2014.1.30更新

【 メ デ ィ ア 傍 見 】 37

前澤 猛
目次 プロフィール

「情報管制」と「大本営発表」に学ぶ

J 国益という 「秘密保護」 が招いた悲劇

  太平洋戦争の最中、ともに<銃後を守った少年少女>だった学友3人と、1月19日、「東京大空襲・戦災資料センター」(江東区北砂)を訪れた。

  敗色濃厚にもかかわらず、あえて 「本土決戦」 を唱えた日本政府と軍部のために、1945年3月10日未明、米軍B29約300機の空爆によって、 東京の下町は焦土と化し、十万人が死に 100万人が罹災した。その後、相次ぐ空爆によって、東京をはじめ全国の都市が破壊された。
  同センターには、「空襲の被害」 「東京大空襲と朝鮮人」 「爆弾」 など、当時の惨劇の経過と実態を伝える数々の貴重な資料や記録が保存され、 展示されている。

  資料には、戦争末期に本土に撒かれビラや新聞30数点が 「アメリカ軍伝単」 として含まれている(注・「伝単」=《中国語から》 宣伝びら。 第二次大戦中に使われた語 【大辞泉】)。
  その多くは、これまで 「メディア傍見」 で紹介した捕虜の日本人ジャーナリストたちが制作に関与したもので、 「真珠湾収容所の捕虜たち」(オーテス・ケーリ著、筑摩学芸文庫)の復刻出版に関わった一人として、感慨深かった。
  それらは、当時の戦争の実相を伝え、東京大空襲や原爆投下をも予告し、戦争の早期終結を促していた。 しかし、これらは、私の体験でも、拾った市民から直ぐに取り上げられ、所持が分かると憲兵に捕まった。
  そこに含まれた情報が 「国家機密」 として管制されずに国民に伝わっていたら、どれだけ太平洋戦争末期の惨禍が免れられたか、 と胸がふさがる思いだった。

  センターを出ると、ことのほか北風が冷たかった。

    <戦災の資料館出で寒の風  猛>

  以下に、展示されていた文書の一端を紹介する。


東京への大空襲を予告したビラ


地方都市爆撃を伝えた 「マリヤナ時報」(1945年7月16日付)


「広島原爆投下」 と 「次の投下予告」 を伝えたビラ

  「ポツダム宣言」 を伝える 「マリヤナ時報号外」(「メディア傍見」 33添付)と、 昭和天皇に終戦を決断させたビラ 「日本の皆様(同宣言に関する日本と連合国の応答)」(「メディア傍見」 34添付)のコピーもあった。 (同センター(03-5857-5631)は、水曜から日曜まで正午〜4時開館)

K 情報操作に翻弄された小野田さん

  「東京大空襲・戦災資料センター」 を訪れる3日前の1月16日に小野田寛郎さんが91歳で亡くなった。 元陸軍少尉小野田さんは、日本の敗戦(1945年8月)後も29年間、フィリピン・ルバング島のジャングルの中で孤独な戦いを続けた。
  小野田さんは情報将校だったが、「大本営発表」 と 「軍の上官命令」 という管理された情報社会の中で生きていて、 真実を伝えるアメリカの情報を信じられなかったのだ。元上官から直に 「任務終了」 の命令を聞いて解放され、1974年3月に復員帰国した。

  メディアは自宅の詳細な住所を報道しなかった。たまたま、2年前、「資料センター」 を訪ねた同じ友人と共に、 隅田川畔の佃島(中央区佃)の住吉神社を訪れたとき、境内に立てられた寄付者高札のなかに、「小野田寛郎」 の名を見つけた。
  小野田さんは、神社に近い、江戸の風情の残る下町の真ん中に住んでいた。 自宅は小さな住宅ビルで、玄関には、「自然塾」(自然の中で青少年が生きるためにと84年に設立)の看板がかかっていた。

  その友人から、先日、イギリスの 「エコノミスト誌」 のコピーが送られてきた。 それは、以下のように、小野田さんの生き様を1ページにわたって特集していた。 記事は、小野田さんが、国と軍隊の閉鎖的な情報に縛られていた経緯を伝え、特に次の戦陣訓を引用している。
  「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿(なか)れ」(注・ 『戦陣訓』 「本訓 其の二」、「第八 名を惜しむ」)
  そして、「一睡の夢だった」 という小野田さんの述懐で、記事を締めくくっている。


敗戦から29年後、誤情報から解放された小野田寛郎さん
(The Economist誌、2014年1月25日号の掲載記事。部分)


L 「言論の自由を一切制限しない」―まさかの甘言

  以上は、治安維持法と大本営発表に 「情報の自由」 が縛られた太平洋戦争時の話。現在のメディア状況はどうだろうか。 残念ながら、自分達の足元に火がついている 「特定秘密保護法」 阻止のため、どれだけジャーナリズム生命を賭けているといえるだろうか。 「情報の自由」 について、二つの時代に本質的にどれだけの違いがあるといえるだろうか。

