2009.9.24

内田雅敏の 「君たち、戦争ぼけしていないか?」

弁護士 内田雅敏
目次 プロフィール

憲法は悲惨さの中から生まれた

  憲法の臍
  憲法の臍は何かと問われれば、躊躇なく、13条・個人の尊重、幸福追求の権利と答える。だが、そのように考えるようになったのはそんなに昔のことではない。
  物心ついて以来、憲法と言えば9条であり、自衛隊が合憲か違憲かということであった。戦後民主主義下で育った私は、各人が個人として尊重され、 幸福を追求できる―一生懸命頑張ればそこそこ幸せになれる――のは当り前と思ってきた。
  昨今、格差拡大社会の中で、この権利の実現がかなり難しくはなっているが、それでも建前としてはこの権利は認められている。 だから幸福追求の権利という当然のことをわざわざ憲法典に書き込む必要があるのかと常々疑問を抱いていた。
  作家の故城山三郎氏が 「自分たちの青春は惨めだった。個人の幸せを考えることは許されなく、天皇のため、 国家のためにどう死ぬかを考えることしか許されていなかった。」 と述懐しているのを読んだ時、この疑問は氷解した。 戦争の時代には個人が幸福を追求することは建前としてすら許されていなかった。
  1937 (昭和12) 年、日中 「戦争」 開始の年、薮内喜一郎作詞、古関裕而作曲になる軍歌 「露営の歌」 が作られた。 〈勝ってくるぞと勇ましく…〉 という品のない歌だ (もともと軍歌に品などはないが)。 その何番目かの歌詞に 〈夢に出てきた父上に死んで還れと励まされ……〉 というくだりがある。親が子に 〈死んで来い〉 などと言う歌を歌わされていたのだから、 恐ろしい社会であった。ずっと昔の話をしているのではない。たかだか60数年前のことだ [注1]。

  悲惨さの中から生まれた憲法
  1931〜45年のアジア・太平洋戦争は、アジアで2000万人、日本で310万人の死者をもたらし、東京大空襲、広島、長崎への原爆投下、日本は焼野原となった。
  そんな悲惨さの中から日本国憲法が生まれたということをよくよく考えるべきだ。
  多くの軍人から聴き取りをした歴史家の保阪正康氏は、一口に戦争体験といってもいろいろあり、同じ軍人でも戦場体験があるか否かで全然違うという。 戦場でなく後方で兵を動かしていた司令官、参謀達と、実際に前線で戦っていた将兵達とでは戦争の捉え方が全く違ったのである。
  保阪氏は、戦場体験者はほぼ間違いなく憲法9条を支持していると語る。
  戦場の悲惨さを表わした手記、ドキュメント、映像等は数多ある。
  ニューギニア戦線では、累計14万の大軍がマラリアと栄養失調で大半陣没し、終戦時集結し得た者は13000人に過ぎず、その後も斃れる者が続き、戦犯者も出て、 内地に復員した者はわずか1万余人に過ぎなかった (松浦義教 『ラバウル戦犯弁護人』 光人社NF文庫)。
  ニューギニアの第18軍司令官安達二十三中将は、敗戦後の残務整理が一段落した1947 (昭和22) 年9月8日、以下のような遺書を残しラバウルで自決した。

  「私儀 昭和17年11月第18軍司令官の重職を拝し──此作戦3歳の間10万に及ぶ青春有為なる陛下の赤子を喪ひ、 而して其大部分は栄養失調に基因する戦病死なることに想到する時、御上に対し奉り何と御詫びの言葉も無之候。 ──打続く作戦に疲憊の極に達せる将兵に対し更に人として堪え得る限度を遥に超越せる克難敢闘を要求致候。 之に対し黙々之を遂行し力竭きて花吹雪の如く散り行く若き将兵を眺むる時君国の為とは申しながら其断腸の思は唯神のみぞ知ると存候。 当時小生の心中堅く誓ひし処は必ず之等若き将兵と運命を共にし南海の土となるべく縦令凱陣の場合と雖も論らじとのこと有之候。
  一昨年晩夏終戦の大詔を拝し──聖旨を徹底して謬らず、且は残存戦犯関係将兵の先途を見届くることの重要なるを思ひ、恥を忍び今日に及び候。 然るに今や諸般の残務も漸く一段落となり小官の職責の大部を終了せるやに存ぜらるるにつき此時機にかねての志を実行致すことに決意仕候。 即ち小官の自決の如き御上に対し奉るお詫びの一端とならずと思ふ次第にて唯々純一無雑に陣歿、殉国、 並に光部隊残留部下将兵に対する信と愛とに殉ぜんとするにならず候。・・・」 (小島光造 『回天特攻』 光人社NF文庫。下線は筆者内田)

