ブックレビュー 


一水会・鈴木邦男の「わが解体」
――『失敗の愛国心』『愛国の昭和』を読む――

2008.8.16
内田雅敏

拝啓  鈴木邦男 様

  「40年来の呪縛に向おうとした」 自己切開の書 『愛国の昭和』(講談社)、先にいただいた 『失敗の愛国心』(理論社 「よりみちパン!セ」) に継いで大変興味深く拝見しました。 
  これまでの本は、「書きたいことがあり、結論が初めから分っていて書いた。はじめに結論があり、その結論を主張するために書いた。……しかしこの本は違う。 スタート地点があった。しかもどこに行くか分からない。書きながら考え、悩み葛藤した。自分でも新たな発見や驚きがあった。それ以上に大きな不安もあった。 これはとんでもないところに向っているぞ……」 (あとがき 「玉砕を辞さず」)、正直に自分と向き合う姿勢には好感が持てました。
  鈴木邦男のこれまでの生き方をかなりの部分において否定する結果となっていると思います。

  「悪魔の言葉 『玉砕』」 (1章)、「『神になった三島』 と死の文化」 (3章)、「果して特攻は 〈神〉 だったのか」 (7章) 等々の記述は、内容はもちろんのこと、 タイトルからしても新右翼 「一水会」 の創始者、代表そして現顧問のものとは到底思えないものです。

  「玉砕というのは、玉が砕け散るのだ。地獄の戦場で、食べものもなく、ガリガリに痩せ、骸骨のようになり、軍服は泥で汚れボロボロだ。 しかし、敵兵に撃たれた瞬間、この泥だらけの体は輝く玉になる。玉になって空高く砕け散るのだ。
  世界一美しい言葉であり、世界一怖ろしい言葉だ。世界一残酷な言葉だ。死を強制するだけでなく、死を渇仰させる。誰がこんな言葉を発明したのだろう。 いつ発明したのだろう。この言葉を作った者こそが、本当の悪魔だ。本当の超A級戦犯だ。
  この悪魔に比べたら、どんなカルト宗教の教組も小さい。どんな殺人者も、詐欺師も小さい。」
  「<死> が、戦争の最大の推進力だった。<死> の前には誰も文句を言えない。<死> がすべてを合理化し、浄化し、正当化する。 これでは 『勝利』 を目指して闘っているのか、あるいは 『死ぬこと』 だけを目指して闘っているのか、分らなくなる。
  出征する時も、『元気で帰ってきてくれ』 とは言い難い空気になる。『立派に死んでこい!』 が主流になる。また、悲壮な、死を覚悟した軍歌 『海ゆかば』 がいつも流れる。 勝利はあきらめて、ただ死ぬことだけが称讃されている。」
  「散華という言葉もある。これもきれいな言葉だ。戦争で死ぬことだ。たぶん、一人で死ぬことは 『散華』 で、多人数が集団で死ぬことが 『玉砕』 なのだろう。 『華を散らす』 そして、『玉が砕ける』。何と美しい言葉か、死にさそい込む言葉だ。罪つくりな言葉だ。『死』 をこんな美しい言葉に言い換えて、死にさそい込み、 死を奨励したのは、日本だけではないのか。なんとも残酷な話だ。」
  「言葉は、プラスの作用としては 『生』 への希望だ。マイナスの作用としては絶望の 『死』 だ。ところが、特殊で例外的な言葉がある。 人を元気に奮い立たせ、闘志をみなぎらせ、その極致で死を選ばせる。プラスに向けておいて、その果てにマイナスになる。 そんな言葉が、『散華』 と 『玉砕』 だ。不思議な言葉だし、奇妙だ。そして恐ろしい言葉だ。甘美な言葉に酔って、うっとりし、その中で死に誘われる。 誘蛾灯のような言葉だ。悪魔の言葉だ。こんな言葉を発明し、戦死を美化し、『どんどん死にましょう』 と奨励したのだ。この人間こそが、有史以来最大の悪党だ。 最大の殺人者だ。
  その悪党にあやつられ、騙されて、僕らは戦死者を美化し、戦争を美化してきた。そして、戦死者については 『疾しさ』 を感じてきた。あの戦争は悪かった。 でも亡くなった人は貴い犠牲者だ。神だと思い、その前にはもう何も言えなくなる。特攻については、なおさらだ。『生きながら神になった』 人だ。ここだけは 『聖域』 だ。
  でも、そこで思考停止していいのだろうか。ある時、フッと思った。彼らだっていろいろな悩みや、苦しみ、迷い、憎しみを持っていたのではないか。」 等々。

