2010.9.13更新

小さき人々にとっての20世紀

中野 慶 (編集者)
目次

第五回 松川事件、狭山事件、志布志事件から考える

  映画 「アラビアのロレンス」 をご覧になった方は、ロレンスが列車爆破に関わったシーンにも鮮明な記憶をお持ちであろう。 中野好夫 『アラビアのロレンス』 (岩波新書)にも書かれているが、ロレンスはオスマン帝国に対するアラブの反乱を支援し、 鉄道破壊などのゲリラ戦にも従事している。この映画を思い出しつつ、松川事件に言及したいと思った。

  一九四九年八月一七日の松川事件(福島県・列車転覆事件)発生直後において、 国鉄の調査団が列車転覆の現場を検証し 「この方法は戦時中大陸や南方で軍隊がおこなった列車妨害の手口であり」 (福島民報、八月二○日)という見方を示していることは興味深い。
  その後、事件の真相は一九五○年代以降に多くの松川運動関係者やジャーナリストによって追跡されたが、解明されずに今日に至っている。 日本現代史の資料の宝庫である米国国立公文書館(NARA)においても、NHKのスタッフがかつて長期間取材したが、成果は乏しかったという。 またこの夏に NARA を訪問して調査をした第一線の研究者の話でも、下山・三鷹・松川事件については何の収穫もなかったという。

  映画 「アラビアのロレンス」 に戻れば、この映画が日本で上映開始されたのは、 奇しくも一四年の裁判の末に、松川事件の被告全員の無罪が確定した一九六三年九月一二日からわずか三ヶ月後のことである。
  その当時、松川事件の真犯人について世間の関心は強かった。 真犯人とおぼしき者から弁護団の一人宛に送られた手紙(書簡の届いたのは五八年一一月、弁護団による公表は無罪確定の当日)があってのことだった。 事件に関与したという七人は名古屋、前橋、岡山にいると記されていた。この七人はその後果たして 「アラビアのロレンス」 を見たのだろうか。 全く些末ではあるが、私はそのことも気にかかる。そして七人はどこへ行ったのか。

  さて松川事件の概略については多言を要しない。謎の列車転覆事件の真犯人は闇に紛れて逃走していった。 それに対して、赤間勝美青年を 「突破口」 にして、国鉄と東芝の労働者計二○人が列車転覆事件の容疑者に仕立てられた。 代用監獄を舞台にした自白の強要、証拠なきままの起訴、 警察・検察の誘導のままにメディアは共産党員及び労働組合員の犯行であるという歪んだ報道を続け、 一審・二審の裁判長はそれらに依拠した判決(死刑を含む有罪判決、一審は全員有罪、二審は一七人有罪)を下した。 しかし絶望的な状況をはねのけようと、被告・家族・弁護団・救援運動家たちは活動を続け、作家・廣津和郎の裁判批判が世論を揺り動かす中で、 公正裁判と被告たちの無罪を訴える松川運動は思想・信条の違いをこえて空前の規模に発展した。 そして一四年間の裁判の末に、被告全員の無罪が確定した。

  事件発生から六一年経った現在、この事件と裁判に改めて注目する意義は何か。第一にそれが戦後最大の冤罪事件だったこと。 第二に、真犯人論と関わり、それが謀略事件であったこと。 第三に、公正裁判を求め、無実の被告を殺すなという声が思想・信条を超えて、大波のような運動になり、その意味からも世紀の裁判になったこと。 とりわけ、第三の点は政治的立場の相違から対立・分裂へと転じることの多かった戦後の社会運動の歴史においても貴重な経験だといえよう。

  この第三点を考察する上では、運動を担った人々にとって松川事件と裁判とは何であったかという問いが欠かせない。 地味な一冊 『私たちの松川事件』 (昭和出版、後に現代人文社から復刊)も手がかりになろう。 本書は宮城県内で松川運動に関わった人たちの手記をまとめている。私の出身大学の先輩であり、六○年安保の前後、大隈銅像の前で連日、 松川の被告を救えと訴えていた原史江(旧姓大和)と郷里の塩釜で活動していた妹・量子、母・美知子、大和家の三人が寄せている文章が、 同書を読んだ一九八九年時点で私の心に残った。

