中米とカリブとアメリカと (下)
〜プエルトリコ
ロースクールにアネッタというプエルトリコ出身の弁護士がいた。独立運動を活発に行ってきた家の出身であり、
米国の圧政、独立への希望についていつも熱く語っていた。昨冬 (2008年1月)、彼女の結婚式に呼ばれ、プエルトリコを訪問した。
■プエルトリコの米軍基地
プエルトリコはカリブ海に浮かぶ人口約390万人、四国の半分程度の面積の島およびその周辺の諸島部である。
米国自治連邦区で地方自治の一部のみが認められるが、国防や外交は米国が決定する。
アネッタの自慢が、プエルトリコ人が米軍をビエケス島から追い出したこと。
ビエケス島とは、プエルトリコ本島の東に位置する長さ33.6キロ、幅6.4キロの人口9300人の小島である。
60年以上もの間、米軍基地に島の3分の2以上を占拠されていた。
座り込みをする人を逮捕する当局 (El Fortin Conde de Mirasol 博物館より)
1941年、米海軍は島の3分の2を強制収容した。住民は告知から24時間の猶予が与えられただけで、強制的にブルドーザーで建物を壊された。
島は演習地と弾薬貯蔵地として使用され、演習地は米大西洋艦隊にとって実弾が使える唯一の場所として、
戦闘機銃撃や上陸演習などの実戦訓練が米軍やNATO軍により行われた。
ビエケスに平和を! (Peace for Vieques)
島民への影響はすさまじく、主要産業であったサトウキビ農場と砂糖工場はつぶされ、失業率が60パーセント台から下がることはなく、多くが島外に逃れた。
実弾射撃や劣化ウラン弾から生じる有害物質により島民が危険にさらされ、ガン発生率は本島より27%高かった。誤爆による島民の死亡事件もあった。
爆撃演習に使われたビエケス島に隣接する小島。 もとの島の形は全く残っていない。
■基地返還運動とその勝利
1999年4月に民間人デイビッド・サネスが誤爆で殺されると、土地返還運動が盛り上がった。
演習場内での座り込みが開始され、本島からも支援が続き、基地反対の大合唱となっていった。
テントを持ち込んでの座り込みは逮捕者が数千人にも上り、ビエケス市長も長期間拘束された。
学生であったアネッタも、大学でカンパや食べ物を集めて送り、入れ替わり友達がビエケス島で座り込みをしたと話していた。
2001年の住民投票で68%の住民が米軍の 「即時」 撤退の意思表示を行い、遂に2003年に米海軍が撤退。2005年の終わりまでに多くの権限が移譲された。
もっとも、広いエリアが放射能で汚染されているため進入禁止エリアが未だ少なくない。
不発弾などがあり進入禁止となっている。 一見、美しいビーチとエメラルドの海が広がっているが…。
反対運動の中心を努めた漁師に小さな漁船に乗せてもらって島の周りを回ったが、エメラルドグリーンのカリブ海で、放射能を放出し続ける銃弾が沈んでいたり、
爆撃演習で木も草もなくなり形がまったく変わってしまったという無人島を目にしたりした。
弾薬庫。今は閉鎖されている。中にはいることはできない。
アネッタの結婚式に行くことになったとき、ご両親からアネッタは、「どうして日本人を呼ぶんだ」 と言われたという。
米国の言いなりになっているような人たちには来てほしくない、ということだそうだ。
そして、どうしてこんなちっぽけな小島が米国に抵抗しているのに、大国日本はなぜそうできないのか、と。
(2009年 「まなぶ」 2月号掲載)
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