2011.7.21

シリーズ 原発


「避難の権利」確立に向けて
河崎健一郎(弁護士)


  「子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク(代表:中手聖一さん)」 が主催する交流イベント 「第二回 福島生活村」 に参加した。 食品の放射能測定や不安を抱える母親たちの交流カフェ、「子どもたちを放射能から守る小児科医ネットワーク(代表:山田真医師)」 による健康診断など、 盛りだくさんの内容だったが、その一角で、「自主避難」 にテーマを絞った法律相談のブースを受け持った。
 
  相談者たちが一様に口にするのは、「強制避難でないことの難しさ」 であった。 強制的に避難させられることによる生活の破壊が甚大であるのはもちろんのことだが、強制避難であれば避難に対する行政や東電の責任が明確となる。 (もっともそうした責任が十分に果たされていない現状があるのだが、わき道にそれるのでここでは触れない。)
  強制避難区域ではない。だから行政の支援は受けられない。 しかし、線量計で測ってみると3μSv/hをゆうに超える数値が自宅のベランダや学校のグラウンドから検出されるが、 子どもたちは部活や遊びで泥にまみれて帰ってくる…。
  低線量被曝による健康被害は心配しなくてよいとTVや新聞はいうけれど、自分はこのところ体調が悪く、子どもは何度も鼻血を出した。 それが果たして被曝の影響なのかどうか分からないけれど、万が一のことがあったときに、子どもに対して申し訳なくて…。
  そんな話を聞いていると、遣りきれない思いがこみ上げてくる。

  チェルノブイリの事故の後にそうであったように、強制的に避難するべき高線量の地域と、そうでない地域の間に、 「避難を選択できる地域」 が設けられるべきではないか。
  低線量被曝による健康被害は 「ある」 とも言えないし、「ない」 とも言えない。その結論を出すのに足るだけのデータがないのだという。 であるならば、そういった現在の科学の到達水準や、一人ひとりの住民が暮らす生活の場の放射線量、食材や水の放射線量のデータを提供し、 避難するのかどうかを一人ひとりの住民の選択に委ねるべきではなかろうか。
  そして、避難することを選択した住民がいるのであれば、その人に対して、強制避難区域の住民に対するのと同様の、公的なサポートがなされるべきである。

  震災後、何度目の福島だろう。ここにきて足しげく福島に通うようになったのには、理由がある。そこには、私の中の原罪意識のようなものがある。
  3.11の震災が起こるまで、私は原発の是非につきロクに考えたこともなかった。積極的に推進、とまでの思いもなかったが、温暖化の問題もあるし、 そこまでひどい事故は起きないだろうし、まあ、消極的に推進かな、という大多数の一人だった。
  そして消費地である東京に住んで、自由に電気を使ってきた。
  これだけの危険を福島に押し付け、見て見ぬふりをしてきたのだ。

  低線量被曝の健康に対する影響は心配しなくてよいと説明する学者がいる。政府や福島県の公式見解もそのような説明だ。
  では私はいま、自分の家族を連れて福島に移住しようと思うか。
  正直に書く。思わない。思えない。
  多くの人は同じように感じているのではないか。
  そうであるのに、人に対してその危険を押し付けてしまって良いのか。
  見て見ぬふりでよいのか。

  自主的な避難が難しい理由は、行政の支援が得られないことだけではなかった。
  ある意味もっと大きな障壁になっているのが、「周囲の空気」 だと幾人もの相談者が語った。
  あの人は逃げた、責任を放棄して逃げた、そう思われるのが怖い。辛い。だから避難したいとは言い出せない。
  夫婦の間、家族の間で意見が対立し、それが理由で家庭が壊れた話も聞いた。
  学校でも、被曝に対する意識の差が大きすぎて、マスクを着用していたらいじめられると、子どもが泣くという話を聞いた。
  これらは深刻な二次被害だ。しかしこうした定性的な二次被害は、事後的な賠償の対象からさえも、こぼれおちていく可能性が高い…。

  「避難の権利」 を正面から主張し、確立していくことは、こうした 「周囲の空気」 を変えていく上でも重要な役割を果たすだろう。
  それは 「わがまま」 などでは決してなく、人として尊厳を持って生きる上での、当然の 「権利」 なのである。

  見て見ぬふりの過ちを繰り返してはならない。