2010.10.13 更新

内田雅敏の 「君たち、戦争ぼけしていないか?」

弁護士 内田雅敏
目次 プロフィール
二つの戦後
――「自国のヨーロッパ化」 を果したドイツと
「自国のアジア化」 を果せなかった日本――

  諸先輩及び友人各位
  暑い毎日いかがお過ごしでしたか。
  戦後65回目の暑い夏、「8月」 が過ぎ去ろうとしています。敗戦の年1945年生まれの私にとっては、戦後何年という言い方をするとき、 それがそのまま自分の年と重なり合います。

  日本の夏 「8月」 は、敗戦、すなわち追悼、慰霊と反省の月です(注1)。だがアジアでは違います。 アジアの 「8月」 は、欧州の5月がドイツのナチズムからの解放の月であったと同じように、日本の侵略戦争と植民地支配からの解放の月です。 韓国での 「光復節」 などアジア各地で解放の式典が行われています。この違いをしっかりと認識することが日本の戦後の出発点であると思います。
  そうすることによって、「8月」 を追悼、慰霊と反省の月としてだけでなく、同時に、 日本の民衆にとっても軍国主義からの解放の月とすることができると思います。

  戦時中、米国への亡命を余儀なくされていた作家トーマス・マンは、1945年5月8日のドイツの敗戦後、「ヒットラーはヨーロッパをドイツ化しようとした。 敗戦後のドイツは、ドイツのヨーロッパ化をしなくてはならない」 と訴えました。
  2005年5月8日、9日、戦争終了60周年を記念して欧州では、様々な行事が行われましたが、 そこには戦勝国首脳らと並んで戦敗国ドイツのシュレーダー首相(当時)の姿がありました。
  同年5月9日、モスクワ、赤の広場で行われた対独戦勝利60周年式典でもブッシュ米大統領(当時)、シラク仏大統領(同)、 ブレア英首相(同)ら50を超える国や、国際機関の指導者が出席する中、ドイツのシュレーダー首相も 「無名戦士の墓」 に献花をしました。 日本の小泉首相(当時)も献花をしました(注2)

  その前年2004年6月、 フランスのノルマンディーにて挙行された連合国軍によるノルマンディー上陸作戦60周年記念式典にもドイツのシュレーダー首相の姿がありました。
  シラク仏大統領(当時)に 「式典にドイツの指導者を招待するのが望ましい」 と進言したのは、 戦時中のフランスの抵抗運動統一組織 「レジスタンス全国評議会」 の副事務局長を務めたロベール・シャンベロン氏(90才)でした。 同氏は毎日新聞のインタビューに応じて、「フランス人にとり、対独戦の終わりはファシズム・イデオロギーの解体を意味した。 欧州市民がファシズムから解き放たれた。ナチズムからのドイツ国民解放でもあった。・・・我々はドイツ国民と戦争をしていたのではない。 ヒットラー主義、ファシズムと闘っていたのだ。レジスタンス闘士の中には 『ドイツ国民万歳』 と叫びながらナチスに銃殺された者が大勢いた。 ドイツ国民に恨みはなかった。-------」 と語っていました(2005年5月9日毎日新聞夕刊)。

  ドイツ史を専門とする三島憲一大阪大学名誉教授によれば、 戦後のドイツはナチスの第三帝国の罪を認めようとする勢力とそれに反発する勢力のせめぎ合いの歴史であったといいます。 このようなせめぎ合いを経ながら、いろいろ問題はあるにせよ、戦後ドイツは戦争責任、戦争賠償など歴史問題について真摯に向き合いフランス、 ポーランドなど近隣諸国と話し合いを継続する中で、彼らから一定の信頼を得てきたのです。 1950年フランスとドイツらは、欧州石炭鉄鋼共同体条約を締結しました。

  1970年12月、ポーランドのワルシャワを訪れた西ドイツ(当時)ブラント首相(当時)が、ナチスの犠牲者の慰霊碑に跪いて謝罪したことは、 ポーランドの人々の心を揺さぶった出来事として記憶されています。
  こうした行為の積み重ねがEU――その出発点となったのが前述した欧州石炭鉄鋼共同体条約――として結実したのです。 EUは経済格差など様々な問題を抱ており、手放しで歓迎できない側面があるとしても安全保障政策としては成功しています。

  2001年に出されたドイツ国防軍改革委員会報告書(委員長はヴァイツゼッカー前大統領)は、 その冒頭において 「ドイツは歴史上初めて隣国すべてが友人となった。」 と述べています。<隣国すべてが友人>、 これこそ究極の安全保障(注3)ではないでしょうか。トーマス・マンの訴えた 「ドイツのヨーロッパ化」 の実現です。

