2010.3.25

内田雅敏の 「君たち、戦争ぼけしていないか?」

弁護士 内田雅敏
目次 プロフィール

これ以上の政治の怠慢は許されない
――中国人強制連行・強制労働事件判決の 「付言」 に見る
心ある裁判官達の苦悩と政治家の責任――

  「今日の成果に満足している。父は先月亡くなったばかり。生きていたらどんなに喜んだことだろう。 感謝する。頭を下げていないので、金額の多少にかかわらず、民族の尊厳が守れた」(孟現憲39歳/孟昭恩の遺族・息子)

1.西松建設中国人強制連行・強制労働事件和解
  2009年10月23日、西松建設中国人強制連行・強制労働事件の和解が成立した。和解の内容は、
(1) 中国人強制連行・労働の事実を西松建設株式会社は事実として認め、その歴史的責任を認識し、中国人受難者及び遺族らに対し、深甚な謝罪をなす。
(2) 後世の歴史教育のために記念碑を建立する。
(3) 受難者、遺族らに対する補償、記念碑建立、未判明者を捜す費用等として和解金として金2億5千万円を支給する。
の三つを骨子とするものであった。

  和解成立後、西松側代理人弁護士と共同記者会見に臨んだ受難当時の生存者邵義誠氏は、和解内容に不十分性は残るとしながらも、 この問題解決のために取組んだ西松建設の姿勢を評価するとともに、本和解が他の企業、 日本国家による中国人強制連行・強制労働問題の全面的な解決へのステップとなることを願うと声明をなした。
  西松側弁護士も 「昨年来の弊社不祥事を踏まえ、新生西松建設となるべく、過去の諸問題について見直しを続けてまいりました。 その中の大きな課題として、強制連行の問題、最高裁判所判決の付言に対し、西松建設としてどうお応えしてゆくかの問題がございました。 この度、和解に至りましたが、中国人当事者及び関係者のご努力に感謝します。」と同社の コメントを発した。

  邵義誠氏は、同弁護士に対して 「これまで闘って来たが、今日からは互いに友人となる」 と握手を求め、両者は固く握手した。文字通りの和解が成立した瞬間である。
  同月26日、邵義誠氏らは広島の受難現場、安野を訪れ、花を添え、地に中国から持参した酒を垂らし、この地で亡くなった仲間達に和解の成立を報告した。 氏は、これまでここを訪れると当時のことが思い出され涙が流れたが、今日は嬉しい報告に来たのだから泣かないと語った。

2.青島で和解成立についての報告会
  11月1日、2日と中国山東省青島市内のホテルで和解についての説明会を開いた。急な連絡であったにもかかわらず、当事者81人(うち生存者5名)、 付添いの人も入れて約100名が参加した。中には遠く山西省や南京から駆けつけた人もいた。 日本からは筆者と広島から中国人強制連行・西松裁判を支援する会の川原洋子氏が参加した。

  1日目は、午後3時から6時30分まで筆者が和解成立の経緯、内容その意義等について説明し、 次に川原氏が1992年から和解成立に至るまでの長年にわたる活動の経緯を説明し、和解への参加を呼びかけた。 次いで、強制連行当時の受難者である聯誼会会長の邵義誠氏が挨拶をし和解への参加を呼びかけた。
  そして2日目午前8時30分〜11時半まで参加者による質疑応答、意見表明があり、会場から次々と16名もの人々が立ち上がって以下のように意見を述べた。
  冒頭に記したのは、当日会場からなされた発言の一つである。他の発言も紹介しよう。

