2012.8.25

音楽・女性・ジェンダー
―─クラシック音楽界は超男性世界!?
小林 緑
目次 プロフィール
第32回
“女性の 「ユニホーム」:
       オリンピック選手とクラシック演奏家の場合”


  やれやれ、4年に一度、日本のマス・メディアが申し合わせたように横並びで、大騒ぎする 「民族の祭典」 とやらが、ようやく収まりそう…のっけから無遠慮な物言い、お許し頂きたい。 もともと、ナショナリズムや国威発揚の場と化した感のあるオリンピックにはほとんど関心がなかったが、 そんななか、「週刊金曜日」 906号で 「オリンピックとジェンダー:スポーツ界の女子の扱いってどうなの?」 と題する宮本有紀さんの記事に釘付けになり、 これは、我がクラシックの世界にも恐ろしいほど共通するものがある…!と思いつき、今回の主題にしようと決めた次第。 以下、「週金」 編集部に送った同記事への感想をもとに、クラシック界の例も織り込みながら、感じるままなど、に書かせていただくことにする。

  とにかく抜群に興味深い記事であった。これはオリンピック終了とともに黙過してしまうにはあまりに勿体無いテーマであり、 是非もっと深く掘り下げて続編・続々編を期待したい。内容は、世界中で嘲いものの種にもなった、 あのなでしこのロンドン行き飛行機の座席をめぐる男女差別をまくらに、 近代オリンピックの創始者クーベルタンが 「大会の品位を下げる」 から女子選手の参加を認めなかったという長い歴史につなげて、 商業化元年ともいわれる1984年ロサンゼルス大会以降、見栄え、つまりはテレビ写りのよさを優先したようなさまざまな競技が女性に解放されたはいいけれど、 そこでの彼女たちが纏うユニホームを通して、オリンピック運営の不条理さ、はっきりいえばどこまでも性差別的な問題の例がいくつか紹介されているのだ。 各競技機関のトップを占めるのが大部分男性たちだから、 そのオヤジ目線ですべてが決められてしまうという現状…音楽大学の意思決定機関や演奏家を抱えるマネージャー、 コンサート・ホール支配人などがほとんど男性というクラシックの世界との共通性が、早くも鮮やかに浮かび上がってくる。 品格を理由に女性を排除する構造・意識など、名門オーケストラの歴史そのものではないか!

  とにかく終始わかりやすく、問題意識を掻き立てられるこの記事のおかげで、久しぶりに溜飲を下げることができた。 とくに、最後のキメの文句が最高にかっこいい。いわく 「スポーツ界もそろそろ “男社会” から脱皮しませんか。 というか、まずは “おとこ思考” だということに気づきましょうよ」 …まさに!! 「おとこ思考」 が蔓延して、そこに染まり切っていることに気付かない、 だから 「男社会」 なるものの所在すら知らずにいる…これが一番のポイントだ。 女性知識人・文化人たちが多く愛好するクラシック音楽にも実は女性差別やジェンダー問題が蔓延しているのに、そこにはまるで無知・無自覚なまま、 ひたすら大作曲家=有名男性を崇拝して有り難がっている…しかし彼ら男性作曲家たちと同時代、同地域に、 同質の作品や演奏の実績を遺した女性達がワンサと実在したことを証拠立てるCDや楽譜、研究の蓄積が、世界中に着実に増しているのに、 それに全くアクセスしようとしない点で、女性の音楽専門の研究者たちのほうがもっと罪が深いかも。 彼女たちには無名の存在に対する嗅覚や共感度、あるいは想像力が根本的に欠けているのではないか…それとも、 あの音楽室の壁にぐるりと掲げられた 「巨匠」 たちのいかめしい肖像画が作り上げている虚構の権威世界に、すっかり洗脳されてしまっているからか…?

  身内の愚痴はやめて、目からウロコの関心を掻き立てられた、問題のユニホームの話に戻ろう。 世界バドミントン連盟がこの5月、主要な国際大会では従来のパンツでなくスカートやワンピース型ユニホームの着用を義務つけたところ、 一部の国からの強い反発を受け撤回。しかし日本では膝上20センチのひらひらワンピースのままだ。 「暗黙の了解があるし、動きやすい。練習中はパンツが主流だが、スカートはいてる子もいる」 というのが日本バドミントン協会の弁だそう… だがこれなどまだまだまし、個人的にはもっと、新体操やシンクロの、あのきらびやかな水着スタイルと毒毒しいメークには、本当にゲンナリだ。 因みにこの二つの競技が初登場したのがあのロサンゼルス大会で、 しかも選手たち当事者から正式種目にして欲しいとの運動や働きかけなどもなく採用されたという。