  ニューギニアに次いで最も悲惨な戦場、フィリッピン・レイテ島の戦いを日米双方の資料に基づいて描いた大岡昇平 『レイテ戦記』 (中公文庫。 上・中・下全3巻) も (下巻) 第27章 「敗軍」 で、以下のように記している。

  「見捨てられた戦場レイテの兵は、この間に潰乱状態に陥っていた。第一師団、第百二師団は一応整然と転進したように見えるが、それは帳簿上そうなっているだけで、 西進する米兵と踵を接して進むのであるから、随所に小戦闘が起る。隊伍は乱れ、落伍者が相次いでも、それを構っているひまはなかった。
  ブラウエン、アルブエラ方面に取り残された第十六師団、二十六師団の状態は一層悲惨であった。オルモック街道は米軍に遮断されているから、 これらの部隊は以来二ヶ月、雨と霧に閉ざされた脊梁山脈から出られなかった。……
  米軍上陸以来50日、補給を受けることなく山中に立て籠った後に、一つの作戦に従軍した兵である。幕僚、中隊長も殆ど戦死し、 師団長牧野四郎中将以下みなマラリア、熱帯性潰瘍、下痢、栄養失調に悩んでいた。十六師団には正規の転進命令は出ず、各自ばらばらに転進に移ったので、 その状況は一層悲惨であった。兵の大部分は小銃を持たず、米哨戒隊とゲリラに脅かされつつ、ダナオ湖の水と魚を求めて、 脊梁山脈中の道のない叢林中を北上したのである。
  敗走の模様は数少ない生還者の断片な記億にしか残っていない。山中の至る所に白骨化した日本兵の死体があった。 それを通路であることを示す道標として進んだという。靴も地下足袋も破れ、大抵の兵は裸足であった。 小銃を持っている者も棄て、生きるための唯一の道具、飯盒だけ腰にぶら下げた姿になった。
  病み疲れて、道端にうずくまっている兵がいる。彼等は通りかかる兵に向って、黙って飯盒を差し出す。まったくの乞食の動作であった。
  歩く力を残した兵士も飢え疲れていて、人に与えるものは持っていない。何もくれはしないのを、乞食の方でも知っている。 従って彼らはひと言も口をきかず、その眼にも光はない。ただ飢えが取らせる機械的な動作を繰り返すにすぎないのである。彼らは次第に死んで行った。……
  脊梁山脈中の谷間には、戦線離脱兵が到る所にいた。彼等は通りかかる輜重兵に頼んでも、部隊の形を取っていないから米を渡して貰えない。 そこで強奪し、あとで罪が発覚しないように殺してしまった。……
  兵士はあらゆるものを食べた、蛇、とかげ、蛙、御玉杓子、みみずなどである。山中に野生するバナナには種子があり、渋くて食用にならない。 芋でも残っているのは、口の中が痺れる、いわゆる 「電気芋」 である。葉の柔らかそうな野草が採集され、飯盒で煮て食べられるが、 これは誰かマッチを持っている場合である。多くは生のまま噛んで飲み込むのである。
  下痢は、一般に栄養不足の結果であるが、こういう悪食によって一層ひどくなる。道端に下痢便の跡があるのも道標となった。 それが固い便である場合は、米兵あるいはゲリラである。敗兵はその鮮度によって、敵が近くにいるか、どうかを判断する。」

