよぶことの当否。 女性ながら当時最高のピアノ製作者とみなされたナネッテ・シュトライヒャーの実像。同時代の重要な作曲家コズレフの娘カタリーナのピアノと作曲両面における高い評価。 有名なマリア―テレジア・パラディスの 『シチリエンヌ』 贋作説の根拠。女性作曲家に関する各種情報が音楽学から無視され、正当に扱われていない現状…
  以上は多彩な発表内容のほんの一例だが、実際の作品はどうか。モーツァルトの評伝にも登場するマリアンネ・マルティネスのピアノ曲や宗教カンタータ、 タルティーニの薫陶を受けたマッダレーナ・ロンバルディーニ=シルメンの弦楽四重奏曲、 その優美な肖像画が今回のプログラム表紙を飾ったフランツィスカ・ルブランのヴァイオリン・ソナタなどはすでにCDがある…」。

  以上、小さな記事の枠内にできるだけ詰め込んだ名前からでさえ、モーツァルト時代の多彩な女性の実績を窺い知ることは出来よう。 シュトライヒャーのような楽器製作者としての女性の存在はとりわけ新鮮な驚きだが、他にも楽譜彫版、出版・販売、劇場支配人など、 音楽にからむ様々な業種で実績を残した女性達については、すでに他所で触れたことがある (小林 緑 「モーツァルト時代のジェンダー: マッダレーナ・ロンバルディーニ=シルメン (1745-1818) の事例を通して」 『モーツァルティアーナ:海老澤 敏先生古希記念論文集』 所収、2001, 東京書籍)。 なお関連する情報源として 「マリアンネ・マルティネス―18世紀ヴィーン最高の “アマチュア”」 『女性作曲家列伝』 所収、1999, 平凡社も参照されたい)。

  改めて作曲=創造に戻れば、18世紀全体で実は200人ほどの女性が作曲活動をしていたことが確認済みだ。 ほんの数例をあげれば、ロンドンで自作のみによる大規模な演奏会を挙行、画家としても名を成したエリザベッタ・ディ・ガンバリーニ。 オペラ歌手の両親のもと、フルートや鍵盤楽器用の器楽曲集を10代半ばから出版しながら、27歳で結婚後は杳として消息が絶えてしまったヴェネツィア出身のアンナ・ボン。 対位法様式の宗教声楽作品で高く評価され、モーツァルトと同じくボローニャの名高いアカデミーにも迎えられたローマのマリア=ローザ・コッチアなど…

  最後に挙げたコッチアが没したのは1833年だが1759年の生まれだから、今年が生誕250年に当たる。 マルティーニ、メタスタジオ、ファリネッリといったモーツアルト文献でもお馴染みの最も影響力ある当時の音楽人たちが、 その早熟の才を讃えた書簡を書き残したと伝えられているが、『ニュー・グローヴ女性作曲家事典』(1994) によれば、1783年作の4声カンタータを除き、 成人後の彼女の情報は全く残っていないとのこと。

  ところが同じ生誕250年に当たる女性がもう一人いた。上記報告でも簡単に触れたマリア―テレジア・パラディス (Maria Theresia Paradis 1759−1824) である。 モーツァルトがピアノ協奏曲K456を捧げたことはつとに知られているが、さらにハイドンもピアノ協奏曲を、サリエリからもオルガン協奏曲を献呈されているこのパラディスを、 今回は主要なテーマとしたい。問題の 「贋作説」 にも言及した詳細な新しい評伝 [Fürst, Marion, Maria Theresia Paradis…Mozarts berühmte Zeitgenossin, 2005, Bölau] が出たことも、このところ記念年を執筆対象やコンサート企画の決め手としている私にとっては、眞に都合がよいからである。


パラディスの銅板肖像画 (1784年、ファウスティーネ・パルマンチエ作)

  オーストリア高級官吏の一人っ子としてウィーンに生まれたパラディスが、突然視力を失ったのは3歳半ばを過ぎた冬の夜明けのこと─― 原因は前夜自宅前で聞こえた異様な叫び声につられ外に出、長時間湿った冷気にさらされたこと、またはその大騒ぎから激烈な恐怖に襲われたこと、 あるいは頭部に塗る水銀性軟膏を長期間誤用していたことなど、説は分かれいまだ特定されない。 磁気療法で有名なメスマー博士などによる懸命な治療も効なく、盲者として一生を送る運命が定まったが、娘の将来を案じた両親から万全の音楽教育を受け、 早くも11歳にしてマリア・テレジア帝─―命名の因も当然この女帝にあった─―から年金恩賜の決定を獲ち得たほどだった。 もっともこの年金は後継者ヨーゼフ二世により、女帝逝去の1780年、中断・停止されてしまうのだが…

