2013.1.25

音楽・女性・ジェンダー
―─クラシック音楽界は超男性世界!?
小林 緑
目次 プロフィール
第35回
クラシック音楽の問題点(9)
続・本当にお客様は神様か?
谷戸基岩

  前回はコンサートに関係した問題点のうち聴衆、ホール自体について記した。今回は主催者側のトラブルについて記してみよう。

  私が経験したトラブルで最近増えているのがコンサート本番中の写真撮影。 信じられないことだが、主催者がホール内で写真撮影を行ないその音がうるさいのだ。 撮影用の部屋があってそこからするというのではなく客席の通路から撮る! 当然のことながらシャッター音がカシャカシャして煩い。 どうしてこんなにも無神経になれるのだろうか?
  色々な情報を総合すると、最近ではホールの宣伝用冊子やホームページなどに臨場感に溢れた写真を載せようとしてこうした蛮行をする輩が増えているようだ。 しかし考えてみればこれは変な話だ。聴衆に音に対するマナーの遵守を求めている主催者が自らそのルールを破っているのだから…。
  ある知人のカメラマンに 「シャッター音を消して撮影できるカメラは無いのですか」 と訊ねたが、そんなものは無いとの答えだった。 遮音するためにカメラを何かでグルグル巻きにして撮影する人もいるが余り効果的ではないようだ。 まともな主催者の感覚では演奏風景の撮影はリハーサル時にするものだ。めんどうだけれども演奏者にステージ衣装を着てもらって撮る。 臨場感のあるスナップ写真よりも聴衆により快適な音空間を提供することの方が主催者として当然の義務ではないだろうか?
  ちなみに私が遭遇したこうしたケースは全くのど素人が主催しているものではなくホール主催のものであったり、 あるいは音楽家本人が主催しての公演だったりするから驚いてしまう。
  もし読者がこうしたトラブルに遭遇したら遠慮なく主催者にクレームをつけていただきたい。 コンサートは写真を撮影する場ではなく音楽を鑑賞するための場なのだから…。

  次にサイン会での主催者の対応について。コンサートが終わってCD、本、関連グッズなどを買ってサインを求める聴衆が長蛇の列を作っている。 それにもかかわらずアーティストがなかなかホワイエに特設されたサイン会場に現れない、というトラブルにしばしば遭遇する。
  色々なケースが考えられるが、楽屋に業界関係者が押しかけて長話をしてしまいファンを待たせているというパターンが少なくない。
  主催者の対応で不満に思うのは業界関係者(レコード会社の担当者、音楽評論家、コンサート企画者、家族、友人、弟子などなど)の面会は後回しにさせて、 コンサートが終わったら真っ先にサイン会場にアーティストを向かわせるべきだという原則がしばしば守られていないこと。 これは列を作って待っているファンに対してとても失礼だと思うのだが…同時に業界関係者はとにかくアーティスト本人のためにも、 まずはお客さんへのサインを優先させてあげようという配慮をするのが本当の愛情ではないかと私は思うのだ。

  私は音楽評論家になってから業界関係者の終演後の仕事は 「待つこと」 ではないかと思っている。 サイン会が終わるまで私はその様子が見える場所で待っていることが多い。 そのアーティストがサインをしながら列を成すファンの方々をどのように捌いて行くのか、どんなやりとりをするのかを観察するのだ。 そうすることで彼・彼女がどんなアーティストなのかが見えてくることが少なくない。 その人柄であったり、ユーモアのセンスであったり、時には怒りのツボであったり…

  しばしば有名な先生が長蛇の列を成すファンの人たちを押しのけてアーティストと面会するというケースにも遭遇するが、 見ていて決して気持ちいいものではない。「ああこの人はやはりこのレベルの人間なのか!」 と元々尊敬の念など持っていなくても改めて納得してしまう。 私は基本的に主催者から勧められても応じず最後まで待つようにしている。 どうしても挨拶しなくてはいけなくてなおかつ後がつかえているような場合には、CDを家から持って行ってサイン会の列に並ぶようにしている。 自分たちはクラシック音楽業界人であり、一般のファンよりはアーティストにとって重要な存在なのだ、といった思い上がりほど見苦しいものはない。 消費者あってのクラシック音楽業界なのだということだけは忘れたくないものだ。

  それにこうした関係者は多くの場合、そのアーティストに対して何らかの連絡方法を持っているのだから、 それらを使って後ほどコミュニケートすればいいのだ。 あるいは遠くから手を振って目礼するくらいにして帰ればいいのである。終演後ちゃんとご挨拶しなかったことは電話なりメールなりで、 もっと丁寧になら手紙でお詫びすればいい。

  それから郊外や地方のホールで多いのが演奏者に対するトークの強要の問題。 この業界にいると 「クラシック音楽の敷居を低くする」 というお題目をさんざん聞かされる。 つまり 「クラシック音楽は一般には解りづらいものだから、何らかの方法で親しみ易い環境を作る工夫をしよう」 ということらしい。 そのためにコンサートにおいて演奏者に曲の合間にトークすることが求められたりする。 お喋りが売り物の、あるいは少なくとも得意な演奏家ならいいが、そうではないアーティストも少なからずいる。
  酷い場合には当日になって急に出演者が曲目解説を含めたトークをするように依頼されることすらあるのだ。 個人的な話題を話すくらいならまだいいが、事前に十分な下調べもしないで作品についての話を急にするのはどう考えても無理がある。 それには注意した方がいい。客席にはある作曲家・作品に関してマニアックに詳しい聴衆もいることが少なくないのだ。
  かつて我が国のバロック音楽の最高権威だった服部幸三先生は、あるレコード店で催された古楽系新レーベルの説明会の折に、 当時まだ駆け出しのレコード会社の編集者だった私に箴言されたものだった。 「決してファンの皆さんを侮ってはいけませんよ。好きで集まってきた方々の中には本当に詳しい方が沢山いらっしゃいますから」。 長年尊敬して来た先生の謙虚な姿勢には感銘を受けたが、その言葉は今のクラシック音楽業界ではますます重みを増しているように思えてならない。