  「他の被害者と同じ気持ちだ。心残りの問題を解決してくれた。劉宝辰先生や弁護士や日本の友人に感謝する」(甘明友54歳/甘文瑞の遺族・息子)、 「93年から16年間、積極的な努力によって獲得した。私の予想より満足できる結果である。民族のために恨みをはらすことができた」(淑恵76歳・南京/述寛の遺族・姪)、 「日本の友人や劉宝辰先生の努力によって和解ができた。だから満足している。謝罪もあるし、碑も建立できる。 母といっしょに来た」(成文学56歳・山西省/成殿元の遺族・息子)、「劉宝辰先生、王彦玲さんに感謝する。日本の弁護士、友人に感謝する。 父の要求は全部実現できた。(自作の詩を朗読)」(呂志英/呂学文の遺族・娘)、「(父親から聞いた安野での体験を話してから)想像を絶する苦難で、 よく命を拾って帰ってきたと思った。和解のことを家に帰って、父に伝えたい。感謝する。」(楊/楊済雷の家族・娘)、 「非人間的な扱いを受けたことを考えると、和解には賛成できない。しかし、93年から努力をしてきたのだし、現在、生存者が19人だと聞いたので、 老人たちが残念な気持ちで死んでいくのを見たくない」(石世鋒/石道海の遺族・孫)、「父はとても喜んでいる。死んだ人も多く、複雑な気持ちだ。 謝罪と碑を認めさせ、補償金も支払われるので、尊厳を取り戻すことができた。4万人の解決にも役立つ」(于啓 44歳/于清杰の息子)、「知らせを受けて感動した。 祖父は帰国後2年で亡くなった。和解が実現できてうれしい。実現できなかったとしても感謝する。要求は金額の多少ではない。 謝罪させ碑ができることが重要である」(王煥廷/王民立の遺族・孫)、「母は83歳である。生きているうちにいい結果を見せることができてうれしい」(女性)。

  その後、司会者が和解に賛成の人に挙手を求めたところ、参加者全員が手を挙げて和解に賛成した。
  そして、休憩時間を使って参加者らに対し、青島テレビ、天津テレビ、半島都市報、済魯晩報のほかラジオ局2社よりインタビューがなされ、 中国駐在の共同通信と朝日新聞の記者らも取材した。
  筆者も中国側メディアから取材を受けたが、若い記者らが一様に尋ねたことは、何故日本人が中国人の問題にこのように関わってくれるのかという疑問であった。 この疑問に対して筆者は、これは歴史の問題であり、中国人受難者のためだけでなく、この問題を解決することによって、日本社会が変わることになり、 筆者ら自身のためでもある。したがって、この件に関しては、弁護士費用はもちろんのこと、これまで費やした実費分も受取らないと述べた。 報酬だけでなく、実費分についてもとしたのは、この種の問題は、弁護士以外に熱心な支援者の存在が不可欠であり、 本件に関しても日・中両国の支援者らが長年にわたって運動を支えて来ており、その過程で相当額の実費を支出している。 したがって、弁護士の実費分だけを特別扱いすることはできないのである。これらの説明は中国メディアの若い記者らを必ずしも納得させるものではなかったようだ。

  翌11月3日、半島都市報は、この集会の内容を写真入りで1頁を使って報道したが、その記事中に 「律師費一分銭也不収  訴訟案背后有群黙黙奉献的志愿者」 の小見出しもあった。

3.国家犯罪の放置と本件和解
  日本政府、企業が中国人を日本に強制連行し、強制労働に従事させたのは、先の大戦末期の1944年夏から1945年夏にかけてのことであった。
  強制連行された中国人は全国135事業所に配置されたが、 そのうち360人が広島県安野の中国電力発電所導水トンネル工事現場に昼夜二交代の過酷な労働によって29人がこの地で亡くなった。 約半数が亡くなった花岡鉱山鹿島出張所ほどではないにせよ、わずか1年未満の期間に約一割が亡くなったことに過酷な実態が窺われる。 今回来日した遺族の1人、楊世斗氏の父楊希恩氏は、建設現場での抵抗行為により広島市に連行され、取調中に被爆死している。
  すでに戦後64年を経過しているのだから、当時の受難者の多くは亡くなっているのは当然である。

  日中 「戦争」 下における中国人捕虜、あるいは街や村で拉致した中国人を日本国内に強制連行し、強制労働に従事させるという明白な国家犯罪、 企業犯罪の被害が何故64年間放置されてきたのであろうか。
  受難者・遺族らは1993年から16年間にわたって、この問題の解決を訴え、国及び企業に対して働きかけてきた。 しかし、日本国家もまた加害企業たる西松建設株式会社もこの訴えに耳を貸さないできた。
  受難者およびその遺族らは、司法の力を借り、本件の解決を図るべく1998年1月、西松建設株式会社に対して損害賠償請求を求め、広島地裁に提訴した。 裁判は2002年7月9日広島地裁敗訴、2004年7月9日広島高裁で逆転勝訴、そして2007年4月27日最高裁第二小法廷で再逆転敗訴という結果で終った。 最高裁判決は中国人受難者、遺族らからする請求については、これを棄却しながらも、

