音楽・女性・ジェンダー ―─クラシック音楽界は超男性世界!?
第17回
クラシック音楽の問題点(3)
谷戸基岩
●20世紀のクラシック音楽とは
クラシック音楽の20世紀をどのように考えるのか? これも私がずっと不思議に思っている問題点だ。
コンサートで演奏される1920年代以降のレパートリーには二つのタイプがある。ひとつは 「前衛」 を標榜するような作曲家たちの作品、
もうひとつは 「前衛」 には特にこだわらず既存のあらゆる語法を駆使して自由に創作された作品。前者は 「現代音楽」 という範疇でクラシック音楽の世界では語られる。
これに対して後者はその前衛性の欠落によってまともに評価の対象ともなっていないように思われる。
私が個人的に好きな20世紀の作曲家たち、アレクサンデル・タンスマン、マリオ・カステルヌオーヴォ=テデスコ、
マヌエル・ポンセといったほぼあらゆるジャンルにわたって作品を遺しているものの今日ではそのギター作品によって有名な人々、
あるいは管楽器奏者にとって看過できない存在であるジャン・フランセ、ウジェーヌ・ボザ、
ジャン=ミシェル・ダマーズといった人々が20世紀のクラシック音楽の歴史を語る上で積極的に話題にされることはない。
それは彼らが前衛的な作品は多少あったにしても、聴衆を意識した判り易い作品を数多く書いており、
それらが演奏会で活発に取り上げられているためではないかと考えられる。
つまり演奏の現場で人気を博すことと、「現代音楽業界」 で評価されることとは全く乖離してしまっているのだ。
本当にこれでいいのだろうか? 私は全体史としてのクラシック音楽は1920年代で終わったと考えることにしている。
すなわちSP盤の電気録音が登場しラジオ放送が開始されたこの時代が、
19世紀から続いていた 「楽譜依存型19世紀音楽」 であるクラシック音楽の全体史の終焉だったのではないかと思うのだ。
1920年代以降のクラシック音楽は作曲家個人々々の歴史の中で語られるべき筋合いのものではないか。
長らく19世紀以降のクラシック音楽と1960年代ロックの歴史を見較べて来て、私は両者に共通する歴史的展開があるのではないかと考えている。
それについて今回は記してみたい。
●「音楽産業力学」 もしくは 「ロマン派的展開」
それ以前の時代はともかく、19世紀以降のクラシック音楽は不特定多数に楽譜というソフトを販売することによって音楽を提供するシステムになった
=産業化したという点に注目すべきだろう。
そして、その歴史はあるジャンルの音楽産業の発展の法則(言うなれば 「音楽産業力学」)に従っていると考えるのが合理的ではないかと思っている。
不特定多数の人々にソフト(楽譜、SPレコード、LPレコード、CD、DVDなど)を売ることによって収入を得る、あるいは作品の著作権により収入を得る。
これは主に19世紀以降のあらゆる音楽ジャンルにおいて作曲家たち・音楽家たちの収入源として重要なものとなった。
そして、ある音楽ジャンルが発展して行く過程において、ひとつの経済的な力学が働いていくと考えることが出来る。
その様相は大雑把に5つの時代に分けて考えることができる。
(1) 確立期:音楽ジャンルとしての市場性が確立する
(2) 爆発期:何人かの成功者が現れ、才能ある者が大挙してそのジャンルに参入する
(3) 膨張期:過当競争が激しくなり、次第に他者との差異を強調する傾向が顕著になる
(4) 飽和期:様々な実験的な試みの中で新奇なアイディアが次第に枯渇し行き詰まり、その音楽ジャンルの根底にある規定が破壊される
(5) 発散期:全体としての発展は困難となり、それぞれの傾向の音楽に全体が分化される。
そして作曲家・音楽家個人の音楽的な歴史の中で、既存の語法を消化していく時代となる。
ただしクラシック音楽の世界においてこの時代は一般的に 「前衛の幻想の時代」 としてのみ認識され語られている。
仮に (2)−(4) を 「ロマン派的展開」 と呼ぶことにすると、クラシック音楽においては19世紀前半から1920年頃まで、
ロックでは1960年代がこれに相当するのではないかと思う。全体としてみた場合、社会に影響を与えるような音楽ジャンルはこのような 「ロマン派的展開」 をして行く。
では (2)−(5) のそれぞれの時代についてもう少し詳しく説明してみよう。
(2) 爆発期はクラシック音楽においてはショパンやリスト、あるいはパガニーニの登場、ロックにおいてはビートルズの登場が当てはまる。
彼らに憧れ自分もそのようになりたい、彼らのような成功を収めたい、人気者になりたいと思い若者たちを中心に人々が大挙して参入してくる。
情報伝達が遅かった分だけ、クラシック音楽の方がヒットのサイクルが長いことは頭に入れておく必要があるだろう。
クラシックでは1世紀かけて (2)−(5) のプロセスを完成させるが、ロックの場合にはマスメディアの発達のおかげで10年ほどのうちにこれが成し遂げられた。
(3) 膨張期は恐らく最も重要な時期だ。その中で他者との差別化を図るために作曲家たち・音楽家たちは個性的であろう、
