2013.12.4更新

【 メ デ ィ ア 傍 見 】 33

前澤 猛
目次 プロフィール

空から撒かれた 「国家の最高機密」
―ビラを作った捕虜収容所のジャーナリストたち―

  いまのこの時期、私は、心底、この4人のジャーナリストの貴重な体験と真情とについて語りたいと思う。

  特定秘密保護法は、表現の自由より国家機密の秘匿を優先させようとする。国家機密とは何だろうか。 国民に知らせてはならない国益のための国家の秘密なんてあるのだろうか。少なくとも、ジャーナリストが追及してならない国の情報などあるのだろうか。

  忘れられないメディア史の一こま
  米ソ冷戦さなかの1986年5月。米潜水艦によるソ連の通信探知がソ連に漏れた 「ペルトン事件」 が起き、ワシントン・ポスト紙がその事実を報じた。 その直後、たまたまニュース・オンブズマン協会の大会がワシントンで開かれ、同紙のブラッドリー編集局長のスピーチを聞いた。

  ブラドリーによれば、「ポスト紙が事件を知ったとき、レーガン大統領からグラハム社主に直接電話がかかってきた。 『国益にかかる機密だから、報道しないように』 と求めてきたのだ。国家機密か報道の自由かの選択を迫られたが、われわれは書いた」 という。

  そして、ブラッドリーはこう結んだ。
  「機密を握る者が 『国益』 を名分に新聞を抑えることこそ、国を危うくする行為だ」

  和平を促進した 「秘密の暴露」
  日本近代史で、最大の国家機密を挙げるとしたら何だろうか。 その一つは、太平洋戦争末期に連合国が日本政府に降伏とその条件を要求した 「ポツダム宣言」 ではないだろうか。
  同宣言の内容と、その後の日米折衝経過を伝えるビラ (「マリヤナ時報」 号外)を作ったのはハワイの 「真珠湾収容所」 にいた日本人捕虜グループであり、 その中心は4人のジャーナリストだった。彼らは、真実を祖国に伝えることで、一人でも多くの日本人を戦火から救おうとしたのだ。 それらのビラは、焦土の日本本土に撒かれ、終戦を促進した。
  収容所長だったオーテス・ケーリ(1921-2006。戦後、同志社大学教授)は、そうした捕虜たちの心境と行動をこう書いている。
  ポツダム宣言の日が来た…「もう、戦争に行かなくてもいいんだ。素晴らしいじゃないか。体が軽々とするね」
  喜んでみたものの、日本の戦争指導者が、これを承知するとは思えなかった。
  国民一般が、このポツダム宣言の全文を知れば、和平への気運が国内で高まるに違いない。 指導者は、宣言をすっかりそのままは国民に見せないかもしれない。立派な日本語にして、空から撒こうということになった。
  翻訳係が訳したものを…みんなが頭を集めて、意味の正確さと、訳文の自然さをギリギリに検討し、徹夜で磨きをかけた。
  当時B-29で、日本に撒かれたポツダム宣言は、途中で要らぬ手を入れられはしたが、その元は、こうして生まれたものだった。
(オーテス・ケーリ著 「真珠湾収容所の捕虜たち」 ちくま学芸文庫)


日本本土に撒かれた 「ポツダム宣言」 のビラ (国会図書館提供)

  玉砕島から生還、そして戦争の実態を伝える
  4人のジャーナリストは、いずれも大本営発表では 「玉砕」 とされた南方の島々で栄養失調に陥り、捕虜となって九死に一生を得た。 そして日本の将兵や国民に戦争の真実を伝える新聞 「マリヤナ時報」 を制作し、戦場や本土に撒いた。

  小柳 胖(おやなぎ・ゆたか)―(1911-1986) 新潟日報編集局長のとき応召。硫黄島で捕虜に。戦後、復職、同社社長になる。
  横田正平―(1912-1985) 朝日新聞記者のとき応召。グアム島で捕虜に。戦後、同社復帰。支局長を歴任して後輩を育てた。
  高橋義樹―(1917-1979) 同盟通信社から海軍報道班員としてサイパン島に派遣。グアム島で捕虜に。戦後、改編された共同通信に復職。
  小島清文―(1919-2002) 学徒動員で戦艦 「大和」 に乗船。ルソン島で捕虜に。戦後、島根県で 「石見タイムズ」 を創刊して編集局長。