  反して柔道女子がオリンピックに参加できるまでには、選手や関係機関による必死の働きかけがあった。 男子柔道が五輪の正式種目になったのは1964年の東京大会だが、女子柔道は根強い反対にあってようやく1992年バルセロナ大会から。 遅れの一因は、女子の柔道というのは強さを競うのではなく、型を整えるお稽古に等しいとする見方。 あるいは女子が柔道着の下にTシャツを着ていることも影響しているのでは? とも言われる。 この、女子の柔道とオリンピックにまつわる問題に付いては、是非、小倉孝保著 『柔<やわら>の恩人―「女子柔道の母」 ラスティ・カノコギが夢見た世界』 〈2012 小学館〉をお読みいただきたい。


  本書には、スポーツをめぐるジェンダー問題が随所に織り込まれているからだし、何より、女子柔道が現在のように普遍的に国際競技として認知された背景に、 一人のアメリカ女性の献身的な努力と活動があった、という事実に正直、驚かされる。 アメリカの柔道界でも日本の男性社会がそのまま持ち込まれたかのように、稽古の後ではビールを注いで回るよう強要されたり、セクハラもざら。 ロサンゼルス以降、「露出の多いユニフォームの競技から正式種目になった」 という噂に関していえば、 上掲書にも 「女子柔道は体全体を柔道着で隠しているけど、陸上はお尻を出すでしょ? IOCの男性役員たちは女性のお尻が見たいから、 女子陸上の長距離を柔道よりも優先したのよ」 とのラスティの怒りの言葉が紹介されている。

  私個人としては、ラスティが言及した陸上やマラソンのへそ出しユニフォームも見るに耐えない、というか、何でこの競技にこんな出で立ちが必要なの? と不思議でならないのだ。同じ競技で男子は決してへそ出しではないのだから… そういえば今回ロンドンで陸上に出場したチュニジア女子選手のへそ出しユニホームが、イスラムの倫理に悖るというので同国内で問題化した、 というニュースも女性学関係のMLに載っていたっけ…
  極めつけは、ビーチバレーの、あのほとんど半裸〈以上?)のコスチューム、というかユニフォームというか…あれは一体何?さらにいえば、 ああした競技に何の意味があるのか? やはり男性視聴者の関心をそそるためでは… もっとも最近は男子のビーチバレーもあるらしい… というわけでますます訳がわからないのだが、いくら齢70を越えたとはいえ、私自身、女性に類する人間としては、あれは見ていられないほど恥ずかしい。 日本ビーチバレー連盟の代表者が、女子選手の顰蹙を買うのは覚悟のうえで、胸元の谷間 〔ヴァレー〕 もくっきりとなる露出度アップのデザインに改定した、 と語った報道もあったとか…最早何をか況や、である。

  そもそもオリンピックとはキリスト教国が主導する国際イヴェントの最たるものといえよう。 その世界最強の宗教界では、女性身体やその露出についての扱いはいま、どうなっているのかしら? なにしろ、かつて中世から19世紀まで、 女性の声さえ肉体の一部として外部に漏らすのはご法度、つまり一部のオペラ劇場や教会で女性の歌唱を禁じたという歴史があるのだから…

  およそ20年来、「女性と音楽」 を主題にクラシック音楽研究に携わりつつ、 女性作曲家の作品を実演で聴いてもらうコンサートの企画・開催こそ自分の一番重要な仕事と思い定め、それを実行している私も、 舞台に上る女性演奏家の衣装問題には悩まされっぱなしである。出演の女性達に、予めそれとなく注意しようかといつも思うのだが、 あの露出の高いドレスが女性演奏家のユニホームとする勘違いが余りにも深く浸透しており、 「何でこれが悪いの??綺麗なほうがお客さんもよろこぶでしょ?」 という反応が返ってくることは、充分予測されるからだ。 でもベートーヴェンとかモーツァルトとか、同じ曲を弾くのに、男性演奏家とは全く違って、肩や背中や腕丸出しのひらひらドレスで、 何故出てこなければならないのか? 知り合いの女性ピアニストが、一番弾き易いのは、トレーナーにスニーカーなんだけど、 と本音を洩らしていたことが意味深長に思い出される。 また売り出し中の若手ハーピストは、7つもある足元のペダルを半音上げ下げするために忙しく足を動かさねばならないので、 練習はいつもはだしでやっていると話してくれた。さらに、合唱団に属する教え子の一人からは、ドレスがいやでシャツ姿で登場しようとしたら、 強制的に着替えさせられた、というエピソードも聞いている。 もっとも男性演奏家の、あの窮屈極まりない燕尾服やタキシード姿も何とかならないか…と思ってはいるのだが。