   「なお、前記2(3)のように、サンフランシスコ平和条約の枠組みにおいても、 個別具体的な請求権について債務者側において任意の自発的な対応をすることは妨げられないところ、 本件被害者らの被った精神的・肉体的苦痛が極めて大きかった一方、 上告人(西松建設・筆者注)は前述したような勤務条件で中国人労働者らを強制労働に従事させて相応の利益を受け、 更に前記の補償金を取得しているなどの諸般の事情にかんがみると、上告人を含む関係者において、 本件被害者らの被害の救済に向けた努力をすることが期待されるところである。」

と、いわゆる付言をなした。今般の和解は、この付言の実現を求める闘いの中で勝ち取られたものである。

  かつて台湾人元兵士達が、日本の兵隊として戦争に狩り出されたにもかかわらず、 日本の兵隊が受けているいわゆる援護法による補償を受けられないのは不合理な差別であり違法だと提訴した際、 東京高裁はこの訴えを退けながらも被告国に対してこのような不合理を解消すべく立法を急げと勧告した。 これが契機となって立法的に一応の解決がなされたことがあった。
  今般の和解解決もそのような事例の一つであると言えよう。それにしても、遅すぎる。冒頭に記したケースに明らかなようにすでに戦後64年も経過しているのであるから、 遺族はともかくとしても受難者本人の圧倒的多数はすでに亡くなっているのが実情である。

4.各判決の 「付言」 に見る裁判官の苦悩
  ところで前記最高裁判決の 「付言」 は初めてのものではなく、――台湾人元兵士の件は、既に述べたとおりである――例えば、 受難者・遺族らの請求を退けた本件第一審、広島地裁(矢延正平裁判長)判決もその末尾において以下のように述べた。

   「長年にわたり不本意ながら権利行使の道を事実上閉ざされていた事情等をも合わせ鑑みると、その無念の心情は察するに難くないが、 前記判示のとおり被告の法的責任は消滅したものと解するほかはない。もっとも、法的責任は消滅しても、道義的責任が消滅する理由はないから、 道義上の観点からすれば、ドイツの企業連合による強制労働賠償基金の設立やいわゆる花岡事件における和解等は、本訴との関係において示唆に富む。 また、本訴口頭弁論期日において証人田中宏(龍谷大学経済学部教授)がその証言の際に表明した関係被害者に対する救済、慰藉、 鎮魂のための措置に関する提言も傾聴に値する。」

  7年前の2002年7月9日付の判決である。他にも同種強制連行・強制労働事件で裁判所が中国人受難者らの請求を棄却しながらも、被害の回復のために、 国に措置を求めた判決はいくつかある。そのうちのいくつかを紹介しよう。

(1) 2006(平成18)年3月10日、長野地裁(辻次郎裁判長)は、判決言渡後、口頭で以下のように述べた。
   「平成9年12月提訴から8年かかったことを、まずはお詫びします。次に、和解について成立できなかったことを残念に思い、お詫びします。
   自分は団塊の世代で全共闘世代に属するが、率直に言って私たちの上の世代の人たちは随分ひどいことをしたという感想を持ちます。
   裁判官をしていると、訴状を見ただけでこの事案は救済したいと思う事案があります。この事件もそういう事件です。 1人の人間としては、この事件は救済しなければならない事件だと思います。心情的には勝たせたいと思っています。 しかし、どうしても結論として勝たせることができない場合があります。このことには個人的葛藤があり、釈然としない時があるのです。 最高裁の判決がある場合には、従わざるを得ません。判決を覆すにはきちんとした理論が立てられないとやむを得ません。 この事案だけに特別の理論を作ることは、法的安定性の見地からできません。
   この事件は事実認定をしなくても判決は書けますが、この事件で事実認定をしないことは忍びないので、事実認定をすることとしました。 本件のような戦争被害は、裁判以外の方法で解決できたらと思います。」

