2010.4.10

音楽・女性・ジェンダー
―─クラシック音楽界は超男性世界!?
小林 緑
目次 プロフィール
第19回

ポリーヌ・ガルシア=ヴィアルド没後100年記念

  韓国済州島へのスタディ・ツァーから3月30日、無事帰国。 先回の終わりに、次回はこのツァーのご報告もかねて 「女性作曲家と社会参画」 のテーマで続ける…と予告させていただいたけれど、とてもではないが、 このツァーの全貌をお知らせするなど、身の程知らずもいい加減にしろ…そう思い知らされたほど、この島をめぐる歴史はあまりに深く重たく、そして辛く悲しかった。 日本植民地支配、南北朝鮮分断、アメリカ軍政、反共思想、民族主義、ナショナリズム、そしてそこに隠されているジェンダーのさまざまな層が絡み合う…というわけで、 これについては、同行メンバーたちによる精確なレポートが載るはずの 「女たちの21世紀」 (“アジア女性資料センター AJWAC” の機関紙) 62号 (2010年6月刊?) をご覧下さい、とお願いするほかない…

  そこで、この予定変更をお許し願うついでに、テーマそのものも全部入れ替えようと思い立った。 5月初旬の掲載を目処にしていたコンサート 「津田ホールで聴く女性作曲家・第3回」。 コンサート・タイトル 「歌うヴァイオリン―ヴィアルド一族の室内楽」 の予告とご案内をしてしまおう、というわけである。 とりあえずは チラシ1 をとくとご覧頂きたい。 したがって、「女性作曲家と社会参画」 その2は、次の第20回に先送りさせて頂く。どうぞ御了解下さい。

  問題のコンサート開催の当日5月18日(火)は、今回の主役女性ポリーヌ・ガルシア=ヴィアルド Pauline Garcia=Viardot (1821-1910)の没後100年の祥月命日。 チラシ2ぺージ目の 「企画の趣旨」 に記したように、本年2010年はショパン生誕200年で世界中が沸きかえっているが、 実はショパンの、あの優に美しい音楽の霊感源のひとつと看做されているのがこのポリーヌ・ヴィアルド、すなわち当時最高のオペラ歌手にして、 作曲もピアノも詩作も画才にも優れ、サン・サーンスの言葉を借りれば 「芸術の全てを知る生き字引」 と評された女性である。 19世紀西洋音楽シーンにかくまで凛然たる痕を残した女性の記念日を無碍に終わらせたくない…NPJの読者の皆様にも関心を共有して頂きたく、 心よりご来聴をお待ちしております!

  さてそれでは実際のところ、ポリーヌ・ガルシア=ヴィアルドとはどのような女性だったのか? チラシ3ページの略年譜に収め切れなかった要点をここで補足しておこう。
  スペインの名声楽家ガルシア一族の出身、パリで生まれ死んだ 19世紀オペラ界のスーパースター…一般的な事典でのこうした紹介振りでは、 ポリーヌの生き抜いた89年の奥深さは到底測れまい。まずはガルシア家という一族が抱える並大抵でない底力がある。

  父マヌエル・ガルシア 〔一世:1775-1832〕 は 『セヴィリアの理髪師』 を始めロッシーニのオペラを数多く初演したテノール歌手だが、 時代の常としてもちろん作曲、演技、教育にも卓越、加えて料理の腕前も驚くほど…おまけに妻と愛人を同じ舞台に登場させてしまうような道徳観の持ち主であったらしい。 このマヌエルが歌手の妻と死別後、やはり歌手のホアキナ・シチェス(1778?-1862)と再婚して得た3児の末子がポリ−ヌである。


父マヌエル・ガルシア

  夫妻は長子マヌエル 〔二世:1805-1906〕 の誕生後ほどなくスペインを離れ、 長女マリア 〔初婚相手の姓マリブランの通称で知られる:1808−36〕 と妹ポリーヌはともにパリで生まれたが、当時の音楽家がほとんどそうであったように、 ガルシア一族も一所に留まることはなかった。オペラ団として家族ぐるみイタリアや英国へ、1825年からはニューヨーク、メキシコにまで渡り、 アメリカ大陸初のイタリア・オペラ公演を成功に導く巡業に明け暮れるなか、当時4歳のポリーヌは音楽が空気さながらという環境に包まれ、 国際的な感覚をも養いながら成長する。 ヨーロッパに較べ格段に厳しいオペラ事情のもと、予定演目の楽譜も調達できず、 父が持ち前の恐るべき記憶力で音符を書き出すという離れ技で急場を凌いだとか…さらには1828年、マリアとガルシアニ世が一足先にヨーロッパに戻った後、 最早巡業を続けることは敵わぬ、と見切りをつけて帰国の途上、メキシコを移動中に60人ほどの盗賊グル−プに襲われて一文無しになり、 命からがら窮地を脱したという恐ろしい経験は、当然ながらいつまでもポリーヌの脳裏から消えることはなかった。

