石原慎太郎 「震災は天罰」 発言

弁護士 澤藤統一郎  目次

お地蔵様への合掌
(2011年4月3日)

  被災地の報道映像には目が離せない。最初は痛ましい絶望の風景一色だったが、ほの明るい希望も映し出される。 人間のはかなさだけでなく、強さも優しさも気高さも見えてくる。ふと、思いがけない光景を目にした。

  気仙沼の鹿折地区。被災者が瓦礫の山から掘り出したのが、大ぶりのお地蔵様。数人がかりで掘り起こし、泥を拭うと柔和なお顔が現れた。 これを囲んだ人々がごく自然に合掌する。中の一人が、「いつものお姿が戻って、本当によかった」 と明るい笑顔を見せた。 新聞報道では、宮古市の山崎でも同じ話が。おそらく、ここかしこで見られたことなのだろう。

  やや、戸惑いをおぼえる。地蔵は、釈迦入滅後の末法の世で、弥勒菩薩があらわれるまでの長い長いあいだ、六道を輪廻する衆生を救う菩薩であるという。 最も弱い立場の人々を救済する通力をもつとも、親に先立つ不孝故に賽の河原で獄卒に責められる子供を救う菩薩であるとも聞く。 その慈悲の力にすがりたいとの願いを込めて建立し、守ってきたお地蔵様ではなかったか。 このたびの震災と津波に、いったい何の通力を示されたか、どんな御利益をもたらしたか。 空しく、津波に流され瓦礫に埋もれて、その無力を晒しただけではないのか。

  いや、このお地蔵様を建ててお守りしてきた人々の思いは、御利益の期待にはなかったのだろう。 人々は、石のお地蔵様が何の通力ももたない、もっとも弱い存在だとよく知っていたにちがいない。 その弱いお地蔵様を瓦礫の山から救う自らの慈悲の行為に、実は自らが救われていることを自覚しているのだと思う。 お地蔵様は、その弱さ故に、人々の心の支えになり優しい人々を救っていたのではないだろうか。

  お地蔵様を瓦礫の下から救って合掌することは、心優しい人々の敬虔な行為として胸を打つ。 このような人々の被災を 「天罰」 と言った傲岸な人物の品性の欠如に、あらためて怒りを禁じ得ない。 もっとも、「天罰は、その発言者自身に降りかかるだろう」 などとは、やさしいお顔のお地蔵様も鹿折の人々も、けっして口にすることはないのだろうが。