2010.1.1

【マスメディアをどう読むか】

関東学院大学教授・日本ジャーナリスト会議
 丸山 重威
目次 連載に当たって

◎「基地のない日本」をどう作るか
−2010年への展望

  2010年、日本は新政権のもとで新しい年を迎えた。
  鳩山内閣の誕生は、官僚組織が実質的な力を持っていた日本の政治を、「政治主導」 を唱えて変革し、 問題点が目に見えて明らかになった 「新自由主義・構造改革」 にメスを入れ、「米国一辺倒」 の日本外交を建て直す方向に向かうのではないか、と期待された。
  しかし、政権100日を過ぎて、鳩山首相自身の献金問題などに振り回され、メディアの質問に正直に答える首相や閣僚の発言が 「迷走」 を印象づけ、厳しい状況にある。

  だが、そこで考えてみたい。ジャーナリズムが常にシニカルで、野党的であることは意味があることだが、それは必ずしも建設的な力を持ち得ないこともある。
  私たちは、いまメディアというフィルターを意識し、政権の目指している方向とそれを作るためにどうしたらいいか考えなければならない時を迎えているのではないか。
  年の初めに、沖縄・普天間基地問題についての動きを検証しつつ、日本の将来と政治、そしてメディアを考えたい。

  ▼「混迷」と「危機」の報道
  「普天間基地は県外または国外移設で交渉する」 と公約した鳩山内閣は、普天間基地の移転先をはっきりさせられないまま、年を越した。
  琉球新報は、問題の越年が決まった12月16日、「民意を踏まえる出発点に」 と書いたが、本土の新聞は 「鳩山外交に募る不安」(朝日)、 「展望なき 『越年』 は誤り」(読売) 「普天間先送りが深める日米同盟の危機」(日経)と書いて、「日米関係の危機」 を煽った。

  その後も、首相や閣僚の発言は、「抑止力の観点から見てグアムにすべてを移設するのは無理があるのではないか」(首相、26日)、 「グアム移転案も排除しない」(平野官房長官、27日)、「沖縄の声は踏まえないといけない。きれいな海を汚してはいけない」(小沢幹事長、28日)、 「米国の意向を無視した合意はあり得ない」(28日、首相)、「現行案は生きている」(29日、岡田外相)、 「宮古島市の下地島に使っていない空港がある」(29日、小沢幹事長)などと続き、「混迷」 の印象を与えた。

  しかし、個々の発言をどう扱うかがメディアの仕事だとすれば、それを演出することで 「辺野古既定路線」 を無理やり認めさせようとする勢力と、 普天間基地の無条件返還、新たな打開策を求め続ける勢力とのぶつかり合い、ということになる。

  社説だけではない。報道でも露骨で、18日の朝日新聞では、「在日米軍基地 なぜ縮小されない?」 という特集を書きながら、 そこに 「思いやり予算」 についての記述がなく、疑問を持った読者が公開質問状を出した。 21日には 「クリントン国務長官が藤崎駐米大使をいきなり呼び出した。これは異例の措置」 と朝日、毎日などが一斉に報じたが、 クローリー国務次官補は、翌日の記者会見で 「呼んでない。(藤崎)大使が立ち寄ったのだ」 と明かした、という話があったり、 マスメディアもこの状況に巻き込まれている。

  ▼米国の「内政干渉」とメディアの「合唱」
  手順や方法はさすが米国だ、と皮肉を言いたくなるのだが、米国は、日本に民主党政権が誕生するのに備えて、早々とクリントン国務長官が飛んできて、 中曽根弘文外相との間で、グアム協定を結びんだ。「思いやり予算といってもやりすぎ」 という批判はあったが、事前にも事後にも、ほとんど議論されないまま、 国会も批准した。

  選挙戦に入ると、「知日派」 と称する 「ジャパンハンドラー」 たちが動き、マイケル・グリーンCSIS(米戦略国際問題研究所)日本部長や、 ニート・ギングリッチ元下院議長を朝日に登場させたり、政権成立間もなくには、ゲーツ国防長官が訪日して、一種の 「恫喝」 を繰り返した。

