2011.4.14更新
シリーズ 原発

福島 「原発震災」 は予言されていた─その2

弁護士 只野 靖
浜岡原発運転差止裁判弁護団 2011.4.14

  福島 「原発震災」 は予言されていた─その2として、原発のメルトダウンの物語を報告しよう。 以下は、2003年10月22日に静岡地裁に裁判資料として正式に提出された、原告側の準備書面(1) (241頁)からの引用である。 この物語を書いたのは、裁判の原告の1人である、静岡県藤枝市在住の塚本千代子氏である。
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  「想定される事故例 《ケース1》
  2004年Xデー 曇り・南西の風・風速4m/s
     (中略)
  そのころ、浜岡町佐倉にある中部電力浜岡原子力発電所の2号機と3号機制御室では、大変なことが起こっていた。
  午後3時20分、警戒宣言が発令され、発電所内で緊急会議、名古屋本社との連絡をとりながら原子炉の運転停止を決めた。 1号機は、事故以来停止してある。2号機は運転を再開したばかりである。
  午後4時30分、2号機(出力84万kW)、3号機(出力110万kW)・4号機(出力113.7万kW)を手動停止。 いずれも制御棒挿入、冷却系も異常なし。制御室の技術員は、安堵した、“地震がきてもこの建屋にいれば大丈夫だ。”
  午後5時20分、地震発生、ビリビリという振動のあとドドーンという衝撃音とともに技術員は足元をすくわれ転倒した。 ようやく床にしがみつくかのような態勢で揺れに耐える、 制御室のデスクや壁面の計器やボタンがびっしり並んだパネルが不協和音を発しながら細かい揺れを続けた。 機密性の高いその空間は鈍く不気味な振動と音が響きつづけた。 その2分後、制御室のパネルのあちこちで異常を知らせるランプと警報ブザーがなり始めた。 技術員たちは一斉にパネルに近寄った、電源異常のランプは数箇所で点灯している、冷却系の配管にもトラブルがあったらしい、 ECCS(緊急炉心冷却装置)が働かない。技術員の背筋に悪寒が走った。炉内温度を示す針は急上昇をはじめた。 さらに数分後、制御室が停電となり、すべてのランプが消え、静寂となった。なす術はなかった、技術員の断末魔のような叫び声が制御室を震わせた。
  炉内の水はなくなり、十数秒で燃料棒が熔け始める、メルトダウンがはじまる。

  (この部分は原発事故の話である。以下は原発震災の話である)

  地震発生から1時間が過ぎようとしている。その間、広場では震度6ほどの余震にみまわれながら、なんとか持ちこたえていた。 自治会の人達が、広場の隅に横倒しになったプレハブの倉庫の戸をなんとかこじ開け、非常食や飲料水を持ち出し人々に配りはじめた。 皆、食欲はない、しかし、“何かしなければ” という思いにかられ、とりあえずカンパンを口にいれ、紙コップの水を飲んだ。 水は全身にしみわたるようだった。東京からの3人も、自分たちの不運をのろいながらも擦り傷程度で切り抜けたことにありがたさを感じた。 その時、なにげなく南の空を見た母親が、「んっ?」 と声をあげた。その視線を追った父親は、どんよりとした日だったのに、しかも陽は落ちているのに、 薄いオレンジ色がかったきれいな白い雲を見た。不安が襲った、隣で水を飲んでいる地元の人に 「向こうには何があるんですか?」 と聞いた。 その人もすぐには分からず数秒考えた、が、次の瞬間、飛び上がった。「おい! みんな! 浜岡原発がけむりを上げているぞ!」

  騒然となった。2人はそこに原子力発電所があることも知らなかった。しかし2人とも原発の事故がどのようなものであるか、 いつか本でよんだことをさかのぼって考えた。
  “こうしてはいられない”、午後7時をすぎていた。東京からの地震のニュースをラジオで聴いていた1人が指示した。
  「原発でメルトダウンを起こしたらしい、放射能がくるぞ!逃げろ!」
  それほど強くないが、風は南西からふいていた。
  「西へ向かって逃げるんだ。島田や静岡へ行ったら、放射能と一緒に歩くようなものだ。掛川から浜松に向かって行ったほうがいい!」
  「ビニールをかぶって、ぬれタオルでマスクにして!」
  いろいろな怒鳴り声が錯綜する中、3人の横を歩きはじめた、5歳くらいの男の子を連れた母親が持っていた袋の中からなにかを取り出し、 こどもの口に押し込んだ。“なんだろう?” と思った母親の目が合ったとき、その母親はまた錠剤を取り出し、 「これ、お嬢ちゃんに飲ませなさい」 と、正露丸のような茶色の粒を2つくれた。放射能を浴びる前に飲むと効力があるという “ヨウ素剤” らしい。 子供を甲状腺ガンから救うとされている。苦いらしく子供はしかめっ面をしたがなんとか飲ませた。 2人はヨウ素剤など、あることも知らなかったし、まして何に効くのかも知らないことに、これから先への不安を増幅させた。