  我国は、先の大戦でアジアの盟主たらんとして、侵略戦争(大東亜戦争)を引き起こし、そして敗れました。 前述したトーマス・マンに習えば、アジアを日本化しようとして敗れたのですから、敗戦後の日本は 「日本のアジア化」 すなわちアジアの一員として、 日本の侵略戦争と植民地支配に向き合って行かなければならなかったはずでした。 しかし、米国に敗れたという認識はあっても、アジアに敗れたという認識が欠如(注4)していた日本は、 「日本のアジア化」 をせずに、 後述するように、ポツダム宣言に違反する沖縄の軍事的占領状態の継続も含めて米国一辺倒、すなわち 「日本の米国化」 を図ってしまったのです。 それは米ソを両軸とする冷戦構造の中で米国の核の傘の下に入り、米国の衛星国としてアジアと対峙するものでした。 その結果、日本はアジアの孤児となってしまいました(注5)。 戦争責任の問題についても、ニュールンベルグ国際裁判、それに続く、軍人、法律家、医師、 実業家など12の分野別での米国によるニュールンベルグ継続裁判後、 自身の手によって戦犯裁判を続けた――時効を廃止するなどして現在も続けている――ドイツと異なり、 日本人自身の手によって戦犯裁判をすることのなかったことも、日本の戦後のあり様に大きく影響しました。

  日本が6年余にわたる米国の占領を経て、独立を回復したのは、1951年9月8日締結され、 翌1952年4月28日に発効したサンフランシスコ講和条約によってですが、同講和条約は、その第3条において沖縄を切捨て、第14条において戦争賠償を免れ、 第6条において日米安保条約の締結と相俟って占領米軍が在日米軍と名を変えて、沖縄のみならず、 日本(本土)の占領状態を継続するという事態をもたらしました。
  戦争を放棄した日本国憲法と日米安保条約という二つの相容れないはずの法体系の奇妙な同居、そして後者による前者の空洞化の歴史、 これが戦後日本の実態でした。

  今、問題となっている沖縄普天間基地移設、戦後補償、植民地清算の未履行等々はすべて、このサ条約、 日米安保体制の枠組によってもたらされたものです(注6)。 沖縄米軍基地問題については、日本国憲法施行後の1947年9月、 昭和天皇裕仁氏が宮内庁御用掛寺崎英成を通じてマッカーサーGHQ最高司令官の政治顧問シーボルト宛になした、 いわゆる 「沖縄メッセージ」――沖縄を25年から50年米軍が基地として使用することが日米両国の利益に適うとした―― の果した役割も忘れられてはなりません(注7)

  2004年、韓国の盧武鉉大統領は、3・1独立運動の記念式典で 「日本はすでに(歴史問題について)謝罪をした。 従ってこれ以上、日本に謝罪を求めない。但し、謝罪に見合う行動をすることを日本に求める。」 と演説をしました。
  この発言は謝罪と妄言を繰り返す戦後の日本社会を鋭く衝いています。
  古くは中曽根内閣から、特に細川内閣、村山内閣と日本の歴代首相は、日本の侵略戦争と植民地支配について謝罪をなしてきました。
  1995年8月15日、戦後50年に際して閣議決定を経て村山首相がなした村山首相談話は 「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、 戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。 私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここに改めて痛切な反省の意を表し、 心からのお詫びの気持を表明いたします。……」 と述べています。
  この村山首相談話はその後も歴代の政権によって維持され、日本国家の公式見解であるとされています。 日本がアジアの一員として認められるためには、このような歴史に向き合う姿勢が不可欠であったのです。

  しかし、この村山首相談話について、これを覆そうとする動きもあります。戦後の日本社会において、 謝罪がなされると必ず<あの戦争はアジア解放の戦いであった>とか、<植民地支配はいい面もあった>等々の妄言がくり返されて来ました。 古くは日韓交渉における久保田発言、中曽根内閣の時の藤尾文部大臣発言――彼は発言を撤回せず、かつ辞任もせず、 結局中曽根首相によって解任されました――、その後も奥野誠亮の<アジア解放>発言、永野法相の<南京事件でっち上げ>発言、 桜井環境庁長官の<(日本の戦争の結果)アジア独立>発言、渡辺美智雄の<日韓併合は円満>発言、 江藤隆美総務庁長官の<(植民地支配は)よいこともした>発言、麻生政調会長<創氏改名>発言等々です。
  朝日新聞の政治部記者で後に論説主幹も務めた若宮敬文氏は、これを 「妄言と謝罪の政治史」 (『和解とナショナリズム』 朝日新聞社)と呼んでいます。 この妄言が日本の植民地支配や侵略戦争によって虐げられたアジアの人々から激しく批判され、日本の信用を失わせてきたことは、 前記盧武鉉韓国大統領の演説からも明らかです。

