2010.6.4

【 メ デ ィ ア 傍 見 】 8

前澤 猛
目次 プロフィール

軍国少年だった私

  【メモ】 戦後65年となる今年(2010年)の8月、原爆忌(6日・広島、9日・長崎)や敗戦記念日(15日)を、マス・メディアはどのように取り上げるだろうか。 もっぱら参議院選挙後の関連ニュースが主役だろうか。
  戦後まもなく、平和を願った全国の学生がユネスコ運動に結集した。そのOB,OGたちが、いまもユネスコアルムニクラブで平和を求めている。 そうした熱い思いを込めて、文集 「それぞれの戦争―戦後65年―体験と記憶」 (A5版155ページ、5月25日刊)が上梓された。
  以下は、このささやかなメディアに提稿した小文。
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  軍国少年だった私

  私が生まれた2週間後に、柳条湖事件が起きて満州事変が始まった。
  それ以来、戦争続きで、14歳の2週間前(旧制中学2年))に敗戦となった。戦後の混乱期を経て、対日講和条約がサンフランシスコで署名され、 本当の平和が到来したのは、成人した2週間後(大学2年)だった。 私は、物心つくかつかないうちに 「忠君愛国」 を信奉させられ、文字通り軍国少年として成人した。

  小学生のころはハーモニカが好きで、病弱だったが、剣道を習わせられ、右翼の大物、頭山満の道場に通った。 横面を何回も叩かれて左耳の鼓膜を破られもした。「欲しがりません 勝つまでは」 と、お小遣いは貯めて、 駄菓子屋に行くかわりに弾丸切手(戦時国債)を買った。

  昭和20年3月10日の夜、東京・渋谷のわが家から見た東の空は真っ赤に染まり、煤が降ってきた。 翌朝、深川のいとこ一家が、焦げた衣服をまとって逃れてきた。本所の大叔父一家は 「消火する」 といって留まり、家もろともに消えたという。

  そのころ、父は徴用されていた工場で上役と諍いを起こし、不良工員として九州の炭鉱へ飛ばされることになった。 東条内閣で国務大臣・軍需次官だった岸信介に墨書で直訴したところ、霞ヶ関の大臣室に招かれ、中学一年の私も父と共に大臣に拝顔した。 「書類などどうでも良い。私が言うのだから、即刻徴用解除だ」。悪名高かった岸の、一市民に示した条理ある一面だった。

  中学校は、配属将校(軍事教官)が幅を利かし、毎週土曜に競歩(マラソン)を、また、毎月のように行軍を強いた。 ゲートルが緩んだり、水筒を飲み干したりしたら、うさぎ跳びの懲罰だった。英語は敵性語といわれ、入学したばかりの1時間目に、 「knife」 を 「クナイフ」 と読んで哄笑された。ただ、音楽教師は 「西洋歌曲」 を教え、物理の講師(東大の大学院生)は、 原子爆弾の脅威と戦争が不可能となる未来を語った。授業の傍ら、防空壕堀りに専心した。

  敗戦直前、2年生の春に栃木県の大田原に疎開し、久し振りに安眠をむさぼった。しかし、地元中学でも配属将校にしごかれた。 木製の銃剣突き訓練では、剣道の竹刀や木刀と握り手が逆で戸惑ったが、剣道で鍛えた気合が大いに受けた。 校舎の半分は、軍によって兵舎に使われていたが、若い兵士がスリッパで殴られたり、 電話ボックスのような狭い独房(営倉)に押し込められたりしているのを見て、軍隊への見方が変わり、反発を覚えるようになった。

  敗戦の詔勅放送は講堂で聞いたが、内容がよくわからず、ふざけあっている生徒もいた。 アナウンサーの説明で、どうやら戦争が終ったらしいとわかったときは気が抜けたが、涙よりは安堵が先立った。

  戦後は、教科書が墨で塗りつぶされ、学業は一層疎遠となり、ほぼ1年間は 「援農作業」 に明け暮れた。 青びょうたんの 「疎開生」 は農作業で馬鹿にされ、いじめられたが、昼飯の銀シャリのおにぎりには涙が出た。

  最近、こんな句を作った。< 麦刈りや蛇投げられし餓鬼のころ>

  敗戦から2年余、昭和23年(1948年)の4月には、学制改革で旧制中学5年生が新制高校2年生になって、やっと学業の環境が整った。 もっともこのころは、映画 「青い山脈」 に若い血をたぎらせ、生徒は 「学園の自由」 をあおり立てた。

  一方、その年の夏、各地方都市で広がっていた文化運動の一環 「夏季大学」 が、地元大田原でも開かれ、 フランス帰りの読売新聞論説委員、松尾邦之助氏の 「ユネスコと平和」 の講演を聞いた。 それをきっかけに町の文化人やら識者やらの間に、ユネスコと平和への関心と情熱が盛り上がり、町にユネスコ協会、高校にユネスコ・クラブが誕生した。

  町と学校と両方のユネスコ活動にのめり込み、再び学業はそっちのけ。東京の高校ユネスコ・クラブやユネスコ協会(準備会)とも交流した。 そして、昭和25年(1950年)春、私はどうやら東京の大学に滑り込んだが、 こんどは大学のユネスコ・クラブや、市民の間に結成された 「ユネスコ水曜会」 にのめり込むこととなった。