  ともあれサリエリやコズレフの指導のもと、パラディスは16歳までに歌手および鍵盤奏者としてヴィーンの宮廷やサロンで高い評価を得ていた。 とりわけ鍵盤演奏上の天才ぶりは、折りたたみ可能な携帯ピアノで続行したツァーでも60以上のソナタや協奏曲を常時 (もちろん暗譜で!) 弾けたという。 1783年に開始したそのコンサート・ツァーはパリ、ロンドン、プラハを目指すおよそ4年がかりの大旅行だったが、 最初に訪れたマンハイムではもともと一家の知り合いで彼女の熱烈な賛美者でもあり、 のちに声楽曲のテキストをいくつも提供することになるヨハン・リーディンガーと再会している。
  一般的に女性の公開演奏が禁じられていた当時、こうした活動が出来たのも、まだ性的存在とは看做されない子供であったことと、 かつ盲目という運命を背負った女性が舞台上で媚態を振りまくとは考えられなかったからであろう (フライア・ホフマン 『楽器と身体』 p. 190他)。 加えて、最後まで誠実な生涯の伴侶となったリーディンガーが同道していたことも大きかったのではないか。 ところが1794年、常に娘の楽旅に付き添った母が死去、全面的な後ろ盾となっていた父も1808年に喪って後は、 生計の必要にも迫られ自宅で女性と盲人のための音楽院を開設したが、貧窮のうちに神経熱のため64歳で世を去った。

  作曲家としては1786年に旅日記の体裁を取る12の歌曲集が初出版となったが、大旅行の合間に歌曲とピアノ独奏曲を手がけたようだ。 最も旺盛な作曲時期はフランス革命勃発からのおよそ10年で、この間少なくとも5つのオペラと3つのカンタータを書き上げている。 なかで目に付くのは 『レオポルト二世追悼』(1792)、『ルイ十六世の悲運に寄せるドイツの記念碑』(1793) といった政治的内容のカンタータ。 後者はフランス国王処刑の翌年ヴィーンのレドゥーテンザールにて実際に上演された。
  しかし、1797年再度訪れたプラハにてオペラ 『リナルドとアルチーナ』 を上演したが失敗、以後作曲活動から遠ざかり、教育にエネルギーを注ぐようになる。 リーディンガーが案出した点字楽譜板により、自作を書き込むばかりか他者作品も解読できたパラディスはまた、 1784年、ツァーの大きな目的地であったパリで “盲者の父にして伝道者” と呼ばれたヴァランタン・アユィ Valentin Hahüy に協力、 フランス初の盲人学校開設にかかわったと伝えられている。


リーディンガー考案の点字楽譜板 (1810年、“音楽一般新聞” 掲載)

  なお、上記点字楽譜板の仕組みを詳細に解説した 『一般音楽新聞』 の記事 (1810年10月31日号、第57巻) 全文と図版が、ヒュルストの伝記にそのまま転載されている。 『シチリエンヌ』 以外の音源がなかなか現れない今、こうした評伝やマツシタの博士論文 (1989) などを契機に、知られざる女性作曲家のみならず、 天才性や贋作の歴史、そして演奏者のジェンダーや障害者問題までをカヴァーする視座が開けたのだから、パラディスには改めて感謝したい。

  さてパラディスの作で現在唯一広く知られているのが旋律楽器とピアノ伴奏による 『シチリエンヌ』。 夢見心地の優美な曲想で鍵盤独奏版ともどもアンコールで頻繁に聴かれるが、在世中は出版されず、楽譜も見つかっていないことなどから、 近年はウェーバーのヴァイオリン・ソナタ (1810) の第二楽章をサミュエル・ドゥシュキンが編曲、パラディスの名で出版したとする説が有力になってきた。 この偽作説を立てたアメリカのマツシタ・ヒデミに対し、上記ヒュルストはウェーバーとパラディスが互いの作品をよく知る環境にあったことや、 ドゥシュキンの出版がパラディスの没後100年記念に当たることなどを踏まえ、決定的証拠がない以上、パラディスの作品目録からこれを外すのは正当でないと主張。 ウェーバー作品と伝パラディス曲が確かに酷似しているという以外に、真偽に関して私はいうべき材料を持たないが、たとえマツシタの偽作説をとるにせよ、 ここでは編曲者にその名を騙る策略を思いつかせるほど、パラディスの名声が確たるものであった証左と捉えておくことにしたい。


ルブランの肖像画 (1780年、トーマス・ゲンズバラ作)

  「…とくに生没年がまったく同じというルブランの様式感はまさにモーツァルトそっくり! 加えて彼女たちはみな優れた歌い手でもあった。 調和の取れた響きと旋律性豊かな表現…モーツァルト時代を画す特質は、そのまま彼女たちの音楽の美点として説明されよう。」 例の新聞記事の結びをしつこく最後にも引っ張り出したのは、 今回のそもそもの発想源であるモーツァルトのポピュラリティの拠って来るところをもう一度確かめたかったからだ。 パラディスが歌い手としても評判を呼んでいたことは上記の通り。みずから歌ったか否かは知られないが、同年生まれのコッチアも、もっぱら歌声のために作曲した。 近代市民社会に形成された交響曲中心の作曲家観とは異なり、あくまで “歌ごころ” に根ざした別の作曲家像が、 貴族文化の名残濃いモーツァルト時代の女性達を通して、くっきり浮かび上がってくるのではないだろうか。


コッチアの肖像画 (年代不詳、伝アントニオ・カヴァルッチ作)

2009.2.7