2013.3.29

【 メ デ ィ ア 傍 見 】 27

前澤 猛
目次 プロフィール

読売論調の支離滅裂
―「国会は怠慢」 だが、
「司法は国会の裁量権に踏み込んだ」―

  一票の格差から衆院選を違憲あるいは無効とする司法判決が相次いだ。3月26日の読売新聞は、一面に、大きな3段見出しで、 「違憲審査権の軽視に怒り」 と書いた。三権分立の民主主義国では当然の 「怒り」 だ。

  この真っ当な解説記事の執筆者は社会部の森下義臣となっている。 同記者は、昨年 「東電女性社員殺害事件取材班」 の一員として日本新聞協会賞受賞に輝いた司法記者だ。 だが、従来同紙の社論はどうだったか。森下記者はそれを承知の上で書いたのだろうか。 主筆・渡邉恒雄氏の怒りを浴びなかったのなら良いが、元司法記者の小生の胸は痛い。

  思えば1981年7月、当時は同紙の論説委員だった小生は、いきなり渡邉恒雄論説委員長から、論説会議の開催と小生の社説執筆を禁じられた。 渡邉氏は 「裁判所といえども国会に従うべきだ」 「社論を決めるのは論説会議ではなく私だ」 と言って、 それまでの 「司法による違憲法令審査権の尊重」 という社論を否定し、持論の 「国会による統治行為論」 に切り替えたのだ。

  これに関連して、渡邉氏は、最近になって、「(前澤が)社論に反した社説を書いた」 と誹謗した(2007年10月16日付日本新聞協会報)。 このため、小生が渡邉氏を提訴した名誉棄損訴訟で、東京地裁は、この社論の変更が、「渡邉氏の意向」 であり、 小生は 「渡邉氏の一存で執筆を禁じられた」 と事実認定した(2011年7月。損害賠償は否定)。

  同紙は、渡邉主筆の下、現司法から違憲審査権を剥奪し、立法府による憲法裁判所の設立を主張している (読売新聞の憲法改正第一次試案・1994年11月、同第二次試案・2000年5月)。

  同紙はこの問題についての社説を、当然書くべき3月26日に取り上げていない。 社内の混乱をさらけ出した形だが、30年に及ぶ長期間、渡邉氏ひとりに 「主筆」 を専有された同紙は、どう書くのだろうか。刮目して待つ。 [参照]
(2013年3月26日記)

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  刮目して待っていた同紙の社説が、有力他紙より一日遅れて3月27日に出た。
  見出しは 「国会は司法の警告に即応せよ」 と謳った脇で、「無効判断は無責任ではないか」 と批判しており、論旨がちぐはぐだ。

  本文は、「司法から国会の怠慢を指摘された」 と判決の是非判断は避け、その上で 「事情判決の法理」 を採用すべきで、 「立法府の裁量権に司法が踏み込んだ」 と怒っている。、要するに本旨は 「統治行為論の主張」 にほかならない。

  矛盾するのは、「最高裁には現実的な判断を示してもらいたい」 と注文をつけていることで、 これでは、立法府の裁量権の失態の後始末は司法に委ねて良い、という文脈になり、なんとも支離滅裂の印象を受ける。

  なお、同紙が逃げ道として強調する 「事情判決」 は、1976年4月の最高裁判決で初めて採用された時限的法理で、 いわば 「国会に短期の猶予を容認した」 といって良い。 判決の直後、村上朝一長官にこの判断について直接聞いたところ、「民事・行政事件の法理で、一時逃れの苦しい選択だった」 と苦笑していた。 その苦肉の事情判決の趣旨が無視されて、35年間も生き延びさせられては、鬼籍の村上さんも臍を噛んでいるのではなかろうか。

  なによりも、主筆の座を、恐らく終生譲ろうとしない渡邉氏の 「社論」 が、今でも、「司法の違憲審査権」 の発動を 「無責任」 と決め付けているのは、 さもあらんとは思うが、滑稽でもある。
(3月27日追記)