  とりもなおさず、あの長いひらひらドレスにハイヒールというこの国の女性演奏家の定番衣装は、圧倒的に男性中心の業界の意向に沿った結果なのであろう。 ついでに言うなら、ほんの数日前まで日本に滞在したフランスの男性ピアニストは、日本の女性演奏家が休憩後にドレスを着替えて登場したのにびっくり、 フランスでは考えられないこと、聴衆は衣装を見に来るわけではないので、こんなことをすると評判が下がってしまう…と語ってくれた。 これには我が意を得たり! の想いで、ほんとうに嬉しくなった。

  なでしこ問題に付け加えると、昨年のワールドカップ決勝に先立って、 日米両チームの代表が 「男女平等の理想に向けて、差別や偏見と闘います…」 旨の宣誓を公式に行なったのに、 このこともサッカー業界のオヤジさんたちは知らなかったのだろう。 なでしこフィーバーで過熱しっ放しの日本のマス・コミも、例によってこれについては一切報道しなかったが、後日 「ふぇみん」 紙が、 そして 「週金」 でも落合恵子さんが 「風速計」 でしっかりコメントしており、さすが! と感激したものだ。

  以上、なでしこたちのロンドンからの帰路の座席問題がどのように 「改善」 されたのか、も踏まえ、是非 「スポーツとジェンダー」 問題のフォローを望みたい。 加えて、スポーツに限らず、他のアートや学問世界へもジェンダーの視点を組み込むよう、メディアの姿勢変更を期待する。 ジェンダーや女性史の研究は、それぞれの専門家による研究が相当進んでいるのにそれらはほとんど同業の女性たちの間でのみ知られ、 残念ながら男性および広く一般には流通していない。日本のクラシック音楽界はそうした世界の潮流にひとり取り残された感があるだけに、 本NPJ通信が私に連載執筆の場を与えてくださったことを心から有り難く思っている。

  さて、最後に個人的なお願い/お知らせを一つ。
  実はなんとも思いがけないことに、あの(!)NHKから取材され、以下の番組に出演することになりました。 お時間が合いましたら、どうぞよろしくお願い致します。

    番組名:ETV特集
    「戦争・音楽・女性―作曲家・吉田隆子を知っていますか?」

    日時:2012年9月2日(日)
    22:00−22:59
    Eテレ(3ch)

  図々しくも、ディレクター側が作った番宣ハガキも載せておきます。


  私は和洋女子大学での授業風景とインタヴューの一人としてちょっと出るだけ、 番組の主役はあくまで隆子をはじめ西洋音楽受容史を専門に研究していらっしゃる小宮多美江さんと、 昨年12月に 『書いて、恋して、闊歩して』 と題し隆子の評伝(教育史料出版社、 楽譜の一部とCDつき)を出した私の若い研究仲間である辻浩美さんです。


  隆子はクラシック人としては本当に珍しく、反戦の志を貫き、対等な男女関係を実践し、そして何より、力強く表現豊かな音楽をたくさん遺した女性でした。 与謝野晶子の 『君死にたもうことなかれ』 を歌曲としたことからも、その反戦のスタンスは明らかでしょう。 本連載第22回で、彼女の生誕100年記念コンサートについて書かせていただいた中に、彼女の人と形、 とりわけ公私にわたるパートナーであった劇作家久保栄との関係について触れておきましたので、そちらも併せてご覧下さい。

  ただ、これは本来音楽番組ではなく、あくまで社会的報道番組なので、音楽作品自体はほんの短くしか扱われないようですが、 でも、無理な取材のお願いに快くご協力くださった演奏者が素晴らしいのです。 ピアノの山田武彦さん、ヴァイオリンの大谷康子さん、歌の波多野睦美さん…どうぞご期待下さい!!

  実は 編成表で語りの内容は伝えてもらいましたが、実際の画面がどのようになっているのか…予めチェックすることは許されませんでしたから、 ものすごく心配なのです。実際、後から後から、取材プロセスについて不安材料が増すばかり、よほどこのお知らせもやめようかと考えました。 でもともかく、亡くなられた日隅一雄本通信編集長のお言葉を借りればマス・コミならぬ “マス・ゴミ” の代表格たるあの(!)NHKが今回、歴史の闇に消し去られた日本の女性個人に注目し、戦時を背景とする番組を造ったということは、 ちょっとした事件? ではないでしょうか…しかもその番組が、いまや日韓関係最大の政治問題化しつつある 「慰安婦」 について取り上げた、あのETV特集。 そしてその後引き起こされた番組改変をめぐる裁判・訴訟に弁護人として素晴らしい尽力をしてくださったのが、 ほかならぬ日隅さんだった…思い併せると、本当に得も言われぬ感慨が沸いてくるのです。

  それにつけても、NHKがこうした路線を一回限りで終わらせるのでなく、冒頭で記したように、スポーツとジェンダー問題同様に引き続き取上げて、 この国最強・最大の報道機関としての責務を果すよう、願わずにいられません。
小林 緑