2011.5.10

シリーズ 原発

NPJ 福島へ ──その3──

いわき市郊外薄磯(ういそ)海岸にて

NPJ代表 梓澤和幸

  小高い丘から薄磯(ういそ)の海岸に車で降りるのはかなり大変だった。道が狭いだけでなく周辺の家屋が津波の被害でがれきになり、 道の上にもそのがれきの破片がときどき道をふさぐようにつきだしていた。2台の車は急な坂をそろそろと下りていった。 視界が開けると岬と岬で囲まれた谷のようになった海岸の集落があったのだが、そこは薄磯(ういそ)と呼ばれていた。 海岸の側には高さ2メートル程の防波堤があり、その向こうは海であった。防波堤の内側は視界に入るすべての建物ががれきと化しているか、 せいぜい屋根だけが原型をとどめ、そのどれもが斜めに地面に突き刺さっていた。

  同行の5人が呆然とその光景を見ていると、後ろから走ってきたように息を切らせながら、30代かせいぜい40前後の若い男性が話しかけてきた。 海の方角30m程先にがれきの塊があった。

  その方向を指さした。
  「あそこにあった我が家がほら、その先にあるんだから」 と今度は、丘の側を指さした。そこは2階の屋根の部分だけが外形をとどめ、 やはり同じように斜めに建物が地面に突き刺さるようになっていた。

  地震があったときはいわきの市内にいたが、親父とお袋のことが気になって車で飛ばしてきたら途中の規制線で止められて、 「逃げろ」 と言われ、バックで高台に向かい、ようやく助かったのだと言う。しかし、ご両親は津波でやられた。 救助隊は全く姿を見せないので、県知事に電話を掛け、出た役人に窮状を訴えた。 そうすると地震の翌々日、浜松から来た消防団が50人、赤い消防服を着て駆けつけてくれたという。母上のご遺体だけは見つけてくれた。 しかし、父上は今も行方が分からないというのだった。


  同行の人がいて1人は高齢の男性であったが、もう1人は女性で年下の家族と見受けられた。一見して身重と分かった。 少しくぼんだところにある流された家屋の跡に向かって合掌している。後ろから見ても全身を震わせて嗚咽しているのが分かった。 手前の大きな石、これも津波が運んできたものかも知れないのだが、その石の上にこれだけはがれきの中からようやく掘り出したのだという仏壇が、 海の方向に向かって扉を開かれて置かれていた。同行の井桁弁護士が深く深く頭を下げ、心をこめて祈りを捧げている様子が心に刻まれた。

  その男性が言うところでは、仕事がないまま一日一日が経過していくのが不安でたまらないという。 それに、まだ行政から10万円のお金が支給されただけだという。

  話しているところに、ふと70代半ば位に見える小柄な女性が、真新しい上っ張りを着て穏やかな土地の言葉で話しかけてきた。 原発20キロ圏内から移動してきて近くの避難所にいるのだという。新しいうわっぱりは支給されたものだった。
  指さした丘の上に保養所のような建物があった。
  ご婦人は言った。
  「気の毒ですねえ。ご両親の命も取られ家も全部失って…。」

  その次にご婦人の口をついて出た言葉には何と言っていいかとまどった。

  「私らはいい。命を取られた訳でもないし、帰る家も津波でやられた訳ではないから。帰るところもあっから…。」

  戻れないとは実際に思わないし、そう思いたくもないのであろう。
  しかし20キロ圏内はもどれるように回復できるのだろうか。
  チェルノブイリの経験はどうなのか。そう思ったがそのことはこちらの言葉にはとても出せなかった。

  車に乗り込む前にもう一度海を見た。穏やかにほとんど音もなく静かな波が浜に寄せているだけであった。