  私達は、小泉首相(当時)の靖国神社参拝問題を契機として、2006年から日本(ヤマト)沖縄、韓国、 台湾の4地域の人々と一緒に 「平和の灯をヤスクニの闇へ」 キャンドル行動を続けてきました。
  「日本の独立と日本を取り巻くアジアの平和を守るためには、悲しいことですが、外国との戦いも何度か起こったのです。明治時代には 「日清戦争」、 「日露戦争」、大正時代には 「第一次世界大戦」、昭和になっては 「満州事変」、「支那事変」 そして 「大東亜戦争(第二次世界大戦)」 が起こりました。……
  戦争は本当に悲しい出来事ですが、日本の独立をしっかりと守り、平和な国として、まわりのアジアの国々と共に栄えていくためには、 戦わなければならなかったのです。」 (「やすくに大百科」 靖国神社社務所発行)
と日本の近・現代史を丸ごと肯定し、日本の行ってきたすべての戦争を聖戦と主張する靖国神社は、 妄言の発信地、否、靖国神社の存在自体が妄言そのものです。

  私達のキャンドル行動に対して、在日外国人を排斥する右翼(?)団体 「在日特権を許さない市民の会」、 通称 「在特会」 が激しい批判と攻撃を仕掛けてきています。<英霊を否定する輩は日本から出て行け>、<うす汚い朝鮮人>、 <寄生虫朝鮮人>等々聞くに堪えない罵詈雑言を私達に浴びせかけてきます。
  威力業務妨害罪などで4名が逮捕された京都の朝鮮学校の事件と同じです。
  結構、若者も多く、「日の丸」 や 「軍艦旗」 を掲げ、軍人の服装もどきの姿の者もいる。彼らの姿を見ていると、格差社会の進行など、 憲法13条の 「幸福追求の権利」 が形骸化し、若者が未来に希望を持てなくなっている社会が彼らを排外主義に押しやっていると悲しくなってきます。
  〈英霊に感謝〉を声高に語り、朝鮮人差別を広言する彼らは、南海の島で餓死させられ、或いは北の島で「玉砕」させられ、 文字どおり<海行かば 水漬く屍 山行かば 草むす屍>であった「英霊」達の実状、また彼らが罵倒する朝鮮人が日本の植民地下、 日本の侵略戦争に狩り出され、命を失わさせられた後、 なお、「護国の英霊」 として靖国神社に勝手に合祀されている(それも日本の敗戦後14年を経た1959年になってから大量合祀)等々の事実を知らないのでしょう。
  殺しただけでなく、殺した後も、追悼に名を借りて利用――英霊として祀ることによって靖国イデオロギーを維持するために使う――という不正義。 植民地支配下で殺された人の霊を、その植民地支配を肯定する神社に本人はもちろん、 遺族の了承もなしに勝手に合祀することがいかに不当で許されないことかは、それほど想像力を働かせなくても理解できるはずだと思います。
  そんな日本の現状を憂えていたところ、自衛隊の隊友紙とも言うべき 「朝雲」 の 「寸言」 (2010.8.5付)に以下のような一文を見つけました。

  このところ宴会で政治の混迷がよく話題になる。 先日、旧友たちとの酒の席で冗談半分に 「どうして自衛隊はクーデターを起こさないのか」 と聞かれて返答に困った。 旧軍と違って自衛隊は民主主義の教育を受け、文民統制が徹底している、というのが正当な答えだろう。 だがそれだと、民主主義の下で国民に選ばれた選良が政治をしているから、国民に不満はない、と言っていることと同じで、間違いではないが説得力がない。
  自衛隊は安定した職業であり、普通の勤め人と同じで会社への不満や社会への心配はあっても、安定した人生を棒に振るようなことは誰も考えていない、 という答え方もある。が、そういう 「軍隊」 が国を守れるのかと聞かれたら、やはり困ったことになりそうだ。
  田母神元空幕長のような主張もあるが、という思いもあった。だが、彼も厳しい政治批判を展開してはいるが、クーデターまで主張しているわけではないと、半可通な答えになった。   総じて言えば、自衛隊にクーデターの動機を与えるほど社会が疲弊したり、国民の政治に対する絶望感が蔓延しているわけではない。 政治の混迷に眉をひそめる反面、政治の「混迷ショー」を楽しんでいる面もあるかもしれない。……
  クーデター云々は戯れ言だとしても、こういう記事を隊友紙に載せるという緊張感のなさ。 事態は予想以上に深刻だと思います(注8)。 今年8月14日には、仏右翼政党 「国民戦線」 ルペン党首ら、排外主義を煽っている欧州の右派政党幹部が靖国神社に参拝したとのことです。
  人類が歴史から学んだことは、<人類は歴史から何も学ばなかった>ということであってはならないと思います。
2010年8月16日