  午後7時すぎ、メルトダウンを始めた原子炉は爆発を起こしていた。膨大な量の放射性物質が放出された、その量はチェルノブイリ原発事故を上回っている。 原発のオフサイトセンターでは、周辺で毎時1シーベルト以上の放射線量を確認した。年間許容量の1000倍以上である。原発にはもはや近づけない。 大停電と電話線の切断により、状況が中央にも把握できない。おそらく、3〜4時間後には、放射能雲は静岡から伊豆半島に達し、 翌早朝には皇居や国会議事堂に放射能が降りるであろう。近畿地方から北陸・東海はもちろん、北関東までの広い範囲が放射能で汚染されることになる。

  カバンに入っていたレジャーシートをかぶり、人の波にのって歩いた。幸いに周りは田畑が多く、余震で建物の下敷きになるようなこともなさそうだ。 しかし、木造住宅の多くは崩れたり、傾いていたりしている、さらに道路が陥没していたり、自動車が横転していたりと地震の爪あとはすさまじいものだ。 広報車やパトカーも見かけない。

  「本当に放射能が来てるのかしら?」 何も目には見えないし、匂いも感じない。
  2時間ほど歩いたころ、雨が降り出した。町並みにさしかかり、倒壊した家が道路をふさぐ、「掛川駅1km」 の標識がその下に見えた。
  「雨にぬれるなー!」
  放射能を含んだ雨が容赦なく降りかかる。あたりに散らばっているトタンや木の板を頭にのせて歩く人、疲れ果てて瓦礫を屋根にして座り込む人、 放置された自動車の中に避難する人、人はみな徒労感を感じていた。
  さきほどまで父親に抱かれてむずかっていた女の子が静かになった。ぐったりしている。
  母親が必死で呼び掛ける、ときどき薄目をあけるが、すぐに力がなくなる。
  「病院!病院はどこ?」 「放射能のせい?」
  2人はめまいを覚えながら、病院を探して歩きつづけた。どこをどう歩いたのかもわからない。
  なんとかたたずまいを残しているビルをめざして歩いた。あたりは真っ暗闇である。やっと、総合病院らしい建物を見つけた、 近づくと人々でごったがえしている。なんとか中へ入る、倒れている人、けがをしてうずくまる人、泣き叫ぶ人…
  そこは地獄であった。
  医者や看護婦の姿は見えない、医薬品はすでに使い果たしている、これでは外からの救援もないであろう。 少なくとも数日間は、この汚染された地に放置されるであろう。
  母親は愛するわが子を抱きしめた、とめどなく涙があふれる。
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  この物語は、地震の予知に成功し原子炉を手動停止させたものの、地震によって冷却系の配管が破断して、 崩壊熱によってメルトダウンを起こすという想定をしている。
  福島原発では、地震前に停止させることはできなかったが、幸いに自動的に制御棒が挿入され核反応は停止できた。 そして、この物語の後半にある炉心の大規模爆発は、現在のところ、起きていない。不幸中の幸いというべきだろう。 それでも、大量の放射能が漏洩され、現在も不安定なままであることは、すでに前回述べたとおりである。

  しかし、福島原発よりも遙かに厳しい地震(震源は原発敷地直下深さ約15キロ)が予想される浜岡原発で、核反応の停止に失敗しないか、 停止できても炉心の大規模爆発が起こらないか、保証するものは何もない。

  原告側のこの物語の提示に対して、2003年当時の中部電力の返答は、以下の1行だけだった。

  「根拠のない架空の物語にすぎず、認否の要をみない」
  (中部電力平成15年12月15日付準備書面(1) 97頁)
  ようするに、中部電力は、あり得ないこととして、原告の主張を無視したのである。

  中部電力の代表取締役三田敏雄会長、同水野明久社長(ほかにも取締役は多数いる)に言いたい。 福島原発震災を眼前にして、なにゆえ自分たちの浜岡原発は安全だと言うのか。あまりにも傲慢ではないか。 中部電力管内では、原発を止めても、電気は有り余っているではないか。なぜ、国民を欺き、原発の運転を続けるのか。
  中部電力の代理人である奥村〓(米 に右側は 攵)軌、谷健太郎、山内喜明各弁護士(ほかにも代理人弁護士は多数いる)に言いたい。 あなた方が真に中部電力の利益を考えるのであれば、取締役経営者に対して、浜岡原発の運転停止を進言するべきではないのか。 それが弁護士の仕事ではないのか。

  残念ながら、中部電力が浜岡原発を止める兆しは未だない。