2011.5.7

シリーズ 原発

NPJ 福島へ──その1

2011年5月6日 会津若松にて

NPJ代表 梓澤和幸

  2011年5月4、5、6日、NPJ代表梓澤は中央区の小児科医師小坂一輝氏、井桁大介弁護士と一緒に原発の現地福島を歩いた。

  1日目は地元の広田次男弁護士に案内していただいた。

  原発から南に20キロ、ここは大メディアの記者は来ていないという。いつもならサッカー合宿に使われるJヴィレッジという場所がある。 小高い丘の上に山のホテルのような建物が立つ。
  原発危機回避のための工事拠点がここにある。軍隊色の布のカバーをかぶった自衛隊の大型輸送車がずらりと並ぶ。 カーキ色の軍服を着た自衛隊員がそこここに立つ。武装はしていない。
  ここから先に入ると違法という境界線に50センチまで近づいた。誰が立っているわけでもない。だれも来ないからか。 手元のガイガーカウンターは 1.22マイクロシーベルト/時の数値を示す。 避難区域への一時帰宅訓練だろうか、それとも被曝作業の労働者の人たちか、白い防護服を一杯に着込み、 防毒マスクのようなものをかぶった人たちが座るマイクロバスが入ってくるのが見えた。10人から15人乗っている。 空気全体に緊迫感がピーンとみなぎる。あたりは新緑をすこし過ぎているか。

  ここより少し南に久ノ浜という地域がある。辺り一面は3月11日の津波が破壊しつくした住宅が、道路から浜に向かって一面にがれきの山、 古木材の山と化していた。もちろん人が住める状態ではない。その向こうの海は信じられないくらいに穏やかな波を打っている。水平線が見える。
  かろうじて外形だけが残った家が一つあった。そこに車をとめさせていただく。避難先から戻ってきた車が着いた。 少し言葉の不自由な男性のお年寄りが上半身を乗り出すと、その家の前に立っていたご婦人がその胸に抱きついた。 後ろから見ると肩が痙攣し、右の頬から涙がつたっているのが見えた。男性は少し髪も薄くなり日焼けした頬に深くしわが刻み込まれていた。 土地のしり上がりの言葉で話しかけた。「ほとけさまがあ。命を守ってくれたんだよなぁ。生きていればいいこともあっぺえ。」

  その隣広野町の町並みは30キロ圏内の計画的避難区域に組み込まれている。人影はほとんどない。 ガイガーカウンターが示す数値は0.267マイクロシーベルト/時であった。一つの集落ごとに差がある。 この集落は全くやられていないかと思うと、山を越したその向こうの海岸では見渡す限りのがれきが続く。 火力発電所もあった。このようにして、いくつもの港町、漁村がつづく海岸を北茨城まで下った。その道中で見たことは次に書く。

  時間が5日に飛ぶ。
  郡山である。午前11時30分ころビッグパレットにつく。原発がふるさとを奪った800人の人たちが今も避難生活をしている。 そこで見た光景も忘れてはいけない。4〜5メートル四方の空間が一つの家族に与えられている。高さ50センチほどの段ボールが境である。 仕切りはボランテイアの人たちが作ってくれたそうだ。幅2メートルほどの、人々が行き交う通路からは丸見えでまったく私的空間はない。 それが日本武道館くらいの大きさのところに延々と続く。話し声は聞こえず沈黙と静寂の空間である。
  人災の被害者が54日間ずっとこんな生活を強いられている。まことに納得のいかない光景であった。

  この3日間、東京の私たち、全国の私たちが、本当はひとときも忘れてはいけない経験を見聞した。何回かに分けてこの見聞記をお伝えしていきたいと思う。