(注1) 追悼と慰霊の月であって、顕彰・感謝の月ではないことに留意すべき。ここ数年8月15日、政府主催の戦没者追悼式での首相、衆議院議長、 天皇らの発言を見ると、日本の戦没者に対する追悼と同時にアジアの被害者らに対する思いも述べており、それはそれで正しい。 しかし、前記発言等が一様に戦没者の犠牲の上に戦後の平和があるとしているのには違和感があった。 犠牲の上に平和ならば、犠牲が不可欠ということになる。その点2010年8月15日の前記各発言中には、このフレーズがなかったことは評価できる。 戦没者に対しては、追悼、慰霊あるいは謝罪はあっても感謝などは絶対あってはならない。
(注2) 欧州における5月9日の献花は、アジアにおける8月15日の南京、シンガポール、マニラでの献花を意味するのだが、 8月15日は靖国に行くと言い張っていた小泉首相は、前記献花の意味を本当に理解していたのであろうか。
(注3) 純軍事的な安全保障概念は、攻撃して来たらそれ以上の反撃をするぞという、いわゆる 「抑止理論」 であるが、 <隣国すべてが友人>という安全保障論は、軍事に依拠しない新しい安全保障論、すなわち人間の安全保障概念である。
  なお、北大西洋条約機構(NATO)と日本が米国と結ぶ日米安保条約との違いは、前者は対等関係(並列型)であるのに対し、 後者は従属関係(直列型)にある。
(注4) 日本の敗戦時、中国大陸には約196〜197万人の日本兵が残存していた(纐纈厚山口大学教授・「侵略戦争」 ちくま新書)。
  日本の敗戦後シベリアに抑留され、さらにその後中国の撫順の戦犯収容所に入れられ中国大陸で自分の行った行為と向き合わされ、 自己改造を果したという富永正三氏は、朝鮮戦争に関し、収容所で 「国連軍」 の反撃で一旦は中国との国境近くまで押し戻された北朝鮮軍側が、 中国人民解放軍の力によって韓国側を再び38度線まで押し戻したという話を聞かされた時の感想を以下のように述べている。
  「そうこうしているうちに、朝鮮戦争は私たちの予想し、期待していた方向とは、まったく反対の方向へ発展してしまった。 この判断の誤りは、私たちにとって大きなショックだった(米・韓国軍側が勝って自分達を解放してくれると期待した……筆者注)。 中国の戦線では、局部的にひどい目にあったことはあるが、絶対に負けたことはない、という私たちのささやかな体験からすれば、 人民解放軍が世界最強の米軍に対抗できるはずはなかったのである。 特攻・玉砕の精神で固まった精鋭なる日本軍ですら太刀打ちできなかった米軍ではないか。その米軍に対し、貧弱な装備で堂々と四つに組み、 一歩もゆずらず、むしろ押し気味だとは……まさに 「世紀の奇跡」 とでも言うほかはなかった。」 (『あるB・C級戦犯の戦後史』 富永正三・影書房)
(注5) もっとも、欧州に比べアジアの場合には冷戦がはるかに激しく、また軍事独裁政権の存在など、地政学的な違いも影響していたが。
(注6) サ条約3条による沖縄の切捨ては、「カイロ宣言ノ条項ハ履行セラルベク」 と述べているとポツダム宣言第8条に違反するものであった。
  1943年11月27日米国のルーズヴェルト、英国のチャーチル、 中国の蒋介石の三首脳が軍事及び外交顧問を率いてアフリカのカイロにて会談して発したカイロ宣言は、 「……三大同盟国ハ日本国ノ侵略ヲ制止シ且之ヲ罰スル為今次ノ戦争ヲ為シツツアルモノナリ。 右同盟国ハ自国ノ為ニ何等の利得ヲモ欲求スルモノニ非ズ。 又領土拡張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ズ。 右同盟国ノ目的ハ日本国ヨリ千九百十四年ノ第一次世界戦争の開始以後ニ於テ日本国ガ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト、 並ニ満州台湾及澎湖島ノ如キ日本国ガ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民国ニ返還スルコトニ在リ。 日本国ハ又暴力及ビ貪慾ニ依リ日本国ガ略奪シタル他ノ一切ノ地域ヨリ駆逐セラルベシ……」 と述べ、 連合国に領土的野心がないことをはっきりと表明していた(ルーズヴェルトは蒋介石に沖縄を取得するかと打診したが、 蒋介石はその意思はないと述べたという)。また 「朝鮮人民ノ奴隷状態ニ留意シ、朝鮮ヲ自由且ツ独立ノモノニスル決意ヲ有スル。」 とも述べている。
