音楽・女性・ジェンダー ―─クラシック音楽界は超男性世界!?
第40回
近代化とは? 石井筆子の生涯から垣間見たもの
実は8月末、71歳にして初めてというほどの高熱(39度!)を発してすっかりダウン、およそ一月近くも何も手に付かず、ほとんど閉じこもり状態だった。
早く病院へ行け、という周囲の雑音に抗して母譲りの 「自然治癒」 に縋り、結局薬にも医者にもお世話にならずほぼ回復、
今はあちこちの集会にも出られるようになった。時間はかかったが、何より自己流の 「医食同源」 ──薄味の野菜と豆類、そしてもちろん主食は雑穀米、
腹8分目を守ったのがよかったと思う。
1985年、46歳の兄を胃がんで喪ったのをきっかけに菜食主義に転じた私は、以後西洋医学とはほとんど縁を切り、
月一のペースで健康保持を兼ねて鍼・灸の手当てを受けている。
その施療院で見かけた島田彰夫著 『伝統食の復権』(東洋経済新報社、2000)という本が前から気になっていたので、
今回、地元の図書館から借り出し、じっくり読み、まさに 「目から鱗」 の衝撃を得た。
西洋流の近代化に勤しんだ明治維新後、米中心の伝統食を捨てて、アメリカ発の肉、
牛乳・パン・油の大量消費を国策に掲げた結果が今の日本の食と生活… 糖尿病や肥満、ガンなど生活習慣に起因する病が蔓延する現在と較べて、
病院など存在しなかった昔のほうがよほど健康で、体力にも優れていたというのだから…。
たとえば1867年という早い時期に、世界周遊の一端として日本を訪れたフランス人リュドヴィック・ド・ボーヴォワール(1846-1876以後)の回想によれば、
箱根への旅に雇った馬丁が、その馬をも凌ぐ敏捷さと脚力を発揮したとのこと。
また、1876年からおよそ30年間日本に滞在して西洋栄養学を導入、東大医学部の前身で教え、
同病院の開祖とも見做されるドイツ人エルヴィン・ベルツ(1849-1913)の日記にも、日光への旅行に際し雇った人力車の車夫が、
質素な米食にも拘らずひとりで14時間半を走り切ったことに驚嘆、自らの栄養論に基くカロリー豊かな食事を与えて改めて実験的に走らせてみると、
車夫はやがて疲労で走れなくなり、もとの食事に戻して欲しいと懇願されてそのようにしたところ、
ふたたび元気を取り戻して走れるようになったとある…これらのエピソードはいずれも上記 『伝統食…』 からの引用だが、
それにしても、件のフランス人の回想記 『ジャポン1867年』(綾部友次郎訳、有隣堂、1984)も 「ベルツの日記」(濱邊正彦訳、岩波書店、1939)も、
きちんと邦訳され、今日に伝えられていることを、ほんとうに有り難く思う。
そのベルツの西洋風の “栄養豊かな食” の理論は、やはりドイツ人で蛋白質の専門家カール・フォン・フォイトの考えに基づくといわれる。
そうした栄養学の影響の下、欧米人並みの体格になる願望にも駆られ?