  まさに鈴木邦男の 「わが解体」 です。
  「御身内」 からの批判も覚悟の上とは思いますが、果して殴られる程度で済むか、いささか心配です。
  しかし鈴木さん、それでもまだ 「特攻」 の呪縛からの解放は不十分ではないでしょうか。ましてや天皇制については相変わらずの無批判、 とりわけ 「日本人は天皇に不忠ではなかったか」 (5章) など天皇に対する心酔ぶりについては全く変りはありません。この点については後述します。

  「特攻」 を 「統率の外道」 と認識しながら、「白虎隊だよ」 として多くの若き命を無惨に散らした大西瀧治郎海軍中将 (彼は、 後に軍令部次長として最後まで降伏に反対し、本土決戦を主張しました。)、 降伏後の8月15日の夕刻、多くの若者を途連れに沖縄海域に向けて 「特攻出撃」 をした宇垣纏海軍中将らは、もっと批判されるべきです。
  また靖国神社がこれらの軍人の責任を何ら追及することなく、「護国」 の神として祀っていることにも言及すべきではありませんか。
  前述した昭和天皇裕仁氏の責任についてですが、1945年2月14日、最早、敗戦必至として戦争を終結すべきと進言したいわゆる近衛上奏文を 「もう一度戦果を挙げてからでないとむつかしい」 と 「一撃論」 で退け、それが東京大空襲、沖縄地上戦、8月6日広島、 9日長崎への原爆投下につながったことはよく知られているところです。
  鈴木さん、戦艦1、駆逐艦5対飛行機10機、あるいは4044人対12人という数字をご存知ですか。 1945年4月7日の大和を中心とした 「水上特攻」 における日米の損害の比較です。わずか数時間で日本軍の死者4044人、 これは航空特攻の総死者数をも上回るものです。航空機の援護なしに行われたこの無謀な水上特攻、 それが行われることになったのは航空特攻の奏上を受けた昭和天皇裕仁氏が発した 「航空部隊だけの出撃か」 という問いに対し、 及川古志郎海軍軍令部総長が 「全兵力を使用します」 と答えてしまったからだということは、もっと知られてよいことだと思います。

  ところで、いささか挑発的な言い方ですが、鈴木さん、この本を60半ばになってから書くのは、いささか遅すぎはしませんか。
  学生時代には高橋和巳を読まれたとのこと、そしてその昔はあの戦記雑誌 「丸」 を読んでいたとのこと、私にも共通のものがあります。 しかし、私と鈴木さんとの思想的軌跡はずいぶん違うものとなっているのは何故でしょうか。
  「丸」 には英米との戦争はあっても、アジアとの戦争はなく、また勇壮な海戦や空中戦の物語はあっても中国大陸や東南アジアの島々での残虐行為を働いた皇軍兵士、 そして補給を断たれ餓死した兵士達の物語はなかったような気がします。「アジアの不在」 です。
  もともと宮崎稲天、頭山満、内田良平、北一輝ら右翼と呼ばれた人々は、中国などアジアに対する想い―― それが 「大東亜共栄圏」 虚構への危険性を孕んだものであったとしても――が強かったはずなのに、昨今、右翼を自称する方々にはこの点が欠けてはいないでしょうか。 先の大戦についても日本は精神力においては勝っていたが、物量において勝る米英に敗れたとしか思っていないようです。

  「『日本が戦争で米国に負けたことは多くの人が認めるでしょう。しかし、中国に負けたとなるとどうですか』 (中略)
  米国との戦いが始まった41年、中国に投入されていた日本陸軍の兵士は138万人で、総兵力の65%だった。 米国との戦いで兵力は南方戦線 (南太平洋戦線) につぎ込まれ、敗戦の45年には164万人に達した。 だが、同じ時点で中国にはそれをしのぐ198万人もの兵力が配備されていた。
  『中国戦線の比率は非常に大きかった。しかし、あの戦争は米国の物量に負けたと総括することで、 日本の侵略に抵抗した中国やアジアの人々の存在を忘れることにしたのです』」 (纐纈厚山口大教授・2006年10月16日 『朝日新聞』 夕刊)