  すでに敗軍となったレイテの日本軍に対し、大本営陸軍部及びマニラに在った第14方面軍司令部は 「自活自戦永久継戦」 を命じた。 武器・弾薬・兵員はもちろんのこと、糧食も補給できないが、それでも自活──現地住民の食糧を奪い、或いは自作し、──して、永久に戦えというのである。 これが栄えある皇軍・靖国の英霊の実像である。こういう命令を出す軍隊及び国家というのは、一体何なのだろうか。
  レイテ戦に投入された日本軍の将兵は約84000人。うち生還者は約2500人。戦没者の割合は、実に97%であった。 このような高い戦没者の割合は、補給の軽視と、「生キテ虜囚ノ辱ヲ受ケズ」 という 「戦陣訓」 に象徴される日本軍の体質に因るものである。
  アジア・太平洋戦争における日本人の死者約310万人中、海外で亡くなった将兵が約240万人と言われているが、そのうち遺骨が還って来たものが100余万人、 未だ100〜140万人の遺骨がニューギニア、フィリッピンなどの南海の島々、ビルマ、タイ、そして中国大陸に放置されている。 魂を靖国神社にお迎えしているから遺骨は放置されていてもいいという 「靖国神社」 のカラクリがある。
  陸軍伍長として日中 「戦争」 に従軍、負傷し、太平洋戦争中は陸軍報道班員として南方各地に従軍した棟田博が書いた 『サイパンから来た列車』 (光人社NF文庫) という短編がある。

  1956年 「経済白書」 は <もはや、戦後ではない> と書いた。その前年55年の夏、終発列車の終った深夜の東京駅、人気のない14番プラットホームに、 忽然と古ぼけた列車が1本入って来た。玉砕島サイパンから到着した列車だ。ラッパの音が一声鳴りわたると、降りてきたのは、穴のあいた鉄兜をかぶり、 汗と泥と血でボロボロになった戎衣をまとい、軍靴もパックリと口を開けた英霊、サイパン島で玉砕した秋吉支隊の隊員達であった。 彼らは、戦後10年を経た故国の様子を見聞し、サイパン島に眠る戦友達に伝えるためにやって来た。
  各中隊毎に点呼を受け、支隊長秋吉少将の訓示を受け、各々かつての家庭や職場の現在を確認するため散って行く。 再集合は明朝4時55分に大阪発の列車が到着する直前。わずか数時間の探訪である。部下達を見送った秋吉少将は1人皇居に昭和天皇を訪ねる。

  「夜更けの二重橋には、太古からのような静寂がこめていた。(中略)
  草莽の臣秋吉善鬼は、咫尺において、ただひと言、陛下に言上したきことがあるのだ。
  橋を渡って、少将の姿は門の彼方へすっと消えた。
  が、ものの2、3分も経たぬ間に、また、すっと門から現われ出た。恐懼頓首ともいうべき急ぎ足で、橋を後戻りすると木柵を越え、橋袂の玉砂利の上に正座平伏した。
  『陛下ッ!』
  ハラハラと、老少将の双眼から熱涙がふり落ちた。胸中は、痛恨無残の悲憤に、掻きむしられるかのごとくであった。天皇陛下万歳を唱えつつ水漬く屍、 草むす屍と化し去った幾百万の朕が忠良の股肱の心を、果たして陛下はお汲み取りになられた上の十年前のあの大詔であったのであろうか。 が、もはや、なけど悔やめど詮なきしだいである。
  『陛下ッ!』
  ただ、そう呼んで秋吉少将は、落涙を続けた。(中略)
  『陛下! もはや、臣らはなにも申し上げませぬ。しかしながら、臣らは、明日はまた南溟の地に舞い戻らねばならぬのであります。 陛下! 臣らも陛下の在らす地、この祖国の山河に眠りたいのであります。願わくば、大御心により臣らの遺骨を祖先墳墓の地にお移し賜るよう、 一同になりかわり草莽の臣秋吉善鬼、伏して懇願を奉りまする!』
  と、再び左手をつき、玉砂利の上に白髪の頭をこすりつけた。」