  12月に入ると、日米閣僚級作業グループ(WG)の検証作業が開かれた外務省で、ルース駐日大使は、 少人数会合の場で、岡田克也外相と北沢俊美防衛相を前に顔を真っ赤にして大声を張り上げ、年内決着を先送りにする日本側に怒りをあらわにした、と報じられた。 ルース大使のパフォーマンスか、それを大きく取り上げたメディアの脚色かはわからない。

  一方で、来日したグリーン氏やアーミテージ元米国務副長官らは7日、自民党の谷垣総裁と会談、 「日本政府が安全保障をどういう方向に導こうとしているのか理解できない」 と述べ、現政権の外交・安保政策を批判した。 これを 「内政干渉」 と批判したのは、琉球新報だけだった。

  基地問題を意識した全国紙は、8月総選挙の結果が出ると、読売は 「基本政策は継続性が重要だ」、産経は 「民主党政権 現実路線で国益を守れ」、 日経は 「鳩山政権は対米政策で 『君子豹変』 せよ」 と書き、朝日も 「政策を具体化するにあたって、 間違った点や足りない点が見つかったら豹変の勇気をもつことだ」 と書いて、「政策を変えるな」 と 「合唱」 した。 毎日は、「マニフェスト選挙を強調しておきながら、208議席の支持を取り付けた政権公約を選挙後1週間もたたないうちに考え直せ、 とはいかがなものであろうか」 と批判したのは当然だった。

  しかし、普天間問題に限ってみると、読売、産経は言うに及ばず、朝日も船橋洋一主筆が11月5日付のコラム 「日本@世界」 で、 「普天間移設に関しては、『県外移設』 案も 『嘉手納統合』 案も日本の国内、沖縄県内に強い反対がある以上、難しい。 現実には 『辺野古沖』 案と海兵隊のグアム移転案を基地統合再編の第一歩と位置づけたいと思う」 と、辺野古反対論に背を向けた。

  ▼「たらい回し」論をやめよう
  そもそも基地問題とは何か、を考えてみれば、独立国として、戦後60年以上も占領軍が駐留し続けている、ということが異常であることは言うまでもない。 そして同時に、見逃せないのは、米軍の駐留を決めた 「冷戦」 の真っただ中、「第3次世界大戦」 も心配されたサンフランシスコ条約の時代とは違って、 米軍の駐留の意味がすっかり違ってしまっている事実をずっと放置し、沖縄の負担についても、もうひとつ真剣に考えてこなかったことである。

  毎日新聞と琉球新報が10月31日と11月1日に行った沖縄県民の世論調査では、「県外・国外移設を目指して交渉すべき」 に70%が賛成、 辺野古 「移設」 には67%が反対という結果が出ていた。
  よく 「日本の国土の0・6%しかない沖縄県に、在日米軍基地の75%が集中」 「沖縄県の面積の11%、沖縄本島だけで見れば、 20%が米軍基地で占められている」 といわれるているが、その結果もあって、「基地問題」 は全国的な問題にならなかった。
  そして多くのメディアは、国民にその本質的な意味を考えさせようとしないまま、ただ時間だけが経っていった。

  一例を挙げよう。2006年3月、山口県岩国市で取り組まれた米軍再配置による米艦載機の受け入れについての住民投票は、 政府・与党の投票ボイコットや住民投票反対の運動にも拘わらず、投票率58.68%、受け入れ反対が87.42%で、受け入れ反対の住民の意思が示された。
  だが、それに対する全国紙の論調は、「それでも在日米軍再編は必要だ」(読売) 「国の安全をどうするのか」(産経)という意見を別としても、 「地元無視のツケだ」(朝日) 「『民意』 の中身を吟味せよ」(毎日)と曖昧で、 「国内でのたらい回しをやめて、海外移転させる選択肢はないのか」 「その場しのぎの対応は限界に来ている」(新潟)とか 「新たな安全保障環境を考えるなら、もっと大幅な海外移転こそ検討すべきだ」(南日本)などとする地方紙とはっきりした対比を見せた。 (私の 『新聞は憲法を捨てていいのか』 新日本出版社・参照)

  しかし、どうだろう。もう、どこであれ沖縄に移すのは無理なのだし、ほかの都道府県でも 「受け入れ」 は 「中央」 への屈服、 「札束」 にふるさとを売り渡すことでしかない現実がある以上、その 「たらい回し」 にどれだけの意味があるのか?

