それは、宣言に対する日本政府と連合国とのやり取りを報じたもので、8月14日に昭和天皇の決断を促し、
「終戦の詔書」 の同深夜の録音と翌日正午の 「玉音放送」 をもたらした。
しかし、二つのビラの間、即ち政府が一連の情報を 「保護」 し 「秘匿」 したこの3週間に、国民は甚大な犠牲を強いられたのだった。
終戦を決断させた 「秘密暴露」 のビラ
オーテス・ケーリ著 「真珠湾収容所の捕虜たち」(筑摩書房2013年7月刊)は、こう書いている―
「このポツダム宣言の全文を知れば、和平への機運が国内で高まるに違いない」
「われわれの喜びは、間もなく鈴木(貫太郎)首相の黙殺放送で吹き飛ばされた…その悪魔の声≠ェ招いたかのように、原子爆弾が広島を襲った」
そして、二度目のビラが作られ撒かれた。
日本人捕虜の一人は、次のように、当時の焦りを綴っている―
「12日も13日も日本からはなんの回答もなく、米軍の日本本土爆撃は再び熾烈さを加えようとしていた…
私たちはラジオの前でじりじりしはじめていた」 「ちょうどその頃、私たちが作ったこの(二つ目の)ビラが日本政府に最後の引導を渡していた等ということを、
当時私たちは知るよしもなかった」(小島清文著 「投降」 図書出版社1979年刊)
しかし、二つ目のビラは、次のように、決定的な効果を挙げた。
「昭和二十年八月十四日(火)晴 敵飛行機は聯合国の回答をビラにして散布しつつあり。
此の状況にて日を経るときは全国混乱に陥るの虞(おそれ)ありと考へたるを以って、
…(昭和天皇に)拝謁、右の趣を言上す」(「木戸幸一日記・下巻」東京大学出版会1966年刊)
天皇自身の証言を記録した 「昭和天皇独白録」(文芸春秋1991年刊)によれば、昭和天皇自身が、この日を次のように回想している。
「このビラが軍隊一般の手に入ると 『クーデター』 の起こるのは必然である。
そこで私は、何を置いても、廟議の決定を少しでも早くしなければならぬと決心し、(8月)十四日午前八時半頃鈴木総理を呼んで、
速急(即急)に会議を開くべきを命じた」
政府の恣意と国民の安全
太平洋戦争開戦記念日の直前、12月6日に国会は 「特定秘密保護法」 を成立させた。その数日後、大学で学生に、この法律の話をした。
ほとんど関心のなかった(ように見えた)学生たちに、このビラのエピソードを交えて、同法や戦前の治安維持法などについて、
次のように私見を述べたところ、真剣な眼差しに変わった。
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「特定秘密保護法」 と 「情報の公開」 に関連して、自民党の石破茂幹事長は12月11日、
日本記者クラブの記者会見で 「(特定秘密の)報道によって我が国の安全が極めて危機に瀕(ひん)するなら、
何らかの方法で抑制されるべきだろう」 と述べました。さらに報道の処罰についても、「最終的には司法の判断になる」 と否定しませんでした。
後でこの発言を訂正しましたが、これは同法に賛成の論調を張っている読売新聞も報じています。
特定秘密保護法の言う 「国家及び国民の安全を保障」 する情報が、国民の知らないところに秘匿されて、それで国民は安眠できるでしょうか。
「治安維持法」 とは違うといいます。しかし、政府の恣意で秘密を特定し、管理し、半世紀以上も秘匿し、そのために国民を重罰でおどす法律は、
「国体を否定し、または神宮もしくは皇室の尊厳を冒涜すべき事項を流布すること」 を禁じた治安維持法と、その発想や意図が、
本質的にどれだけ違うと言えるでしょうか。
(2013年12月18日記)