(2) 2007(平成19)年3月26日、宮崎地裁(徳岡由美子裁判長)判決
   「このように、被告らの法的責任は時の経過により消滅したと言わざるをえないものであるが、 当裁判所の審理を通じて明らかになった本件強制連行・強制労働の事実自体は、永久に消え去るものではなく、 祖国や家族らと遠く離れた異国宮崎の地で原告らが当時心身に被った深刻な苦痛や悲しみ、その歴史的事実の重みや悲惨さを決して忘れてはならないと考える。 そして、当裁判所の認定した本件強制連行・強制労働の事実にかんがみると、道義的責任あるいは人道的責任という観点から、この歴史的事実を真摯に受け止め、 犠牲になった中国人労働者についての問題を解決するよう努力していくべきものであることを付言して、本件訴訟の審理を締めくくりたいと考える。」

(3) 2007(平成19)年8月29日、前橋地裁(小林敬子裁判長)は、判決言渡し後、口頭で以下のように述べた。
   「原告らは、敵国日本に強制的に連行され、劣悪で過酷な労働により被った精神的・肉体的な苦痛は誠に甚大であった。 原告らの請求は、日中共同声明第5項に基づいて棄却せざるを得ないが、最高裁判決も述べるとおり、 サンフランシスコ平和条約のもとでも原告らの請求に対して債務者側が任意に自発的に対応することは妨げられないのであるから、 被害者らの被害の救済に向け自発的な関係者による適切な救済が期待される。」

(4) 2009(平成21)年3月27日、福岡高裁宮崎支部(横山秀憲裁判長)は、判決言渡し後、口頭で以下のように述べた。
   「事案が人道に関する深刻なものであり、請求権が放棄されたと判断されるとはいえ、関係者の道義的責任を免れないものであり、 このことは平成19年4月27日の最高裁判所判決及び福岡高裁の和解所見にも示されたとおり、被害弁償によって解決すべきであると判断したものであります。
   当裁判所も和解に向けた努力をして参りましたが、現在に至るも解決するに至らず、判決することになりました。
   今後とも、関係者の和解に向けた努力を祈念するものであります。」

等々である。
  被害の重大さを認識しながらも、法や最高裁判例の制約の中で心ある現場の裁判長達もまた苦悩していることが分かる。 福岡高裁宮崎支部の横山秀憲裁判長と私は司法研修所で同じクラス(27期)であった。

  もっとも前記(1)、(2)のケースは、2007年4月27日の最高裁第二小法廷判決の前のものであるから、裁判官が勇気を持てば、 後述するような論理で原告勝訴の判決を書くことは可能であった。

  2004年7月9日、広島高裁は本件西松建設中国人強制連行・強制労働事件について、 正義・公平・条理に基づき、被告西松建設が消滅時効を主張することは著しく正義に反するとして退け、中国人受難者らの損害賠償請求を認めた。 この判決は最高裁で破棄されたが、被害の重大性ということから前記 「付言」 を引き出したことはすでに述べたところである。
  漏れ聞くところによれば、広島高裁の裁判長は、自身が裁判官としてなし得る全てを尽くした判決が最高裁で破棄されたことを非常に残念に思っていたが、 今般の和解成立を大変喜んでいるとのことである。
  要は裁判官のやる気であり、受難者達の蒙った肉体的、精神的被害を少しでも癒すために裁判所として何ができるかということを、 全人格をかけて模索することではなかろうか。因みに2000年11月29日、東京高裁で鹿島建設花岡事件について和解が成立したが、 このときの裁判長(現在弁護士)も花岡和解に続く西松和解を大変喜んで下さった。2年前の2008年夏、氏から以下のような心暖まるお手紙を頂いたことがある。