  二○年後の昨年、思い立って原史江と会うことにした。松川運動への献身を出発点に、その後も教師生活のかたわら、社会運動に関わってきた原は、 「上から目線」 など微塵も感じさせない慎み深い人柄だった。しばらくして小説を書きましたという連絡を受けた。 その小説 「消えない闇」 (『民主文学』 二○○九年一一月号)には樺太からの引き揚げ時に辛酸をなめた一家の記憶が描かれている。 ソ連軍が攻めてくるという恐怖と混乱のなかで、妻や子どもを始末して闘えという軍の命令を受け、 我が子の命を奪わんとした夫から必死に子どもたちを守った母の姿。幼いときにそのエピソードを偶然知り、衝撃を受けた娘。
  「松川さん」 と学友からあだ名をつけられた原、そして家族たち、 松川事件の被告たちを救うために全身全霊を傾けた一家に終戦時の秘話があったことを私は知った。

  私も松川事件とそれなりの縁を持って育ってきた。無罪確定時にはまだ幼稚園児であったが、その日をうっすらと記憶している。 事件関係者にも知人が多くおり、長じるに及んで、 空前の広がりを持った松川運動が聖人のみによって担われてきたわけではないことも強く実感するようになった。 それだけに、原史江のようにたゆみなく運動に献身しつつ、自らの功績を決して偉ぶらない人に対しては清々しさを感じる。

  さて松川事件の無罪が確定した一九六三年は、狭山事件(埼玉県・女子高生殺人事件)の発生した年である。 狭山事件はいま重要な局面を迎えている。九四年に仮釈放された元被告・石川一雄は自らの無実を訴えて、再審請求をくり返しおこない、 二○○六年には三度目の再審請求を行ったが、昨年末に裁判官、弁護団、検察官による 「三者協議」 が開かれ、 裁判長は検察側に証拠開示の勧告を出すという注目すべき展開があったのである。そして今年五月には、検察側が証拠三六点を初開示した。

  狭山事件にも、ごくささやかな縁を私は感じてきた。大学一年生の時(一九七六年)に刊行された野間宏 『狭山裁判』 上・下(岩波新書)を一読し、 これも典型的な冤罪事件であるという疑いを強く持ったのは当然として、同書の記述から、六○年代後半に小学生であった時、 奧多摩の山行を何度かご一緒させていただいた弁護士の方がこの事件の弁護人であったことを知って驚いた。 それが一点。もう一点は七六年暮れに、私が都内の駅頭でビラを配布していた時、「狭山差別裁判糾弾」 のゼッケンをつけた集団の一人から突然、 暴力的な言辞と威圧を受けたことは驚きとともに記憶に残る。 この出会いも作用してか、狭山事件と石川被告を奪還しようという救援運動に対して、私は(距離をとりつつも)無関心ではいられなかった。

  さて今年の六月、私は初めて狭山事件の現地調査に参加した。直前に、鎌田慧 『狭山事件の真実』 (岩波現代文庫)を読んだことが大きかった。 同書を読むと、野間宏 『狭山裁判』 では書き得なかった石川被告の内面が赤裸々に描かれている。

  周知のことであるが、松川事件と狭山事件とは、代用監獄での非人間的な取調、別件逮捕、自白のみに依拠した起訴、 警察・検察による証拠の捏造と隠匿など、冤罪事件として多くの共通点を持っている。 しかし、二つの事件で大きく異なるのは松川事件の被告とされた二十人のうち捜査段階では虚偽の自白を強いられた者が何人もいたが、 第一審の開始時点ではその自白を翻し、被告団全員が一点の曇りもなく、無実を主張し続けていた。
  しかるに狭山事件の石川一雄被告は逮捕当初は全面否認したが自白を開始して以降は、 第一審段階でも一貫して女子高生殺害に関与したことを認めていた。石川被告は第二審で一八○度その供述を転換させたのであった。

  なぜ石川青年は、虚偽の自白を開始し、第一審ではそれを維持し続けたのか。この点について私は彼の心境を少しも理解できていなかった。 しかし、鎌田慧 『狭山事件の真実』 を読むと、石川青年なりに自白を維持する理由が存在していたことがわかる。 詳しくは同書に譲りたいが、「そうか、そういうことだったのか」 という読後感とともに、 遅ればせながら狭山事件の現場を訪ねてみたいという思いが募ったのである。