  まず、「日本新聞協会」 について。
  この協会は 「全国の新聞社・通信社・放送局が倫理の向上を目指す自主的な組織として、戦後間もない1946年7月23日に創立されました」 と言い、 その 「倫理」 については、「言論・表現の自由を擁護するため、取材・報道を規制する法規制に反対しています」 と明言している(Web)。
  しかし、機関紙 「新聞協会報」 の今年の元旦号に載った会長(読売新聞グループ本社社長・白石興二郎氏)の年頭挨拶は、「特定秘密保護法」 について、 「国民的な議論を巻き起こした」 と傍観的で、「今後も取材・報道の自由が阻害されないよう注視して いく所存です」 と、まるで他人事だ。
  また、同紙1月21日号は、同法のための 「情報保全諮問会議」 の初会合を報じ、 渡辺恒雄氏(同上読売本社会長・主筆)の座長就任と同氏のコメントを載せたが、同氏には 「国家機密守るため…国益を踏まえ、 厳しく検討して行く」 と語らせている。
  同氏は、「国家機密を守る」 「国益を踏まえ」 を前提とし、かつ、新聞協会が倫理としている 「法規制に反対」 ではなく、 単に 「法の執行を監視するのが義務」 と述べている。

  渡辺氏は、沖縄返還の日米密約にかかわる 「外務省機密漏洩事件」 では、東京地裁で証人として、外務省の機密指定保持を厳しく批判し、 西山太吉・元毎日新聞記者の一審での無罪判決(1974年)に寄与した。
  同事件は最高裁決定(1978年)で有罪が確定したが、国家機密に対する市民とメディアの関心を高めるきっかけとなった。
  しかし、同氏は、1985年のいわゆる 「スパイ防止法」 の議員提案以来、国家機密保護の立法に賛同しており、それはメディア内部でも広く知られている。 そして、同年以来、渡辺氏は30年近く主筆を務め、読売新聞の社説は 「特定秘密保護法」 の成立を歓迎した。
  そうした人物─―そして、1000万部の発行部数を擁する日本最大の新聞の会長であり主筆であり、メディアのトップを自負している渡邉氏が、 秘密保護法の諮問会議座長に就き、そしてそれに、正面から反対しないメディアなど、欧米のジャーナリズムではあり得ない現象といえるだろう。

  秘密保護法に強く反対してきた朝日新聞ですら、社説(1月16日)で、次のように注文するだけだ。
  <渡辺氏は座長就任にあたっては 「『言論の自由』 や 『報道・取材の自由』 が、 この法律でいささかも抑制されることがないよう法の執行を監視するのが義務だと考えています」 との談話を出した。 であれば、そのことば通り、議論をオープンにし、政府の行き過ぎに歯止めをかけるべきだ。政府の方針を追認するだけに終わっては意味がない>
  同紙は、1月29日の 「メディア・タイムズ」 欄(第三社会面)に 「座長に読売トップ 是非は」 という特集記事を載せたが、 そこでも、賛否両論を併記するに留めている。

  次は、「日本記者クラブ」 の問題に移る。
  同クラブは、「日本で唯一の 『ナショナル・プレスクラブ』 です。1969年、日本の主な新聞、放送、通信各社が自主的に結成しました。 会員が負担する会費により運営し、政府からの財政援助は受けていません。 プレスによる非営利の独立組織です…人々の 『知る権利』 に資するジャーナリズム活動の拠点です」 と謳っている(Web)。 同クラブは、ジャーナリズムの独立性を標榜する米国・ワシントンD.C.のナショナル・プレスクラブに範をとって設立されたはずだ。

  しかし…新聞協会報1月21日号によると、日本記者クラブの新年会(新年互礼会員懇親会、1月17日)には安倍首相が挨拶に立ち、 「特定秘密保護法が言論の自由を一切制限しないことは断言する」 と強調したという。
  特定秘密保護法を成立させておいて、そう断言できるはずがない。断言を実現させるためには、保護法そのものを廃案にするより他に選択肢はない。 それは自明の理だろう。しかし、この記事によれば、214人の会員が出席し、また、その中の3人のジャーナリストの発言も紹介されているが、 記事には秘密保護法反対や首相の断言に対する反論は掲載されていない。


首相の断言を拝聴? (新聞協会報、2014年1月21日号)

  日本の主要新聞は、読売、産経、北国を除いてほとんどが秘密保護法に反対した。 しかし、日本新聞協会は機関紙上で、第三者のように、同法の関連記事を淡々と 「客観報道」 している。日本記者クラブも大人しい。
  日本のメディアは、総じて、読売新聞と安倍首相の顔色を伺い、そして、首相が断言するように、 同法が本当に 「言論の自由を一切制限しない」 と信じているのだろうか。私達は、そう印象付けられている。
(2014年1月30日記)