  それに出演者によるトークは一見良いファン・サービスのように思えるが、そこには主催者の全く別な意図がある場合が少なくない。 すなわち面倒な編集業務の放棄である。トークが要求されるコンサートではプログラムに曲目の解説が載っていないことが多い。 演奏者が曲目も解説してくれることを織り込んでいるからだろう。そうした理由からトークに固執する主催者は良く考えるべきだろう。
  本当にお客さんにクラシック音楽の知識をしっかり自分のものとさせ、コンサートのリピーターにすることを目指すなら、 その場で終わってしまうトークをするよりも、プログラムに文字として作品情報を載せた方がはるかに親切だということを。 プログラムに曲目解説もしっかり載せた上で演奏者にコメントを求めるのが本当のファン・サービスというものだろう。 トークは一時のもの、曲目解説は少なくともプログラムを保存していればいつでも繰り返し読むことが出来るのだ。 それがどの程度のものかはさておくとしても…。

  それにしてもこのところ編集業務の衰退がクラシック音楽業界全体で進んでいるように思えてならない。 CDブックレット、コンサート・プログラムの曲目一覧やライナーノートに誤りがあったりする。 また読んでもそのアーティストや作曲家・作品に対する書き手の愛情が伝わって来ない 「単に曲目解説のスペースを埋めました」 というような原稿が少なくない。

  実際のところある程度その質にこだわると編集業務はとても面倒だ。まず執筆を依頼する相手を決めるのが大変だ。 どんな筆者がいて、その人はどういう音楽的な趣味を持っていて、原稿料の相場はいくらか、執筆のスピードはどうなのか、 依頼するとどんなメリット・デメリットがあるのか…そんなことが把握できていないと執筆依頼出来ない。 また原稿を予定通りに受け取るのも大変だ。期限を守る筆者ならいいが、なかなか執筆者が原稿を書かない場合には厄介だ。 最近は根性の無い人もいて原稿が入稿できず編集作業を途中で放棄してしまう担当者さえもいるという。 編集者も執筆者も同じ人間であり、業界を共有し利害も交錯している。 時には恫喝し、時にはなだめすかし…原稿の取立てで知恵を絞るのも大切な業務のひとつだ。
  場合によっては編集者自身が下書きの原稿を作り、それに赤入れをしてもらい原稿を仕上げることもある。 その位のことが出来ないと編集者は務まらない。 そうした編集作業の面白さがどうして判らないのかと私などは思ってしまうが…良い原稿というのは読み手が作曲家・作品・演奏家、 あるいは楽器に対して抱く愛情を更に増幅してくれる。とりわけ内容的に正確で、新しい知識・視点を読者に与えてくれるなら申し分ない。 それゆえに編集者は作曲家、ジャンル、演奏家といったテーマ毎に、日頃から関心を寄せているような筆者を常にチェックしている必要がある。 そんな中で、私がレコード会社で編集業務を担当していた頃はパソコンなど普及していなかったこともあり、 様々な執筆者の方々と実際に会ってお話しする機会を持てたのは自分の財産だと思っている。

  しかし特に編集業務にこだわりがなければ、そんな努力をするよりも仲の良い、気心の知れた、使い勝手の良い筆者に任せた方がたしかに気は楽だ。 「業界の価値観を共有し、差し障りのない原稿を埋めてさえくれればそれでいい」 とだけ考えるなら編集業務は意外と簡単かもしれない。 こうした状況を背景に解説原稿はその内容云々はさておき一部の筆者の既得権と化するケースさえもあるようだ。

  とはいえ私もレコード会社に勤めていた時代からすでに海外のレーベルの重役や宣伝担当者から 「日本語版解説の編集業務を熱心にする暇があったら一枚でも多くCDを売るためのプロモーションにもっと精を出せ」 と、きつく文句を言われたことが何度もあった。 消費者が買ってみなければその良し悪しが判らないCDブックレットや、コンサートに行かなければ入手できないプログラムのための編集作業は、 その価値がセールスに直結せず評価されづらいのかもしれない。しかし海外のマイナーレーベルには編集作業で今でも健闘している会社が少なくない。 とりわけ一般的ではないレパートリーやアーティストに関して、 ブックレットを読んでいると通常の音楽史書や事典等では決して載っていないような貴重な情報が得られることが多いのだ。

  もちろん、日本のクラシック音楽業界のほとんどがそうだと言うつもりは毛頭ないが、編集業務の衰退は明らかに進んでいるように思えてならない。 それだけに最近ではコンサートのプログラムや国内盤CDのブックレットで筆者の力の入った原稿や、 丁寧な 「編集作業」 に出遭うとまるで宝物でも発見したように嬉しくなってしまう。
〔2013年1月24日〕