  西武新宿線・狭山市駅から程近い石川一雄の旧家は火事で消失してしまっていたが、現地支援本部が建てられていた。 全国の支援者からの寄せ書きなどが室内に掲示されていた。また台所は旧宅が復元されており、 警察による証拠の万年筆の 「発見」 がきわめて訝しいものであることも一目瞭然だった。
  実際に現地を歩いてみると、一九六三年当時とは街の様子が著しく変わっていても、 石川青年の 「自白」 の核心に多くの矛盾があることは容易に理解できた(その論点は野間宏の著作ですでに指摘されている)。

  松川事件と狭山事件は、多くの共通点を持つ典型的な冤罪事件であることを先に述べた。両事件を対比すれば、さまざまな論点について考えさせられる。
  まず事件の性格としては、松川事件も狭山事件も典型的な冤罪事件であるが、一般的な刑事事件の枠だけですべてが説明できる事件ではない。 松川事件は、占領下における共産党と労働組合運動に対する政治的弾圧であり、謀略事件・権力犯罪という性格を有していた。 狭山事件の場合は、捜査過程が示しているように、被差別部落への偏見と差別によりでっちあげられた事件という政治性を明白に備えていた。

  二つの事件では事件をでっちあげた警察・検察の無法と捜査段階から徹底的に闘い、いかに真実を見つけ出していくのか。 虚偽の自白のみに依拠して裁かれていった誤った裁判とどう闘うかに、弁護団や支援者は全精力を傾けなければならなかった。 事件の真犯人を解明する努力も必死に続けられたが、真犯人に到達することはできなかったという点でも両事件は共通している。
  また両事件とも被告たちの冤罪を晴らしたいという支援者たちのエネルギーは、政治性社会性も強く持ち、強烈なものがあった。 同時に無実の被告を死刑にすることはできないという人間としての思いがあって、子どもたちから老人たちまでが両事件の救援活動に参加することになった。 戦後史の中でも、二つの事件は市民による厳しい裁判批判が行われた代表的な事例といえる。

  しかし、広範な市民が共同して参加する救援運動、裁判支援の運動を創るという点では、両事件は少し異なる事例となったのではないか。 松川の場合はさまざまな困難に逢着する中でも、団結を維持し運動の輪を広げていくことに見事に成功した。 狭山の場合、六○年代から七○年代にかけての社会運動の複雑な状況は、大きな隘路であった。 部落解放運動内部での政治的対立、当初の弁護団の辞任と日本共産党系の支援者たちの離脱、 新左翼運動の先鋭化と対立などという困難な状況が過去には存在していた。 私が一九七六年に 「体感」 した支援者のふるまいは、これらの状況の産物であったともいいうるものであろう。

  その意味で、現在における狭山事件の再審開始と無罪判決を求める運動が、庭山英雄代表、 鎌田慧事務局長が牽引する 「狭山事件の再審を求める市民の会」 に象徴されるように、広範な支援者によって進められていることを嬉しく思う。 五月に日比谷野外音楽堂で開催された集会には、多くの宗教者も参加していた。 六月に私が参加した現地調査も、組織による動員ではなく、個人として参加した人が多かったという。

  松川事件と狭山事件を、今後とも一つながりの事件として語り続けていきたいものだ。 松川事件の場合は四七年前に無罪が確定した 「過去」 でありながら、「現在」 に少なからぬ意味を投げかけているという位置づけにおいて。 狭山事件は四七年間長く厳しい道程の中で闘ってきた歴史の重みを踏まえて、一日も早く再審を開始させ、 無罪を確定していくことが急務であるという点において。すでに再審が開始された布川事件、再審開始が求められる名張毒ぶどう酒事件、 袴田事件等々の冤罪事件と共に、日本の旧刑事司法の病巣を象徴する事件として、 訴え続けていくことが二○世紀後半に誤判と再審の問題に関わってきた人に求められているように思う。素人ではあるが、私もその流れに棹さしていきたい。

  さて二一世紀になっても、冤罪事件は姿を消したわけではない。ここでは志布志事件(鹿児島県・二○○三年、 公職選挙法違反事件)についての雑感につなげ、本稿の結びにしたい。
  志布志事件については、当初から地元テレビ局も精力的に取材していたとの記憶が残っている。 幻の事件をでっちあげるという、むき出しの権力犯罪がいまだに行われていることに私は驚きを感じたが、現地での新聞報道を検証することなども怠っていた。

