ブックレビュー 

谷 久光著 『朝日新聞の危機と 「調査報道」
―原発事故取材の失態』(同時代社)

木村 朗(鹿児島大学教員、平和学)


  一昨年3月11日の東日本大震災と福島第一原発事故は、 なぜ 「唯一の被爆国」 で地震・津波大国でもある島国・日本が世界三位の原発大国になることになったのか、 という根源的な問いかけを日本社会に提起するきっかけとなった。 しかし、政府・東電といった当局者が事故発生直後から深刻な汚染状況や被曝の実態を国民に隠しただけでなく、 大手マスコミや御用学者などがそれに加担・同調して真相を伝えることをしなかった。 そして、こうした事実がフリージャーナリストの活躍やソーシャルメディアの登場もあって徐々に明らかになってきている。

  戦前の 「大本営発表」 を思わせる欺瞞的な原発報道という点では、朝日新聞も例外ではなかった。 本書は、かつて朝日新聞社の社会部の記者であった著者が、 副題にもある 「原発事故取材の失態」 に見られる朝日新聞の危機を直視して警鐘を鳴らすとともに、 本来の 「調査報道」 の原点に戻ることの大切さを実例を通して訴えた提言集といっても良い。

  著者は、「プロローグ」 で、「東京電力の福島第一原子力発電所で、東日本大震災と津波による原子炉の安全装置の複合的な破壊が起き、 炉心溶融に至るという深刻な原子炉事故が発生した。その後のこの事故の報道に関して、 まず第一に大手メディアの記者が誰一人として主体的に原発事故現場に入っていないが、朝日新聞の東京本社報道局内では、 取材態勢を巡ってどのようなことが起きていたのか、第二に事故についての一連の報道が、 大戦中の大本営発表を思わせるような東電や政府の発表のいわば垂れ流しが事故報道の主流になったのはなぜか、 第三になぜ社会部が現場や直近者のルポルタージュや内部告発者を探し、 調査報道といった手法による隠された事実に迫ることに取り組まなかったのか」 という核心をついた問題提起を行っている。

  ここでいう 「調査報道」 とは、「公権力の隠れた疑惑、腐敗、ウソなどをジャーナリズムが自らの責任で調査し、国民の知る権利に応える行為」 であり、 政府や東電など当局者の主張をそのまま垂れ流す 「発表報道」 とは対極にある存在である。

  本書の中心テーマは 「調査報道の基本」 であり、本書の内容は大きく2部に分かれている。 前半の第1部では、原発事故発生時に 「希望者を募って決死隊を編成して現場へ突入すべきだ」 との声を封殺し、 政府の立ち入り規制に忠実に内部から1人も記者を派遣しなかった事実、 そして 「東電の情報コントロール」 に屈して福島第一原発事故に潜む真実を伝える原発報道ができなかった新聞社側の論理や、 調査報道が問われなくなっている現状について批判的な視点から検証し、 朝日新聞の原発事故取材への対応・姿勢を 「歴史に残る大失態」 「信じがたい責任放棄」 「社会への裏切り行為」 とまで言い切り、 「この世紀の世界史的な大事故に社会部的なアプローチは出来なかったという信じられない事態で推移した」 と結論付けている。

  また著者は、朝日新聞が原発事故取材・報道で発表報道に終始するなどの失態をさらした原因の一つに、 社会部の廃止などの近年の朝日新聞の組織改革にそもそも問題があったと述べている(現在社会部は復活している)。 「重大なときにこそ権力との距離を保って監視していく、『大本営発表』 を批判的な目で追及し、問題提起したり、 反論したりするメディアの努力が不十分だった」、「今回の原発災害に対する新聞ジャーナリズムの責任を問うとすれば、第一に現場取材の放棄、 第二に日常取材の弱さ、第三に調査報道の姿勢の欠如、が挙げられる」 との著者の指摘は重い。

  さらに、インターネットメディアとの関連で新聞社の経営危機が世界的な流れになっている点にも触れ、 新聞社が自らの足で取材する情報を何よりも大事にしなければ読者の新聞離れは食い止められないし、新聞社の社会的責任は果たせないと主張している。 こうした方向での改革ができなければ新聞ジャーナリズム自体、朝日新聞そのものの存亡が危ういと断言しているのが注目される。 すべて実名での著者の批判は鋭く説得力がある。

  著書はまた、朝日新聞紙上での 「プロメテウスの罠」(朝刊)や 「原発とメディア」(夕刊)の二つの検証記事を評価しつつも、 「検証記事は確かに重要ではあるが、あくまでも後追い、フォロー記事である」 と釘を刺すことも忘れていない。 そして、「問題はここから先のことがより重要である」 とし、 原発事故を多様な放射能被害など 「気の遠くなるような時間と危険との闘い」 を覚悟することを現役の記者たちに求めるとともに、 実時間での現場に密着した検証報道の必要性を強く訴えている。評者もこうした著者の主張と姿勢に深い共感を覚える。

  後半の第2部 「よみがえれ、調査報道―社会部が元気だった時代」 では、「公費天国キャンペーン」(鉄建公団から始まり大蔵省のカラ出張、 官官接待などの不正の摘発)、「大型公共事業の談合キャンペーン」(政・官・財が癒着しての公共工事を食い物にする実態の告発)、 「東京医科歯科大学汚職事件」(教授選考に大金が動く 「白い巨塔」 不正義の告発)、「リクルート事件」(未公開株売買に見る政治家の錬金術の告発)、 「三越ニセ秘宝事件」(社長解任に至る民間会社独裁者犯罪の告発)などの主要事件を取り上げ、 それらの事件で新聞社の 「調査報道」 が果たした重要な役割を検証している。 最後に掲載されている社会部OB記者たちとの座談会も貴重な証言ばかりで読み応えがある。

  以上述べてきたように、本書は現在危機のただ中にある新聞ジャーナリズムにとって何が必要なのか、を示唆してくれる貴重な証言・提言の宝庫であり、 珠玉の一冊である。 とくに、社会部を中心とする特別合同チームによる調査報道がいかに新聞報道にとって重要で不可欠なものであるかをあらためて実感させるという意味で、 ジャーナリストばかりでなく一般市民にとっても必読の書であるといえよう。

  本書に注文をつけるとすれば、かつての調査報道のなかにも隠された深刻な問題点はなかったのか、 その問題点は実は現在でも続いているのではないのか、といった問題意識がもっとあっても良かったのではないか、という点である。 いずれにしてもこのような調査報道の基本の重要性を説いてやまない著者のような記者魂をもつジャーナリストが、 朝日新聞をはじめとする大手マスコミ内部から多く育つことを願わずにはいられない。
「図書新聞」 2013年1月19日掲載