  敗戦の年1945 (昭和20) 年4月生れで、偶々誕生日を同じくする私の高校の同級生は、レイテ島で父親を亡くしており、生前の父親を知らないのはもちろんだが、 遺骨も全く還って来ていない。彼女はいつか母を葬るときが来たら、墓に父親の遺骨の代わりに大岡昇平の 『レイテ戦記』 を入れようと密かに考えているという。
  そんな彼女や彼が日本全国に大勢いる。もちろんアジア諸国にはさらに多くいる。
  『レイテ戦記』 も、
  「歴史的なレイテ島の戦いの結果、一番ひどい目に遇ったのはレイテ島に住むフィリピン人だった。 …米軍が与えた損害も、日本軍の与えたそれに勝るとも劣らないものであった。米軍の爆撃と艦砲射撃は日本軍が齎した以上の災厄であった。 GI の損害を少なくするため、日本軍の拠点になりそうな町は悉く破壊された。オルモック、カリガラ、ドラグなど主要拠点は止むを得ないとしても、 パロンポン、アビハオなど辺境の町まで焼き払われたのである。フィリピン全体で、米軍はフィリピンの公共施設の80パーセント、個人財産の60パーセントを破壊した。」
  と記し、「死者の証言は多面的である。レイテ島の土はその声を聞こうとする者には聞こえる声で、語り続けているのである。」 と結んでいる。

  歴史認識に支えられた憲法解釈でなくてはならない
  戦争という惨めな時代を再来させないために、9条があり、そのことによって13条・個人の尊重、幸福追求の権利が実現される。
  9条・戦争の放棄なくしては国民個々人の幸福追求権の行使はできない。13条を具体的に実現するための14条、以下40条までの、例えば法の下の平等 (14条)、 思想及び良心の自由 (19条)、信教の自由 (20条)、表現の自由 (21条)、生存権保障 (25条)、教育を受ける権利 (26条)等々の具体的権利の実現は、 9条の実現なくしては出来ないのである。
  今、このような歴史的経緯を無視し、あろうことか憲法13条を根拠に9条を空洞化させようとする言がなされはじめている。 すなわち、13条・個人の尊重、幸福追求の権利の保障によって、国家に個人の生命、身体の安全を保障する責務が発生し、そのために軍事力を保持し、 それを強化すべきだと言う論である。
  論理としてはそのようなものも可能かもしれない。
  「国家当然の法理」 [注2] などの論で憲法違反の政府の行為を糊塗することを業としてきた内閣法制局の官僚達が言い出しそうな論だ。
  〈論語読みの論語知らず〉 という語句があるが、その伝に習えば 〈憲法読みの憲法知らず〉 である。
  憲法解釈は論理だけではなく、何よりも歴史認識、すなわちこの憲法が戦争の悲惨さの中から生れ、 それを再来させないために生まれたものであることを踏まえてなされなければならない。

  戦争の悲惨さについての想像力の欠如
  日本は 「侵略国家ではなかった」 と主張し罷免された田母神俊雄前航空幕僚長――最近では公然と核武装を唱えている――が今年8月6日広島で、 「ヒロシマの平和を疑う」 と題して講演するという。秋葉忠利広島市長は、表現の自由は憲法の保障するところであるが、8月6日は広島にとって特別な日であるとして、 講演日程の変更を求めた。8月6日の広島、同9日の長崎は、人類にとって記憶されるべき日でなくてはならない。
  4月5日、オバマ大統領は、チェコ・プラハでの演説で、「米国は核兵器を使った世界で唯一の大国として 〈核廃絶のために〉 行動する道義的な責任がある…」 と述べた。
  7月27日付東京新聞は 「ドイツで原爆慰霊 投下命令の地 灯籠流し」 という見出しで、7月25日ドイツ・ベルリン郊外のポツダムで、 トルーマン米大統領が宿舎にしていた 「トルーマン・ハウス」 の裏に広がるグリープニッツ湖で原爆犠牲者を追悼する灯籠流しが行われたことを写真付きで報じている。 人類史上初めての原爆投下が1945年7月25日ポツダム会談に出席していたトルーマン米大統領の承認によってなされた。
  田母神氏側は講演を予定どおり行うという。戦争の悲惨さに想像力を働かすことのできない、 こういう人物がほんの少し前まで国家公認の暴力装置である自衛隊のトップであったことに慄然とせざるを得ない。
  戦争終結からたかだか60余年を経てこの有様である。
  「戦争に敗けたら俺たちは戦犯だ」 と嘯きながら、都市無差別空爆で日本を焼野原と化させ、多くの市民を焼殺した米空軍カーティス・ルメイ将軍、 そのルメイに敗戦後、航空自衛隊の発展に功績があったとして、「勲一等旭日大綬章」 を贈った国だ。