工部省の優秀な官吏だった小鹿島果 〔おがしまみのる〕(1857-1892)が1885年に著した 『日本食志 一名日本食品滋養及沿革説』 は、
日本における食栄養論の魁といえるものであろうが、しかしそこには 「人ハ務メテ肉食ヲ為シ植物食ヲ用ヒサルヲ要ス」 と、
私からすればなんとも恐ろしい記述があるらしい…これもあの 『伝統食』 からの孫引きで、小鹿島の本の現物はまったく手にしていないが、
この引用部分に 「アレーッ」 と思わず絶句!その説明から、以下、ようやく本稿の主題となる。
幼時から神童と誉れも高かったこの小鹿島は1884年、かねて結納済みの渡辺筆子と華燭の典を挙げたのだが、
この女性こそ、“天使のピアノ” の持ち主として、知る人ぞ知る石井筆子(1861-1944)にほかならない。
8年間の結婚生活で3女を得たものの夫は35歳の若さで病没、残された娘たちもみな病弱で、
当時なお認知度が低く施療もままならなかった知的障害をも抱えて苦闘する中、その知的障害研究の開拓者石井亮一と1903年に再婚、
同志たるその石井にも、娘たちにも先立たれて後、81歳で世を去った。
この筆子が小鹿島でなく石井という姓で流通しているのは、石井との再婚後、滝乃川学園を本拠に知的障害の福祉に身を捧げた、
その苛烈な後半生が余りにも感動的だからであろう。「いばら路を知りてささげし身にしあれば いかで撓まん撓むべきかは」
…晩年の日記の序文に添えられた筆子自製の歌は、わずかなりとも彼女の足跡を知りえた者の心を動かさずにおくまい。
当然ながら女性史・女性学研究者や知的障害教育関係者の間では、筆子は格別評価が高く、評伝も数種類、すでにドキュメンタリー映画も造られており、
私も授業で何度か話題にしてきた。にもかかわらずここで敢えて筆子を持ち出したのは、件の 『伝統食』 に、
私とすればあくまで筆子の初婚相手としてのみ聞き知っていた小鹿島果の名が、このような文脈で出てきた、
その余りにも思うがけない事実にびっくり仰天したからだ。
しかもその小鹿島が日本の伝統食の美点を全否定して欧米流肉食を無批判に推奨している…
私はなにも島田彰夫氏の書に小鹿島の妻筆子の名が出てこないことを不満としているわけではない。
本来の主題からは逸脱することでもあるので当然であろう。
ただし重要な仕事を残した男性についてはもっぱら本人の業績に絞って言説が形成され、たとえ目覚しい実績があろうとも、
その妻は無視されて当然という現状は、やはり許しがたいことではある(12回目の連載で取上げた柳兼子と柳宗悦の例も思い起こして頂きたい)。
けれども本稿を書くに際して、一番便利で簡潔な筆子本として参照した 『近代を拓いた女性―石井筆子の生涯』
(2001 大村市・石井筆子顕彰実行委員会)でも、小鹿島を紹介するのに東大卒、エリート官僚ともっぱらその優秀振りを強調、
「日本食志」 についても “不朽の名作” という一言のみ…肉食礼賛が近代化の駆動力と捉える価値観に同調するからか、
それとも、少し前まで当たり前の日常食であった米文化の “実力” に気が付かなかっただけなのか…筆子のとりわけ後半生が、
病者や障害との闘いであったからには、健康と食の問題もそこに避けがたく浮上するはずなのに…そのあたりを黙過しているのには正直がっかり、
拍子抜けしてしまった。
とはいえ、この顕彰本は、後半生ばかりか、少女時代から結婚前後、とりわけ “鹿鳴館の華”
として内外の著名人を魅了した筆子の実像についても数々の図版とともに紹介されており、とても有用な資料だ。
ベルツの件の日記(明治22年3月2日)からも、筆子について次のように絶賛した一節が引用されている。
「余は、これまでの生涯にて遭遇せし最も豊麗なる女性小鹿島夫人の出現により、特に心惹かれた。
彼女は流暢に英・仏・欄語を話し、日本の袴を洋装の一部分に使用する勇気を持って居たのだった」。
日本における最古期のアプライト・ピアノとして楽器受容の面でも意味の深い上記 “天使のピアノ” …これも1885年ドイツのデーリング社製、
筆子が嫁入り道具として携えていったものだ。
因みに後年、筆子が滝乃川学園に持ち込んだこのピアノは、1998年見事に修復されてしばしば実演にも供され、
CDも複数出ている。
石井筆子 少女時代
結婚式での? 和装の筆子
鹿鳴館風洋装の筆子
ドイツ製のピアノ、ドイツ流の栄養学…日本の近代化の功罪が、“ドイツ” というキーワードとともに、筆子の生涯の裏側から仄見えるのが、