  中国との戦いに敗れたということを認めぬまま戦争の総括を誤ってきたのが、戦後の日本であり、日本人の戦争観の根本的な問題がここにあるのです。 去る8月10日私達は、日本 (大和)、沖縄、韓国、台湾の友人達と共に 「平和の灯を! ヤスクニの闇へキャンドル行動」 を行いましたが、 韓国・朝鮮人戦没者の合祀取下げを求めるキャンドルデモに対して、沿道に集まった 「右翼」 の人々から 「薄汚い朝鮮人は帰れ!」 等の罵声が浴びせられました。 彼らには韓国・台湾などかつての日本の植民地とされた地域の人々が、日本の侵略戦争に狩り出され、 日本の敗戦後もなお靖国神社によって勝手に日本の 「護国の神」 として、しかもかつての創氏改名の日本名のままで祀られている、 いや閉じ込められているという事実が全く解っていないのです。恥かしい限りです。

  今年63回目の8月15日が来ました。戦没者追悼式での福田首相、河野衆議院議長、平成天皇明仁氏らの発言がありました。 福田、河野氏らが 「また、我が国は多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に多大の損害と苦痛を与えました。私は、国民を代表してここに深い反省とともに、 犠牲となられたすべての方々に対し、謹んで哀悼の意を表します」 (福田首相) とアジアの被害について言及したこと、 福田首相が、追悼式に先立って靖国神社でなく千鳥ケ淵戦没者墓苑に参拝したこと、 河野衆議院議長が 「靖国神社参拝問題」 を踏まえた上で 「政府が特定の宗教によらない、 すべての人が思いを一にして追悼できる施設の設置について真剣に検討を進めることが強く求められている」 と述べたことは一つの見識です。

  しかし、三者が一様に 「戦後我が国は、一貫して平和国家としての途を歩み、国民ひとりひとりのたゆまぬ努力により、平和と繁栄を享受してまいりました。 私たちは、今日の平和と繁栄が、戦争によってかけがえのない命を落された方々の尊い犠牲の上に築かれたものであることを、ひとときも忘れることはありません。」 (福田首相)、と戦後の 「平和」 と 「繁栄」 は、先の大戦の犠牲の上にあると述べていることには、違和感を覚えずにはいられません。

  昨年でしたか、石原慎太郎総指揮にかかる映画 「特攻・俺は、君のためにこそ死にゆく」 が作られましたが、あの映画の末尾、 岸恵子演じる特攻隊員達の世話をした富屋食堂の女将が 「あん人らのお陰で (戦後の) 平和な今がある」 とつぶやくシーンを見たとき怒りを覚えました。
  「戦後」 を招来させるためにあの犠牲が不可欠であったのでしょうか。戦後の 「平和」 と 「繁栄」 を享受することなく無念の死を強いられた人々を悼む気持は当然ですが、 しかし、そのことと犠牲が不可欠であったかどうかということは全く別なことです。
  非業・無念な死を強いられた人々を悼む気持とりわけ遺族からすれば、その死に何らかの意味付与をしたくなるということは理解できなくはありません。
  しかし、そのことが非業・無念な死を強いた原因に対する追及を封印することにつながるのです。
  生き残った佐官級の海軍軍人が戦後になって以下のような暴言を吐いています。

  「神風特別攻撃隊の奮戦の結果、連合国軍の進撃速度が鈍り、その間に、米軍機の空襲により、わが国の要地が甚大な被害を蒙ったために、 わが国民に心の準備ができ、わが政府が降伏を受諾したさいに、大なる混乱を起こさなかったことは不幸中の幸いであった。」 (奥宮正武著『海軍特別攻撃隊―特攻と日本人』)