  グループのまとめ役は小柳胖で、その包容力から幡随院長兵衛にあやかって “幡(ばん)さん” と呼ばれていた。 敗戦1か月後、日本に進駐したケーリから家族にもたらされた小柳の手紙には、こう書かれていた。

    拝啓 九月十一日夕刻
    Cary海軍大尉に託す
    俺は生きてゐる。その第一報
    委細は帰国後に譲る外は無い。
    母上の其後の健康を非常に案じてゐる。


(写真は 「新潟日報」 2007年3月23日掲載)

  様々な戦後の生き方
  高橋義樹は、初めはペンネーム(堀川 潭)で、その後は実名で、次々と本を著し、戦中の体験を積極的に語った。
  堀川潭著 『玉砕! グアム・サイパン』(学習研究社。1972年)
  堀川潭著 『悲劇の島』(光人社NF文庫。2002年)
  高橋義樹著 『サイパン特派員の見た玉砕の島』(光人社NF文庫。2008年)など。

  小島清文は、「石見タイムズ」 に、匿名で体験ルポを連載したあと、実名で単行本を出版した。 同時に1988年に 「不戦兵士の会」 を設立して戦争体験の語り部となり、その生き方がしばしばメディアで紹介された。
  小島清文著 『投降』(図書出版社。1979年)(光人社NF文庫。2008年)』
  小島清文著 『栗田艦隊』(図書出版社。1979年。『栗田艦隊退却す』 として光人社NF文庫。2009年)
  永沢道雄著 『「不戦兵士」 小島清文』(朝日ソノラマ。1995年)
  吉田豊明著 『伝説の地方紙 「石見タイムズ」』(明石書店。2004年)

  小柳胖と横田正平は、生前、体験を公表することはなかった。しかし、渋るケーリを説得して、 『日本の若い者』(1950年、日比谷出版社刊。 『真珠湾収容所の捕虜たち』 の原本)の執筆・出版を実現させた。

  横田は亡くなった後、本人が残した詳細な手記が見つかり、遺族の手で出版された。
  横田正平著 『玉砕しなかった兵士の手記』(草思社。1988年)
  横田正平著 『私は玉砕しなかった』(中公文庫。1999年)

  後輩記者は 「横田さんは戦争の話はしなかった…支局長として多くの若い記者を育てる役に回った…戦後は、 そうしたジャーナリストのいわば義務教育を担当する教師とし過ごした時間が長かった」 と想起している(『私は玉砕しなかった』 の解説で石川真澄氏)

  小柳も沈黙を守った。いま101歳の小柳マサ夫人が、先日、私の書面質問に、こう答えた。
  「(戦時中の体験や捕虜について)一切語ることがなかったが、多くの戦友を失ったことや、 捕虜時代に病院で特別の処遇を受けてしまったことなどについて、思いつめていたようだった。 戦後の新聞経営では難しい局面や問題を抱え、仕事本位だったが、自宅で手料理をふるまい、社員をとっても大切にしていたと思う」
  小柳の名による捕虜体験の出版物は、何もない。しかし、没後かなり経ってから、戦中と捕虜時代に家族に宛てて書いた多くの手紙が見つかった。 新潟日報が、それらを伝える特集記事 「第一報 『俺は生きている』」 を掲載し、手紙の内容や写真を紹介した(2007年3月23日)。

  4人を含む捕虜たちは、戦後、捕虜収容所長だったオーテス・ケーリとの親睦会 「パリパリ会」 を作り、長く交流を続けた。

  「日本の言論の自由が…気にかかっているのです」
  新潟日報の記事によれば、小柳は、ハワイからの手紙の一つに、次のように書いている。
  「日本の言論の自由、通信社の自由、食糧問題…燃料閤題、住宅問題が当面の僕の一等気にかかってゐるのです」 (1945年9月14日付)
  特集を書いた若い記者、梶井節子は、これらの文面に触れたとき、体が震えたという。

  軍国主義の言論抑圧の中で、日本の為政者は、1941年の暮れ、真実を覆い隠したまま国民を太平洋戦争に引きずり込んだ。 その開戦記念日12月8日を、彼らは毎年どのような思いで過ごしていたのだろうか。 ジャーナリストとして、何よりも 「言論の自由」、すなわち国家機密のない日本であることを渇望していたのは疑いがない。
(開戦記念日を前に、2013年12月4日記)