ブックレビュー 

書評
『潜在的核保有と戦後国家―フクシマ地点からの総括』
武藤一羊 (著) 社会評論社 (2011/10)
木村 朗(鹿児島大学教員、平和学)


  昨年3月11日の東日本大震災と福島第一原発事故によって、日本および日本人はそれまでの歩みと生き方を根本から問い返されることになった。 なぜ 「唯一の被爆国」 で地震・津波大国でもある島国・日本が世界三位の原発大国になることになったのか。原発と原爆はどのような関係にあるのか。 原発と基地は、民主主義の対極にあるという意味で実は水面下で深くつながっているのではないのか。

  本書は、60年代のベ平連運動の立役者の一人でもあった武藤一羊氏が、東日本大震災と福島第一原発事故を経験した 「フクシマ地点」 から、 戦後日本国家の歩みとその構造を総括し、上記のような根源的問題を解き明かそうとする画期的試みである。 本書の第K・L部は、主として 「政権交代をはさむ戦後日本国家の変化」 というテーマをめぐる著者のこれまでの論考をまとめたもので、 巻頭(第J部)の、フクシマ事態を踏まえて書き下ろされた新しい論考、そして巻末(第M)にある、 長年の盟友で論争相手でもある天野恵一氏との読み応えのある対談も含めて、今後の進路・方向性を考える上での最適の作品に仕上がっており、 いまの日本人にとってまさに必読書であるといえよう。

  日本における原発問題をエネルギー・環境問題の側面ではなく、戦後日本国家の成り立ちとの関連でとらえようとするのが、著者独自の立場・視点である。 著者によれば、あくまでも原発は、「社会的解体の危機を潜在させている存在」 であり、「無条件に廃止されなければならない存在」 である。 また、原子力の 「平和利用」 がその輝かしさで 「死と破壊の原爆を覆い隠し、帳消しにするという文脈」 で日本に原発が導入された経緯と、 「被爆国だからこそ平和利用」 という 「だからこそ」 の論理が当然の疑問や冷静な認識を妨げて 原子力の 「平和利用」 を正当化するメカニズムを明らかにしている。

  ここで注目されるのが、原子力の 「平和利用」 という言葉が 「軍事利用」 と対になって出現したこと、原子力だけに 「平和利用」 があるのは、 それが本来軍事専用のものであったからだという指摘である。 すなわち、アイゼンハワー大統領の 「原子力平和利用」 は、原子力を戦争という本来の目的以外にも使うという意味であり、 「1950年代における米国の覇権の戦略的な構成要素―核戦略を主軸とする軍事的覇権システムの有機的一部」 にほかならず、 この 「平和利用」 は 「提案時から、軍事利用の付属物以外の何物でもなかった」 という重要な指摘である。

  著者は、「原子力発電の産業としての成立は軍事からの独立を意味しなかった」 ばかりでなく、「出発点の原爆から原発へという回路に代わって、 原発から原爆へという回路が開けた」 という鋭い認識を展開している。 そして、この認識から、「原子炉はたえず爆弾という起源に先祖がえりする傾きを持っている」 し、「世界支配にしがみつく特権的核保有国にとって、 政治的にコントロールできない国の原発はすべて潜在的原爆製造能力なのだ」 というもう一つの認識が導かれる。

  さらに、「原子力平和利用」 の軍事的起源からの連続性は 「命にたいする道具観・無関心を正当化するシニシズムの哲学」 の連続性を伴うものであり、 原爆と原発のどちらにも目に見えぬ放射能被害を過小評価し、人目から隠すという共通の傾向があることを指摘している。 著者は、こうした認識をフクシマ事態に直面して初めて自覚したというが、その率直さにも評者は好感を覚える。

  著者の指摘はそれにとどまらない。「原子力平和利用」 の背後に三つの異質な要因(米国の覇権戦略、戦後保守勢力の改憲・核武装への野心、 戦後進歩的潮流の科学技術進歩志向と近代化エネルギー)があったこと、 その三つの要因は 「戦後日本国家を組み立てるにいたった規定した三つの相互に矛盾しあう原則」 (米国の世界的覇権支配の原理、 戦前大日本帝国の継承性の原理、憲法平和主義と民主主義の原理)、あるいは戦後日本にとっての国家安全保障の三要素(日米安保による核の傘、 戦争遂行能力の保有、憲法非武装九条と憲法民主主義)とそれぞれ照応することを明らかにしている。

  それとの関連で、原子力と安保にかかわる 「二つの戦略的隠ぺい」、すなわち核武装の潜在的能力保持のための原発の存在理由という秘密、 沖縄への米軍基地の移転・集中による本土政治からの安保の消去が行われてきたこと、 また 「ビンの栓」 論(日本核武装カード)が常に日本ではなく米国が中国向けに使ってきたという事実、 そして日本が対米自立志向を強めて [米国離れを見せれば見せるほど、また日本の核武装潜在力が備われば備わるほど、 日本を軍事的政治的に一層完全に米国の支配下に置く] という 「揺れ戻し方程式」 の存在を指摘するなどの重要な問題提起をしている。

  特に、この 「揺れ戻し方程式」 は、「戦後日本国家は米国を、外交の対象である外部者としてではなく、 みずからの内部者として抱え込んでいる」 という著者の長年の主張を理解するための鍵であるといえる。 そうした視点から、民主党が政権交代選挙で掲げた 「対等な日米関係」 や 「普天間基地県外、国外移転」 の主張、 鳩山・小沢両氏の 「東アジア共同体」 論などに米国が極度に警戒し過剰反応した結果、それが3・11の破局を契機に大きく揺れ返されて、 逆に米国による日本支配が大幅に強化される現状となっている経緯が浮かび上がってくる。

  原発問題とならんで、基地問題も中心・周辺構造に組み込まれているという意味で基本的に同じである。 その象徴が 「米国の軍事植民地」 であり 「日本(ヤマト)の国内植民地」 でもあるという 「二重の差別・支配構造」 に置かれ続けている沖縄の存在であろう。

  最後に著者は、日本の採るべき選択肢として、「潜在的核戦力としての原子力」 の破綻を前提に脱原発を説く一方で、 脱安保・脱覇権と非核化・非軍事化を提唱し、その構造変革を行う可能性・主体を下からの民衆レベルの連帯に求めている。 評者もこうした著者の主張に深い共感を覚える。

  「フクシマ地点」 から戦後日本はどのような軌跡をたどってきたのかを理解し、今後どこに向かおうとしているのかを考えるためにも、 著者の持論である 「三原理論」 を主軸に論じた優れた歴史的検証の試みである天野恵一氏との対談も併せて、本書を一読されることを強く薦めたい。
(『図書新聞』 2012年5月19号 掲載)