  彼は自分の発言の意味が分っているのでしょうか。
  鈴木さんも民族浄化の名の下に多くの人が殺されたボスニア出身でサッカー日本代表監督を務めたオシム監督の言葉、
  「――監督は目も覆いたくなるような悲惨な隣人殺しの戦争を、艱難辛苦を乗り越えた。試合中に何が起っても動じない精神、 あるいは外国での指導に必要な他文化に対する許容力の高さをそこで改めて得られたのではないか。
  『確かにそういうところから影響を受けたかもしれないが……。ただ、言葉にする時は影響は受けていないと言ったほうがいいだろう』
  オシムは静かな口調で否定する。
  『そういうものから学べたとするのなら、それが必要なものになってしまう。そういう戦争が……』」
を引用しておられるところです。

  思いつくままに勝手なことを書きました。
  くり返しになりますが、この本 『愛国の昭和』 は面白い本でした。藤田嗣治の玉砕画、 彼が撮った日本宣伝の短編映画 『日出ずる国の子供たち』 (1937年) の中の子供達の集団切腹シーンとか、 右の側の人々が生前の三島由紀夫について 「兵隊ごっこ」 などと冷笑し、小説 『憂国』 が映画化された時、自決の前に将校夫妻が最後の交わりをするシーンをとらえて、 「ただのエロだ」 「猥褻だ」 と批判し、戦後天皇が 「人間宣言」 をしたことに対し、2・26事件の青年将校や特攻隊員として死んで行った若者の口を借りて 「などてすめろぎは人間 (ひと) となりたまいし」 と問わせ、憂国小説と云われた 『英霊の声』 についても天皇批判の 「『怨霊の声』 だ」 などと酷評しながらも、 彼が自殺 (自決というのだそうですが) したとたんに 「神」 となり、三島~社を作ろうなどという話が出て来たとか、三島の 「切腹ごっこ」 「切腹願望」 の話など、 いわゆる 「あちら側」 のエピソードなどいろいろ教えられるところも多くありました。私はつい一昨日、8月14日ヘルニアで開腹手術を受けたばかりですが、 麻酔も打たずに 「切腹願望」 など正気とは思えません。

  戦争末期、同世代のものが兵隊にとられて行く中で検査不合格で命拾いした、後の三島由紀夫こと平岡公威なのだから── 今にも不合格はまちがいであったと取消されるのではないかと恐れ、後ろも見ずに急いで逃げ帰ってきた平岡親子 (猪瀬直樹 『ペルソナ』)── もっと命を大切にしなければならなかったはずです。そんなことを考えていたら、藤沢周平が清河八郎のことを描いた 『回天の門』 の中の一節を思いだしました。

  「――男たちは……
  とお蓮は思う。なぜ天下国家だの、時勢だのということに、まるでのぼせ上ったように夢中になれるのだろうか。いまにも刀を抜きかねない顔色で激論したり、 詩を吟じて泣いたり出来るのだろうか。
  あるとき酒を運んで行ったお蓮は奇妙な光景を見ている。山岡を先頭に一列につながって輪を作った男たちが、奴凧のように肩をいからし、唄にあわせて、 一歩踏みしめるたびに突っぱった肩を前につき出して、土蔵の中を歩きまわっていたのである。八郎もその中にいて、ものに憑かれた顔で口を一杯に開き、 肩をいからして床を踏みしめていた。お蓮を見ようともしなかった。
  あとで八郎に聞くと、それは山岡が考えだした踊りというもので、伊牟田や樋渡らがあまりに血気にはやることを言うので、気を紛らすために踊らせたということだった。
  そう聞いて、お蓮は思わず口を覆って笑ったが、それで安心したわけではなかった。酔って、鬼のように顔を赤くした男たちが、唄声だけは外をはばかって低声に、 床を踏み鳴らし、酒くさい息を吐いて部屋の中を踊り回っていた光景は、物に憑かれたとしか見えなかったのである。……
  男というものは、なんと奇妙なことに熱中できるものだろう。」

  それにしても三島は何故1人で自殺せずに、森田必勝という若者を道連れにしたのでしょうか。
  なお、高橋和巳の親友であった小松左京が 『日本沈没』 を書いたのは、戦争末期に唱えられた 「本土決戦」 「一億玉砕」 へのひっかかりがあったからだと述べているということも、 鈴木さんの本で初めて知りました。
  一度読んでみようと思っています。興味深い御著書どうも有難うございました。