人よりも先んじた傾向を示そうと競うようになる。ロックの世界でもギタリストの超絶技巧を誇示したり、
他のグループが使わない楽器を使ってみたり(シタール、チェンバロなど)、長大な曲を作ってみたり、
挙句の果ては雑誌やテレビを意識してコスチュームに凝ってみたり(エジプト人の衣装に身を包んだサム・ザ・シャムとファラオズ、
アメリカ独立戦争当時の衣装で演奏するポール・リヴィアーとレイダースなど)、
グループ名に凝る(ラヴィン・スプーンフル、ストロベリー・アラーム・クロックなど)ような人々も現れて来た。
クラシック音楽の世界でも作品規模(演奏時間あるいは編成)の拡大、ヴィルトゥオジティの先鋭化、他分野(文学、美術など)との連携、
民俗的な要素を取り入れた異国趣味、パロディや体制批判など…作曲家たちが様々な新奇な試みによって他者との違いを積極的に主張する最もロマン派的な時代である。
しかし忘れてはいけない。こうした時代の音楽の歴史というのは聴衆の嗜好の多様性に敏感に反応し、同時期に様々なタイプの作品が併存しているのだ。
時代を遥かに先駆けているもの、時代の流行に対して無関心なもの、
非常に保守的な傾向のもの…そして、こうした多様性こそがこの時代の音楽を非常に魅力的なものにしているのである。
因みに60年代のロックにおいてシングル盤中心からアルバムとしてのコンセプトを持ったLP盤へと徐々に表現の規模が拡大して行ったことは、
クラシック音楽の世界での作品規模の拡大傾向とも合致する。
業界が形成されることによってそれに関係したマスコミが発達するのもこの時代。やがてマスコミは価値判断にも重要な役割を果たすようになり、
歴史観を提唱するようになる。そして進歩的なもの、実験的なものを擁護する傾向が次第に強くなる。
(4) 飽和期は音楽家がそのジャンルにおける表現の限界を模索し始める。そこでは日常的なものからの離脱、超人間的なものへの憧れ、
耳に必ずしも心地よくないものの濫用…といった傾向が現れる。場合によっては薬物などによって引き起こされる 「超越した状態」 を音楽によって表現する者も現れる。
このようにしてどちらかというと自己表現のために聴衆に迎合しない傾向が顕著になり、
そうしたものを前衛の旗振りをするマスメディアが擁護するという図式で時代が進んで行く。
ちょうどクラシック音楽ではワグネリズム、フランキストの音楽、いわゆる印象主義など、ロックにおけるサイケデリスムがこの時期の時代様式と考えることができる。
かくして 「ロマン派的展開」 が終わり、(5) 発散期において聴衆の大多数がもはやそれ以上の 「前衛」 を望まない事態に陥ると、
作曲家個人々々の歴史にスポットライトが当たるようになり、全体としてのその音楽ジャンルの歴史はもはや語られなくなる。
既存のあらゆる語法を使ってどのように個々の音楽家が創作していくかが問われる時代が到来する。
あるいはひとつの傾向に特化した音楽の歴史がそれぞれに新しいジャンルとして語られるようになって行く。
ロックでは1960年代末から1970年代初頭において、プログレッシヴ・ロックへとさらに 「実験性」 を高めたグループもあったものの、
サイケデリスムに傾倒した多くのグループがそこからフォーク、ブルース、カントリー&ウエスタンの影響下に、
さらにはプリミティヴなロックンロールに回帰して行ったことにも現れている。
やがてロックの歴史はプログレッシヴィ、ハード・ロック、ヘヴィー・メタル、パンクのような新しいジャンル毎に、あるいはアーティスト単位で語られて行くようになる。
一方クラシック音楽の世界でも1920年代以降にも 「前衛的な創作」 を続けて行った人々がいる。
しかしながら多くの作曲家たちはこうしたものも書く一方で(現実には前衛的なものは一切書かない人もいるが…)映画音楽、子供のためのピアノ曲、合唱曲、
吹奏楽のための作品、実用音楽などにも手を染めているのが現状なのだ。
ひとつの理由として現代音楽業界向けの 「前衛音楽」 は一般受けするようなものではなく、基本的な生活収入を得るのに適さない現実がある。
私にはクラシック音楽業界は前衛に志向した創作だけを 「現代音楽」 として喧伝することによって、
その全体史が未だ続いているかのように偽装しているのではないかという気がしてならない。
このように20世紀のクラシック音楽史は表面上 「前衛の継続」 を装いつつも、実質的には 「発散期」、「個人史の時代」 に突入していると考えるのが自然、と私は考える。
またそう考えた方がクラシック音楽の現在はより多様で、親しみ易く、楽しいものになるのは言うまでもない。
子供たちが愛奏する湯山昭の 「お菓子の世界」 が、
20世紀の日本が産んだピアノ曲の最高傑作として語られるような…そんな聴衆の本音で音楽が仕分けられる時代が早く来て欲しいものだ。
2009年大晦日 谷戸基岩
お菓子の世界 楽譜
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