  ポツダム宣言に違反した――純国際法的に言えば、日本は無条件降伏をしたのではなく、ポツダム宣言を無条件に受け入れたのであって、 勝者たる米国も同宣言を遵守すべき義務があった――サンフランシスコ講和条約第3条による沖縄の 「軍事的植民地支配」 という不正義は1972年の沖縄復帰まで20年間続く(1953年12月25日、奄美群島が返還されたので、以降は北緯27度以南の琉球諸島ということになる)が、 復帰以降も、この20年間の不正義の間に拡張され、――沖縄の米軍基地の多くは、この沖縄の切捨て時期に米軍の銃剣とブルトーザーによって作られた。 1950年代の本土の反米軍基地闘争の結果、移転した基地も多い。――固定化された米軍基地がそのまま維持され、今日にいたっている。 その結果が日本全国の約0.6%の広さしかない沖縄に日本国内の米軍専用施設の75%が集中するという事態となっている。
  そして、同講和条約第5条C項は 「連合国としては、 日本国が主権国として国際連合憲章第51条に掲げる個別的又は集団的自衛の固有の権利を有すること及び日本国が集団的安全保障取極を自発的に締結することができることを承認する」 と定めたことによって、すでに1950年6月の朝鮮戦争を契機として、憲法第9条 「戦力の不保持」 に違反するにも関わらず、 マッカーサー指令によって創設された警察予備隊という名の日本の再軍備を連合国が容認する途を開いた(警察予備隊は保安隊、 海上警備隊を経て講和条約発効後の1954年自衛隊となった)。
  さらに同講和条約第6条は、「連合国のすべての占領軍は、この条約の効力発生の後なるべくすみやかに、 且つ、いかなる場合にもその後90日以内に日本国から撤退しなければならない」 として、占領軍の撤退について定めながらも、 但し書きにおいて日本と二国間条約などを結んだ場合にはその限りにあらずとして、米軍の日本駐留、基地使用の途を残した。 この第6条に基づき日米安保条約が締結され米軍が日本に駐留することになった。 このようにサンフランシスコ講和条約は、日米安保条約とセットのものであり、日米安保条約は 「占領継続法」 としての性質を有するものであった。
  なお、サ条約第2条(C)項は、 「日本国は千島列島並びに日本国が1905年9月5日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、 権原及び請求権を放棄する。」 としているが、樺太はともかくとして、千島列島の放棄は前記カイロ宣言に違反するものである。 ソ連が参加していないサ条約において、米国がわざわざこのような条項を設けたのは、 1945年2月のルーズヴェルトとスターリンによるヤルタ会談での密約――米国は日本敗戦後ソ連(当時)が千島列島の領有することを認めるのと引換えに、 ソ連の対日参戦を促し、スターリンは、ドイツ敗北後3ヵ月以内に参戦すると約束した――を守ったからである。
  5月8日ドイツの敗戦から約束の3ヵ月ギリギリの8月9日、ソ連が日ソ中立条約に違反してなした突如の参戦及びその後の北方領土占有については、 ソ連だけでなく米国も責任を有する。米国にとっても 「北方領土」 問題が解決しないままでいることが、 沖縄の軍事的占領状態を継続しやすいというメリットがある。
  まず千島列島(2条)があって、それから沖縄(3条)というサ条約の配列にもその意図が見られる。
(注7) 政府による外交とは別な、この天皇による宮廷外交はその後も続けられ共産勢力からの国体護持としての日米安保条約という側面も持った。
  2010年8月15日、東京新聞社説 「歴史は沖縄から変わる…終戦の日に考える」 は、 豊下楢彦関西大学教授の 『昭和天皇・マッカーサー会見』 (岩波現代文庫)を引用しながら、昭和天皇の 「沖縄メッセージ」 に言及している。 8月15日の新聞の社説でこの点に言及しているところに意義がある。
(注8) 昨2009年8月15日、靖国神社境内での中央国民集会で、罷免された田母神元空幕長が発言していたが、 その発言を聞いていたドイツからの留学生がたまりかねて、「ドイツでそんなことを言ったら逮捕されますよ」 とたしなめたところ、 集まっていた人々から罵倒されるという事件があった。