  後に刊行された朝日新聞 「志布志事件」 取材班 『虚罪』 (岩波書店)を手に取ると、 警察内部の情報提供者の助力によって書き得た箇所があって気にはなっていたが、 今年に入って刊行された梶山天 『「違法」 捜査』 (角川学芸出版)を一読してまさに仰天した。 梶山は朝日新聞の鹿児島総局長(当時)としてこの事件取材に没頭した記者であるが、本書こそ志布志事件に関わる朝日新聞調査報道の決定版である。 私が何に驚いたかというと警察と検察がグルになって一大事件をでっちあげた過程が克明に検証されていたからだけではない。 本書に収録された一七の資料のなかで、警察・検察の内部に食い込まなければ到底入手できないはずの資料が何点も掲載されていたことである。 「取調小票」、鹿児島県警作成の内部文書、鹿児島地検と県警の協議結果についての報告書などが、堂々と掲載されているではないか。

  まぎれもなく志布志事件の捜査は違法だったが、「違法捜査」 に異を唱えざるをえない人間も警察の内部に存在していた。 現職の警察関係者の類い稀なる勇気も後押しして、彼らは 「つぶやく」 だけではなく具体的な資料を提供することによって、 梶山の 『「違法」 捜査』 という一書が上梓されたことになる。裏返して言えば、捜査に大義がないという疑問がまずあった。 その上で情報漏洩という行為が完璧に秘匿される保証と取材者への限りない信頼感がなければ、現職警察官が内部資料を提供するだろうか。

  松川事件では、廣津和郎 『松川裁判』 があり、狭山事件では鎌田慧の著作以前に、野間宏 『狭山裁判』 他が大きな意味を持った。 しかしこれらの高名な書き手でも、警察内部の極秘資料をふんだんに活用して、裁判批判を著すことなど不可能だった。 その意味で新たな地平を、梶山の 『「違法」 捜査』 は切り開いたことになる。

  歴史はやはり一歩一歩前進しているのだという演説には、私はあまり与したくない。新刑事訴訟法が制定された年の松川事件から(そしてその以前から)、 世紀をまたいで志布志事件に至るまで、日本の刑事司法の病巣が放置されてきたことはまた確かなのであるから。
  二○世紀半ばの松川事件では、事件をでっち上げたことに悔恨の念をもらした警察関係者は皆無だったと思われる。 ただ二○人の容疑者の一人に対峙した取調官が、絶対に自分は無実であるという訴えに対して、同調する旨をほのめかし、 この男は捜査の第一線からすぐに姿を消した。狭山事件の場合には、 後年になって元刑事の中から万年筆 「発見」 の不可解な経緯について弁護団に協力する立場から証言する人物があらわれた。 そして二一世紀の志布志事件においては 「幻の事件」 を警察・検察が作り出したことに、警察内部から、ほぼリアルタイムで叛旗がひるがえされた。

  警察内部から違法捜査への内部告発はいかに可能なのか。それはまさに時代に刻印された歴史の重さと、 人間がおりなす組織を一枚岩に転じてしまう力がどれほど強烈であるかに規定されるに違いない。 そして、ジャーナリズムがいかなる水準の報道を行い、個々のジャーナリストがどれほどの磁力を取材対象に対して放ちうるかも重要だろう。
  それらをすべて踏まえた上で、梶山天率いる朝日新聞 「志布志事件取材班」 が成し遂げた仕事は壮挙ではないか。 調査報道という言葉が生命力をとりもどしたように思える。

  本書には 「幻の事件」 の渦中に突然投げ込まれた人々が数多く登場する。非道な捜査に一貫して抵抗した被告。 一時は 「自白」 を余儀なくされたがそれを強く悔いて無実を叫び続けた被告。被告たちを支えた家族と友人。 今は亡き有留宏泰弁護士も一員であった弁護団。そして捜査への最も厳しい批判を内部から表明した匿名の警察関係者たち。

  これらの人たちの存在は、松川事件、狭山事件でも共通点を持って織り成されてきた人間のドラマとして、読者の心に響いていく。 そして、類い稀なる試練と絶望の淵に立たされた人間が何を選択したかという点において、 人間そのものへの信頼を市民が取り戻していけるような輝きも放っている。 (文中敬称略)