  1829年、親子3人でパリに戻る船中、ポリーヌは母から歌の手ほどきを受けたが、先立ってメキシコで、当地のオルガニストから鍵盤楽器も習っていたらしい。 そのポリーヌの正式なオペラ・デビュは17歳。急逝した姉マリアの足跡を追うように、まずブリュッセルでコンサート出演、 ついでロンドンとパリにて姉同様ロッシーニ 『オテロ』 のデズデモナを歌った。以後はグルック 『オルフェオ』 のベルリオーズによるフランス語編曲版、 マイアベーア 『預言者』、グノー 『サッフォ』 等で男女の主役を演じ歌い、「これぞ古今最大のオペラ女優」 などの賛辞を浴び、 ヨーロッパ屈指の大歌手と称えられるまでになる。
  だが意外にも41歳で早々と舞台を諦めた理由の一つに、その声が一般受けする柔らかな甘美なものではなく、 どちらかといえば渋みのある強いメゾだったこと、そしてもう一つ、後述する夫ルイ・ヴィアルドが左翼的言論人であったことが舞台契約上不利に働いたのでは、 と考えも向きもあるようだ。1863年、『オルフェオ』 のおよそ150回目となるテアトル・リリック座の舞台からパリの観衆に最後の別れを告げたポリーヌは、 1875年、3年間勤めたパリ音楽院声楽教授も辞し、実質的に公的世界から退いている。

  17歳若いポリーヌを養女のごとく慈しみ、その稀有の才能の全開に惜しみなく助力したジョルジュ・サンドの存在は別格として、 リスト、ベルリオーズ、グノー、シューマン夫妻、ブラームス、サン=サーンス等、ポリーヌの音楽性と人柄に魅了された当時の芸術家はあまりに数多い。 サンドを介して特に密なつながりがあったショパンも、歌唱にあくまで基礎を持つ両手のテンポの微妙な揺らぎ、 いわゆる 「テンポ・ルバート」 の奥義をポリーヌから感得したと伝えられるほどで、ポリーヌが歌に編曲した自らのマズルカの伴奏を喜んで受け持つとともに、 彼女自身のスペイン風歌曲を 「これ以上完璧な歌というものがありえようか…!」 と家族に書き送ってもいる (1845/7/16日付)。 ちなみに “バルトリ/ライヴ・イン・イタリー” というDVD [ユニヴァーサル・ミュージック] では、ショパンが絶賛したようなラテン的歌曲二つを、 ポリーヌの再来かと思わせるチェチリア・バルトリの入魂の歌唱で堪能できる。

  さてそのポリーヌに大きな転機が訪れたのがロシア演奏旅行中の1843年、3歳上の文豪ツルゲーネフと生涯にわたる運命的な出会いである。 すでに3年前、21歳年長で4子を設けることになるオペラ・コミック座支配にしてリベラルな文筆家ルイ・ヴィアルドとの結婚後ではあったが、 夫とツルゲーネフが示し合わせたごとく相次いで死去した1883年まで、ポリーヌはこの神秘的な芸術上の? 三角関係を全うしたのだった。 ただしポリーヌの末子で当時の名ヴァイオリニストに数えられたポールが、自分をツルゲーネフの子と思いたがっていたとか、 この代父? が見守っていない場では不安でまともに演奏できなかったとささやかれるほど、 ポリーヌとツルゲーネフが友人の域を超えた深い関係にあったとする説も根強い。


文豪ツルゲーネフ

  だがテアトル・イタリアン支配人の職を辞して妻の演奏旅行に同道するマネージャーに徹した夫ルイは、 ポリーヌがスペイン人でなかったら結婚しなかったであろうと思われるまでのスペイン愛好家、妻への信頼と愛はゆるぎないものだったし、 妻も夫の死に際しては後追い自殺を試みたほど。他方、狩の趣味を共有するロシアの天才作家に対してもルイは、 18歳下の若き友として心からの敬愛の念を失わなかった…したがって 「母とツルゲーネフとの間に怪しむべき事柄は一切ない」 とは、 長女ルイーズが自伝 『回想と冒険 Memorioes and Adventures』 (1913)に記した言葉である。


文筆家ルイ・ヴィアルド

  バーデン=バーデンからロンドン、パリと移り住んだ―移住先にもつねにツルゲーネフが伴っていた―その後半生、ポリーヌはもっぱら作曲とサロン運営、 そして歌の個人レッスンに専心する。今日手にできる再版された楽譜はきわめて限られてはいるが、 要求に応じて前衛風にも古典派風にも自在にスタイルを使い分けたといわれるほど、その完成度は驚くほど高い。 作品にはオペレッタやピアノ曲、ヴァイオリン曲、合唱曲に加え、伊、仏、独、英、露と数ヶ国語に拠る魅力的な歌曲多数が含まれる。 楽譜が入手できず、音楽を全くイメージできないのが残念だが、1848年の二月革命に際しては、共和国万歳を叫んだルイに賛同してか、 テノール独唱と女声合唱用のカンタータ 『若き共和国 La jeune république』 を書き上げ上演している…以上、ポリーヌについてさらに関心を持たれた方は、 拙編著 『女性作曲家列伝』 (1999, 平凡社) をお読みいただければ幸いである。