なんとも興味深い。だが何より強調したいのは、この食の実態がクラシック音楽の世界でも、現在に至るまで共通していることである。
島田彰夫は例の著で繰り返し、肉類、乳製品、たんぱく質などの栄養素信仰を捨てるよう説いているにもかかわらず、
アメリカの戦後の対日食料大量消費戦略とも相俟って、洋風メニューへの愛好は日本人の間にがっちり根付いたままだ。
同じようにバッハは旧約聖書、ベートーヴェンは新約聖書とばかり、イタリアでもフランスでもなく、音楽の真髄をドイツ系に求める観かた一向にかわらない。
正面上部に天使のレリーフ像がはめ込まれている。 三好優美子のピアノによるCDジャケットより
話の順序が前後して恐縮だが、問題のベルツが感嘆した筆子の語学力は、長崎は大村の名家に生まれ、
恵まれた教育環境のなか19歳で二年間フランスに国費留学した経歴を知れば納得がいく。
筆子は帰国して結婚後も津田梅子と協力、女子の自立と解放を求めて実に幅広く活動しているのだが、
生涯の盟友となったあの津田梅子が女子教育の先駆者として誰知らぬもの者もない知名度を得ているのに比し、
筆子は…? 「鹿鳴館に舞った社交界の華」 という一章を設けた歴史本にさえ筆子はなぜか登場しないのだ。
『幕末明治美人帳』 というタイトルには笑ってしまうけれど、ポーラ文化研究所から2001年に出たその歴史・写真集には、荻野吟子や平塚らいてうなど、
日本の女性史に凛然と輝く先駆者たちもしっかりした解説付きで紹介されている。
鹿鳴館関係では1884年、日本初の女性主催による大バザーの仕掛け人、大山伯爵夫人(山川)捨松の艶やかな洋装姿が掲載されているが、
実は筆子もこのバザーの実現のために走り回って尽力していたのだし、
そもそも捨松は梅子とともに日本女性として初のアメリカへの留学を果した縁により、筆子とも密に連携していたのだが…
一体この不公平はどこから来るのか? 結局は、筆子が後半生に全霊を傾けた知的障害者教育という分野への無理解、
無名性に行き着くのではなかろうか。要はメジャーかマイナーか…梅子の英語教育が津田塾大学という名門校に結実したのに引き換え、
筆子が石井亮一と血みどろの努力で継続した知的障害者のための滝野川学園の存在は、余りにもひっそりと、
目立たぬままだ…いみじくも、「“近代” を問い歴史に埋もれた女性の生涯」 との副題で、2006年に出た筆子の評伝のタイトルは 『無名〔むみょう〕の人
石井筆子』(一番ケ瀬康子ほか著、ドメス出版)であった。
今回、まことに想定外の夏ばて後遺症ではあったけれど、年金生活者の特権として? たっぷり休養でき、
あれこれ考える材料までもらえたことを有り難く思っている。実は本稿を9月中に、いやもっと早くまとめたいと思っていたところ、
月も変わった最初の日の朝、欠かさず観ているBSのドイツ国営放送のニュースが、なんと! その10月1日を “世界べジタリアン・デー” とすると報じていた。
ドイツの若い女性達の間で、環境や健康、動物愛護のために肉食を止め菜食に転じることが大きなムーヴメントになっているという。
まさにこの日は亡兄の74歳の誕生日…と少しばかり感傷的になっていた私は、何かご褒美をもらったような嬉しい気分になってしまった。
同時にドイツという国の先見性にも改めて感服する。
この国の音楽への好悪は別にして、なによりも、あの福島の惨禍を知ってすぐさま脱原発に舵を切った為政者のモラルの高さ…
このドイツ発の二例、リーダーシップをとったのがともに女性だったことに、何か象徴的な意味合いを感じてしまうのは私だけであろうか?
最後にまたしても宣伝がましいことを一つ。本稿をもっと早く更新しなければ、と焦ったのも、実はそのお知らせを間に合わせたいがためでした。
先回チラシを掲載して頂いた国立女性教育会館NWECでの企画展示 『音楽と歩む』 に連動して、以下の要領でレクチャーをすることになりましたので、
遅まきながらご案内させてください:
日時:2013年10月11日(金) 18時30分―20時30分
場所:国立女性教育会館(NWEC) 音楽室(実技研習棟)
題目:フランスの多彩な女性作曲家たち
講師:小林 緑
CDとDVDを活用して、さまざまな作曲家・作品を紹介
入場無料:事前申し込み受付: HP
:電話 0493-62-6195
*参加者は研修目的という扱いで、1000円にて宿泊施設を
利用可能
詳しくは会館にお問い合わせ下さい。
*展示自体は12月15日まで続きます。
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