  人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果
  〈戦争で得たものは憲法だけだ〉 というのが生前の城山三郎氏の口癖だったという。
  憲法第十章、最高法規、97条が、「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、 これらの権利は過去幾多の試練に堪え、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」 と 「基本的人権の本質」 について述べている。
  残念ながら私達はこの基本的人権について、「多年にわたる自由獲得の努力の成果」 であると胸を張ることはできない。
  敗戦の年、9月30日、作家の高見順氏は、日記に以下のように書いた。

  「昨日の新聞が発禁になったが、マッカーサー司令部がその発禁に対して解除命令を出した。そうして新聞並びに言論の自由に対する新措置の指令を下した。
  これでもう何でも自由に書けるのである!これでもう何でも自由に出版できるのである!
  生れて初めての自由!
  自国の政府により当然国民に与えられるべきであった自由が与えられずに、自国を占領した他国の軍隊によって初めて自由が与えられるとは、 ――かえりみて羞恥の感なきを得ない。日本を愛する者として、日本のために恥かしい。戦に負け、占領軍が入ってきたので、自由が束縛されたというのなら分るが、 逆に自由を保障されたのである。なんという恥かしいことだろう。自国の政府が自国民の自由を、――ほとんどあらゆる自由を剥奪していて、 そうして占領軍の通達があるまで、その剥奪を解こうとしなかったとは、なんという恥かしいことだろう。」

  権利は憲法典に書き込まれることによって自動的に権利として成立するのでなく、その権利実現のための闘いがあって初めて実現する。 憲法13条・個人の尊重、幸福追求の権利の前に位置する12条は、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、 国民の不断の努力によってこれを保持しなければならない。」 と、国民に対し、権利のための闘争の義務を謳っていることを忘れてはならない。
  私達は、故城山三郎、高見順氏らの言を再確認し、その思いを受け止めるべきである。そして同時に、この憲法が、1946年9月、 沖縄を25年から50年軍事基地として使用することが日米両国の利益に適うとした、連合国軍総司令部 (GHQ) 宛に発せられた昭和天皇の電報 「沖縄メッセージ」、 沖縄切捨てという 「悲惨」 さの上に成立したものであることも銘記しなければならない。

追記  8月6日、田母神俊雄氏は、広島で講演し、日本の核武装を主張した。さらに8月24日、堺市での衆院選応援演説で、8月6日の広島平和記念式典は、 「被爆者も被爆者の家族もほとんどいない」 「左翼の大会なんです、あれは」 と述べたという (2009年8月25日付朝日新聞朝刊)。 許し難い暴言である。氏は発言の根拠について、「広島の知人がみんなそう言っている。」 (同) と述べたというが、氏には情報を吟味し、 取捨選択する姿勢は全くなく、ただ自分に都合のよい 「情報」 だけに依って発言しているのである。 氏は8月15日、靖国神社正門前で開催された第23回戦没者追悼中央国民集会でも発言していたが、 ここでも、「日本はコミンテルンに操られたルーズヴェルト米大統領や蒋介石の挑発によって戦争に引きずり込まれたのであり、侵略国ではなかった」 と、 相も変らぬ根拠のない 「コミンテルン陰謀史観」 を吹聴していた。ルメイの勲一等をどう考えているか聞いてみたい。

[注1] 古関裕而は満州旅行の帰途、下関から東京への特急列車の中で新聞に発表された歌詞を見て、 心を動かされ依頼されていないにもかかわらず作曲し、東京駅に着いた彼に日本コロンビアの社員が作曲を依頼した時には、 「それならもうできている」 と楽譜を差し出したという。戦後、彼は一転して、早大の応援歌 「紺碧の空」 を作曲するなど変り身の早さを示した。

[注2] 「国家当然の法理」
  個人に正当防衛権があるように、国家にも当然に正当防衛、すなわち自衛権があるとする見解。しかし、これは以下の点で誤りである。
@ 個人の人権は天賦人権として当然にある。しかし、国家の権利は当然にあるのではなく、主権者たる国民の付与によって発生する。
A 仮に自衛権そのものがあるとしても、自衛の形態は外交・文化交流など様々であり、当然に 「自衛戦力」 を有するというものではない。

2009.7.31