  ここで、ポリーヌの大成に直接間接の影響を及ぼした兄と姉についても触れておきたい。
  13歳年長の姉マリアは、ニュ−ヨーク巡業中、父の厳しい監督から逃れるごとく結婚した実業家の夫マリブランと不仲のまま家族より一足先に帰国。 やがてベルギーのヴァイオリニスト・作曲家のシャルル・ベリオ(1802-1870)との間に婚外子を二人もうけるなど、 奔放な言動が災いしてパリの社交界や音楽界から締め出されていた。父の急死の知らせも直接受け取れなかったなど、個人的には不遇でありながら、 プリマ・ドンナとしてはアメリカに次いでヨーロッパ各地でもすでに圧倒的な名声を勝ち得ていた。 1835年、のちにポリーヌの結婚相手となるルイ・ヴィアルドの計らいでマリブランとの離婚手続が完了、ベリオと正式に結婚後ほどなく、 ロンドン郊外で致命的な乗馬事故を起こしながらなおも舞台を勤め、最後に登場したマンチェスターでは熱烈な聴衆のアンコールに応え、 自ら死を覚悟して超絶技巧の装飾をちりばめて歌い終わり、退場とともに絶命したという…


姉マリア

  この、ディーヴァ神話にぴたり、28歳の若さで急逝した姉マリアの生き様と極端に対照的なのが16歳上の兄マヌエル二世である。 『フィガロの結婚』 タイトル・ロールでニューヨークにてデビュ、101歳の長寿を全うしたこのバリトン歌手は、しかし自らの声の非力を悟り、 アメリカ巡業から帰るや24歳で早々と舞台出演を諦めて教育に専心、結婚生活の事情から後半生は英国に拠を構えジェニー・リントを育てるなど、 不世出の声楽教師となった。1840年 『声についての覚書 』 をフランス科学アカデミーに提出、さらに同年完成した 『声楽大全』 によって不朽の名を残したが、 声楽史へのもう一つの貢献が声帯鏡 laryngscope の発明(1855年)である。 通説を覆し、声の発生する場は胸や咽喉ではなく声帯そのもの、との発見は、歯科医が用いる小さな鏡で自らの発声中の咽喉をつぶさに観察した賜物とのこと。 少年時代は暴れん坊の悪がきだったとされるが、熟年に達してからは知的で高貴な精神の完璧な紳士振り、いかなる野心もなく、伝記など書かれたくもない、 と執筆の申し出でを断固退けた…以上はすでに引いたルイーズの回想録が伝えてくれる。


兄マヌエル二世

  マヌエル一世の後妻として、これら3人の驚くべき音楽家を生み育てた母ホアキナについても記す必要があろう。 メキシコでの盗賊襲撃に身を挺して7歳の自分を守り抜いてくれた母とポリーヌとの結びつきは、当然ながら極めて強かった。 18歳で結婚の翌年に生まれた長女ルイーズなど、ヨーロッパ各地を演奏旅行する間、後述するジョルジュ・サンドか、この母か、いずれかに託されたほどだ。 そして1844年にヴィアルド夫妻が購入したクールタヴネルの別邸でも、最も歓迎された客はこの “ガルシアおばあちゃん” だったし、 もう一人の賓客ツルゲーネフに対しても、よきおばあちゃんぶりで献身的に尽くし、作家もそれに応えたという。
  1863年、ヴィアルド家のバーデン=バーデンに移住に伴い、ブリュッセルに転居したホアキナは翌年帰らぬ人となったが、 その葬儀から帰郷したポリーヌが憔悴しきって泣き止まぬさまを見たツルゲーネフは、自分の死後はあのように嘆き悲しんで欲しくないと洩らしている。 ともあれ、ポリーヌが歌手として大成した陰に、この母の深慮が働いていたことは興味深い。 母親同士が知り合いだった縁が取り持ってリストのレッスンを受けるようになり、10歳足らずで父のレッスンの伴奏もこなすほどの腕前を披露、 ピアニストへの願望を募らせたポリーヌに、自身歌手であった母は、女が音楽で成功する道は歌手以外ありえない、と言い聞かせたからだ。


母ホアキナ

  以上、ポリーヌと実家ガルシアの一族をざっと紹介しただけで一回分の予定量を超過してしまった。 ここまで雑駁に記しただけでも、この傑物揃いの一門には驚嘆させられるばかりだが、ともかく今回の焦点はこれに留めることとし、 以後機を見てポリーヌの人生が示す複雑で奥深い19世紀音楽史の諸相を探っていければ、と考えている。

  ショパン生誕200年に際しては、深い芸術的影響を与え合ったポリーヌ・ヴィアルドという女性の存在も是非知って欲しい…津田ホールでのコンサートは、 その一念で練ってきた企画である。優れた音楽家の条件として、音楽が家族の生業であり幼時から血肉化していることがしばしば語られる。 名門声楽一家ガルシアを引き継ぐヴィアルド一族の娘ルイーズと息子ポールの作品も併せて聞く―その点でも意味ある試みとご理解いただきたい。