忌野清志郎死す。ロックとコトバと憲法と。
弁護士 田場暁生
忌野清志郎が死んだ。憲法記念日の1日前に逝った。癌の再発に際して 「これも人生経験。
この新しいブルースを楽しむような気持ちで (癌の) 治療に専念したい」 と言っていたが、さすがの清志郎もくたばった。
この人を語るとき、反骨というコトバはそぐわない気がする。反骨の意を内包したところの 「いかしてる」 というコトバが似合うのだろうか。
報道では、「日本語ロックの先駆者」 などと報じられているが、これは、単に日本語をロックのリズムにのせたということではない。
尊敬の念を込めて、彼のロックと、彼のコトバと、そして、彼が愛する憲法を語りたい。
坂本龍一さんとの 「いけないルージュマジック」 がラジオで流れた (1982年) のは、ボクの耳がロックミュージックを気にしだした中学入学直前のころだ。
その意味で、僕は 「RC (サクセション) 世代」 ではない。しかし、キヨシローの言葉へのこだわりとそのメッセージ性には少なからず影響を受けた。
ロックにどっぷりつかって以降、ぼくは真剣にロックミュージシャンになりたかった。
バンドメンバーからは、「そんなに (社会に) 訴える歌詞つくんなよ」 と言われ、また、日本語でロックする難しさを感じていた。
多くのミュージシャンが不用意に英語を歌詞に交ぜる。特にサビになると、もしくは行き詰まると、いきなり陳腐な英語があらわれる。
中途半端に英語を入れるなら、全部英語で歌え! といつも思っていた。
英語に逃げるほうが楽だが、そこには自らの化身であり、紡ぎ出すはずのコトバも、こだわりも、愛着も感じられない。
「アイラブユー」 のコトバを日本人がどれだけ肉体化できるだろうか?
キヨシローは、日本語にこだわった (キヨシローの 「ベイベー」 は日本語である)。「ロックはもう卒業だとあいつは髪を切るのさ。
お似合いだぜ、いい頭だな。生意気なやつだったのになんだか素直になったな。
レスポールが重たすぎたんだろ」 (「ベイビー逃げるんだ」) 「人の目を気にして生きるなんてくだらないことさ」 (「いけないルージュマジック」)。
活字にしたとき、いかしてる! と思える歌詞はそう多くはない。ロックの名を借りて歌謡曲を垂れ流す “ミュージシャン” も少なくない。
もっとも、ローリングストーンズの曲に譜面化できない不規則性をもっている楽曲があるのと同様、キヨシローの詩にはメロディーにのっているとはいいがたいものもある。
いい意味でブサイクな感じがするものは多い。それを貫き、確立した。
ただでさえ、平板な語感を持つ日本語を、さらに平たく、べたな形にして、
それをロック (リズムアンドブルース) の演奏にのせて歌った (歌にしてしまった) 数少ないロッカーだ。天才という言葉では物足りない。そして、似合わない。
キヨシローは、4年前の代々木公園のアースデイ・コンサートで 「いいかい、ロックの基本は愛と平和なんだ。一番の環境破壊は戦争なんだ。
この国の憲法九条を知っているかい。戦争はしない。戦争に加担しない。愛と平和なんだ」 と言っていた。今日の状況を前に、当然、こういうだろうと思っていた。
が、本当は、こんなコトバは使ってほしくなかった。新聞でのインタビューはともかく、ライブでこんなソフトな語りかけはふさわしくない。
酷かもしれないが、どうしても、ファンとして、ロックな君が代、「北朝鮮」 ソング、
(反原発の歌が放送禁止にされた後) テレビ局の生音楽番組で突如歌い出した 「FM○○。汚ねえラジオ。政治家の手先。何でもかんでも放送禁止さ」 を求めてしまう。
もっとも、僕らの力不足が、こんな、ある意味、平凡なコトバを、語らせてしまったのかもしれない。聴き手のレベルが追いつかなかったのかもしれない。
と思って、調べてみたところ、『「今だから言わないといけない」 というのもあるんだけど、「言ってどうなる」 とも思っているんですよね。
でも、こう、なんて言うのかな。ここでオレが言わないと、ステージなんかではもうだれも言う人がいない』 とあった
(2005年5月毎日新聞インタビュー)。そして、続けて 『気がつかないうちに憲法が改正されて、子どもたちがみんな戦場に行ったりしちゃうよね。
そうなってから 「しまった」 では遅いんですけど、でもきっとそうなっちゃうと思う。だってピープルにさ、パワーがないもん。
憲法改正に反対するよりどころがもうないもの。』 (同上)。
むむ。やっぱりそうか。力をつけなくては。
私が好きな先輩弁護士が、権力に抗う弁護士のあり方を指して 「弁護士は本来ロックな仕事だと思う」 と言った。オレはロックできているか? ほとばしるモノがあるか?


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