2012.6.26

【 メ デ ィ ア 傍 見 】 22

前澤 猛
目次 プロフィール

「白鳥決定」 で 「証拠捏造」 を衝いた団藤重光先生

  団藤重光さんが6月25日に亡くなった。白寿直前の98歳だった。東大教授だった先生と取材で初めてお会いしたのが、もうほぼ半世紀前。 最高裁裁判官になられた後でも30〜40年以上になることを想い、感慨一入だ。その温顔は決して忘れられない。

  6月26日の各紙は 「刑事法学の権威」 「死刑廃止論」 「再審の門を広げた白鳥決定」 「一票の格差」 など、数々の功績を称えているが、 私は、あまり触れられていない二つのことを付記したい。

  @ 先生は、弥生式土器の発祥地である東京大学農学部横の文京区向ヶ丘弥生町に住んでおられた。 各地の歴史的町名や区域が、機械的に変えられる趨勢の中で、先生は、町名の文化的意味を強調されて、「弥生」 町名の存続維持に尽力され、 変更反対訴訟の原告にも加わられた。その地域は1970年にいったん根津に変えられたが、2年後、「弥生」 に復活した。 そのころ、ご自宅でお話をお聞きしたのが、つい最近のように感じる。

  A 白鳥決定は衝撃的だった。決定の出た当日(1975年5月20日)、すぐに社説 「白鳥事件の最高裁決定が示す意義」 を書き、 翌朝の読売新聞に掲載された。白鳥決定の意義が、「疑わしきは被告人の利益に」 という法理を再審に広げたことにあるのはもちろんのことだ。 しかし、私は、この決定が、そうした判断を下した経緯で、もう一つ重大な事実に着目したことに目を瞠った。決定は、次のように述べていたのだ。
  「証拠に関し、第三者の作為、ひては不公正な捜査の介在に対する疑念が生じうることも否定しがたいといわれなければならない」。 生じた疑念とは 「捜査当局による証拠の捏造」 だったのだ。
  私は1956年から4年間、札幌の裁判所や検察庁を担当し、白鳥裁判を取材したが、証拠の試射弾丸の真偽など、疑問の多い事件だった。 しかし、当時の雰囲気では、捜査官による証拠捏造の疑い、とまでは書けなかった。 白鳥決定はえん罪とは判断しなかったが、「被告を有罪にするために、捜査当局が証拠を作る疑いがある」 ことを、厳しく指摘したのだ。

  30数年後の現在でも、捜査当局や検察官によって数々の証拠捏造や隠匿が横行している。 裁判官もその 「作為」 に翻弄されたり、事実認定を誤ったりしている。そうして多くの冤罪を生んでいる。 先生は、捜査や司法の嘆かわしい現状をどう見られておられたのだろうか。

  小生の昔の社説は次のように結ばれていた… 「再審開始に必要な新証拠の取り扱いについて最高裁が示した前向きの判断は、 えん罪に泣く人々に明るい希望を与えた。今後は裁判官が、確定判決の心理的束縛からも自由になることを望む」

  司法記者であった私に、「正義」 や 「事実認定」 について多くの教訓と示唆を下さった団藤先生に、改めて感謝し、ご冥福を祈る。
(2012年6月26日記)