  「暑中お見舞い申し上げます。
  八月に入り終戦の日も近く、何かとお忙しくお過ごしのことと存じます。
  …………
  ところで、さきの週末七月二六日から二七日にかけて東北に行く機会があり、花岡に行ってまいりました。花岡事件の解決に微力ながらお役に立ったことは、 私の長い裁判官生活の中で特に強い印象を残し、一度花岡を訪ねたいという気持を強くしておりました。 ただ、現役中は、当事者の一方に肩入れするように見える行動は慎まなければならないと考えておりました。 しかし、今は在野の一介の弁護士にすぎないので、そのような配慮は無用となり、実はこの八月の手の空く時期に花岡訪問を実現しようと、かなり前から考えておりました。
  たまたま六月に叔母が亡くなり、七月二六日に四十九日の法要が山形県の鶴岡市内で行われることになり、出席を検討する過程で、 この二つの用務を一度で済ませようと思いつきました。
  大館から先の花岡は多分不便なところであろうと考え、車で行くことにし、鶴岡で一泊して翌日早く発てば、 私の運転でも昼過ぎには花岡に着くだろうと勝手な予想を立てて、実行することにしました。 実際には二七日午前七時五〇分に鶴岡のホテルを出発し、花岡の十瀬野公園墓地に着いたのは午後二時三〇分でした。 途中、奥の細道で有名な象潟で古人の事跡に思いを寄せたり、昼食の時間を休憩のため長めに取ったりしたこともあって、予想を超える時間を要しました。
  中国殉難烈士慰霊之碑に詣で、途中で求めてきた花束を供え、持参の三脚を用い、セルフタイマーで写真を撮りました。 ふと思いついてスケッチブックの画紙一枚を剥ぎ取り、感懐を記し、花束に添えて置きました。碑の背後に一本の白百合の大輪が満開なのが印象的でした。 あっという間に小一時間を過ぎ、三時半ころ辞しました。信正寺の日中不戦の碑も訪ねたかったのですが、先を急ぐため割愛しました。
  四時二〇分ころ十和田 ICから東北自動車道に入り、一路東京に向かい、二〇分ほどの仮眠を二回取り、わが家に帰ったのは深更、翌二八日午前一時五〇分でした。 二日間で約一五〇〇q走ったことになります。
  書き遺した紙片の文面は、次のようなものです。
  『縁あって花岡事件に関わり、爾来一度この地を訪れようと心に決めていました。本日慰霊の碑の前に立ち、宿願を果しました。粛然たる思いで花束を捧げます。
       平成二十年七月二十七日
                                新村正人』

  その場で思いつき書き記したものですが、この一文が私の心境のすべてを言い尽くしています。 日曜日でなければ大館の市役所に寄って、どなたか事情を知る方に挨拶することもあり得たことですが、それもかなわぬため、 訪れたことの証しを現場に残しておきたいとふと考えたのでした。
  今ごろは、雨に打たれ、風に飛ばされてしまっているでしょうが、それでいいように思います。先生には御報告しておきたいと思って記しました。
                                  敬 具
    八月二日
                                新村正人
   内田雅敏  様」

5.戦争被害の賠償はすぐれて政治的な問題
  もともと戦争被害の賠償をめぐる問題を裁判で争うということを法は予定していない。それはすぐれて政治的な問題であり、本来、国が政策的に解決すべきである。 しかし、戦後冷戦下で 「自由主義」 陣営の一員として米国の核の傘の下に入り、「平和」 憲法を持つことによって戦争賠償の問題を放置してきた我が国は、 1989年冷戦崩壊後、顕著となったアジア諸国の人々からの戦後補償の請求に対し、サンフランシスコ講和条約により解決済みとして頑なにこれを拒み続けてきた。

  政治が解決しない以上、司法による救済を求める他ないとして、従軍慰安婦、強制連行・強制労働、無差別爆撃、毒ガス・細菌戦、軍票、等々、 日本のアジア侵略による被害者らが直接日本政府や企業に対する補償を求め、直接日本の裁判所に対して提訴した。