  鳩山首相はかつて 「常時駐留なき日米安保」 の構想を掲げたことがあり、これについて12月16日、 「現実の、総理という立場に立ち、その考え方はやはり今、封印しなければならない」 と述べたが、 同時に、「相当長期的な、50年、100年という発想の中で、他国の軍隊が居続けることが果たして適当かどうかという議論は当然ある」 とも述べている。 メディアはこのことをもっと深刻に受け止め、考えて行くべきではないのか。

  話は簡単で、もはやこの際、首相自身が 「基地を引き受ける都道府県も市町村もないのだから、それをはっきりさせた上で、 米側と交渉する」 と言い出せばいいのだが、鳩山首相は、政治情勢が熟するのを待っているのか、なぜかその路線に踏み切ってはいない。
  しかし、地方有力紙が言う通り、まさに、「正念場はこれから」(北海道) 「『県外・国外』 に軸足を」(東京・中日)ということではないのだろうか。

  ▼情勢の変化を見詰めよう
  米国はこれまで述べたように、自民党政権のもとで決められた方針を、新政権にも継続してもらおうと働きかけを強めてきた。 しかし、ここで言われる 「米国」 は、いまの日米関係をそのまま継続させようという勢力で、「チェンジ」 を掲げ、 米軍の世界戦略についても見直しを考えるオバマ大統領とは、恐らくニュアンスも違っている。
  米国が全世界に敷いていた 「世界の警察官」 としての軍事的プレゼンスについても、本当にそれがいいのか、どうしたらいいのか、 という議論が始まっているのではないか。もしかしたら、日本の鳩山政権と同じような図式が、米国内でも描かれている可能性があるのではないか、 考えてみなければならない。

  よく考えてみよう。日本は軍備を持たず、「平和を愛する諸国民の公正と信義」 に信頼して自分たちの平和と安全を守っていこうと考えた。 「冷戦期」 にはそれどころではなかったから、日本には米軍基地が生まれ、必要以上の実力を持ち 「戦力」 と疑われるような自衛隊も生まれてしまった。
  しかし、状況の変化は、いよいよこの 「軍備なき日本」 に向かう方向性を求めているのではないか。 日本はまず、防衛に直接関係がない米軍基地を撤去することから始めて、「周辺アジア諸国の信頼に基づいた安全確保の方向」 に一歩踏みだし、 日本国憲法が考えた国家像を構築していくべきではないか。
  こうした方向に困るのは誰か。簡単に書けば、戦争で稼ぎ、兵器で自らを潤わそうとする 「死の商人」 とその周辺だ。

  2010年、この経済情勢の中で内政も容易ではない。鳩山首相は、いろんな発言で世論を引き付けつつ、政治状況をつくっていこうという、 打たれ強く、したたかな政治家なのか、それとも、豊かな家庭に生まれ、ひ弱にぶれまくっているお坊ちゃん政治家なのか、それは分からない。
  しかし、はっきりしていることは、日本国民がどれだけこの問題に真剣に取り組み、歴史の歯車を回す力になるかどうかで、状況は変わる。

  明治期、治外法権と関税自主権を奪われた不平等条約を結ばなければならなかった日本は、その解消のために、歴代の内閣がそれこそ国を挙げて交渉を続けた。 条約改正が達成されたのは日露戦争後の1911年(明治44年)だったとされる。
  日本から基地がなくなるのを、あと何年と考えるか。いまの鳩山内閣は、そのスタートを切れるか。
  メディアはその足を引っ張るのではなく、どの国であれ、「外国に軍隊を置くのはおかしい」 という当たり前の道理と、 日本の安全を 「諸国民の公正と信義」 に依拠できる条件作りへのステップを、作っていくことに 「ことばの力」 を発揮しなければならない。
  21世紀の最初の10年を締めくくる年、ことしはその展望を明らかにする年であってほしいと思う。
2010.1.1