  その結果、鹿島建設花岡事件、日本冶金大江山事件など和解によって解決する事例はあったものの、前述した2007年(平成19年)4月27日、最高裁第二小法廷、 西松建設中国人強制連行・強制労働事件判決が中国人受難者らの請求は、1951年のサンフランシスコ講和条約、 及び1972年の日中共同声明によって放棄されており 「裁判上訴求する権能は失われた」 たと断定したことによって、国家無答責、時効、 除籍期間などの戦後補償問題をめぐる壁を、違法な行為をなした日本国家がその責任を免れるために、 これを援用するのは著しく正義に反するとした勇気ある裁判官によって積み重ねられて来たこれまでの原告勝訴の判例(劉連仁事件・東京地裁判決、 新潟港中国人強制連行・強制労働事件・新潟地裁判決、同訴訟・福岡地裁判決、西松建設中国人強制連行・強制労働事件・広島高裁判決等)は、 すべて覆されてしまった。

  前記2007年4月27日最高裁第二小法廷判決は、歴史的経過を正しく把えたものでなく、不当なものであり、破棄されるべきである。 そのための裁判闘争は引続きなされるべきであることは当然である。しかし、他方、戦後補償請求は、時間との闘いであり、戦後60余年を経た今日、 当時の受難者の大部分、いやほとんどが亡くなっているという実情を見るとき、裁判以外の方法による解決も図られるべきである。

  今般の西松建設との和解解決も前記最高裁判決の付言を生かしてなされたものである。2008年夏、最終的に国が応じなかったために和解は成立しなかったが、 同じく中国人強制連行・労働問題で訴訟を提起されていた三菱マテリアル社は、裁判所の和解勧告に応ずる姿勢を見せた。 ところが相被告の国が頑なに拒否する態度を崩さなかったために、和解は成立しなかった。
  その意味で、この問題の解決に向けて、大きく進展するためには主要な責任者である国の態度が極めて重要である。

  前記付言は、「上告人(西松建設、筆者注)も含む関係者において本件被害者らの被害に救済に向けた努力をすることが期待されるところである」 としている。 この 「関係者」 中に直接の加害当事者である日本国が含まれているのは、当然である。今度こそ政治の怠慢は許されない。

6.「東アジア共同体」 実現のために
  総選挙を経て民主党を中心とした連立政権が成立した。
  9月22日鳩山首相は、湖錦涛中国国家主席と会談し1995年8月15日、戦後50周年にあたり当時の村山首相が閣議決定を経てなした村山談話を踏襲することを表明した。 そして、欧州におけるEUを引き合いに出し、「東アジア共同体」 を作ることを提唱し、東シナ海を 「友愛の海に」 することを訴えたという。

  ドイツが戦後各国と和解をし、欧州の一員として認められたのは、ナチズムの克服など歴史の問題について真摯に取り組んで来た結果である。
  鳩山首相の言う 「東アジア共同体」 「友愛の海」 を実現するためには、歴史の問題について、ドイツの例に学ばなければならない。
  村山談話は、「戦後処理問題につきましても、わが国とこれらの国々との信頼関係を一層強化するために私は引続き誠実に対応してまいります。」 と、述べている。 この談話は、閣議決定を経て、国内外に向けて発せられた日本の公約であり、以降、歴代の政権もこれを踏襲することを明らかにしてきた。
  この公約の実現なくして 「東アジア共同体」 の形成はなし得ない。

  10月7日ソウルで李明博領韓国大統領と会談した鳩山首相は、村山談話の重要性を政府、国民が理解することが大切だと述べ、 「新政権はまっすぐに歴史を見つめる勇気を持っている。」 と述べた。
  「歴史を見つめる勇気」 は 「行動する勇気」 を伴ったものでなければならない。
  本件和解成立後の2009(平成21)年11月20日山形県酒田港中国人強制連行・強制労働事件について仙台高裁(小野定夫裁判長)判決は、 中国人被害者らの請求を棄却したが、その末尾において

   「なお、本件訴訟において、本件被害者らは強制労働により極めて大きな精神的・肉体的苦痛を被ったことが明らかになったというべきであるが、 その被害者らに対して任意の被害救済が図られることが望ましく、これに向けた関係者の真摯な努力強く期待されるところである。」
と述べている(下線・筆者)。

 (本稿を執筆するに際して、各判決の付言をまとめて整理して下さった東京弁護士会の松岡肇弁護士に感謝します。)
2010.1.10