2009.5.3

憲法の原則の危機を乗り越えるために

弁護士 日隅一雄

  日本国憲法は、人類が同国人同士が血を流して獲得した国民主権と大量殺戮兵器による異国人間の大量の血によって、 現実的な目標とされた戦争放棄を私たちにもたらした。しかし、憲法制定から3世代が経ようとするいま、残念ながら国民主権は実質化せず、 戦争放棄は風前の灯火となっている。憲法記念日の今日、憲法の基本的な原則の危機をどのようにしたら乗り越えることができるのかを私なりに考えてみたい。

  日本では、自民党一党支配が続いていることから明らかなように、国民主権を実質的に発動する機会がほとんどなかった。 そこで、巷では、日本では市民革命がなかったから、国民主権が本物にならないなどと言われる。 もちろん、市民革命の経験の有無は、市民の政府に対する姿勢に大きく関わってくることは間違いない。 しかし、それだけが国民主権が実質化しない原因ではないはずだ。国民が主権を行使する条件とは何だろうか。 それは情報の共有だ。主権を実質的に行使するためには、主権をいかに行使すべきかを判断するために必要な情報を共有する必要がある。

  しかし、沖縄返還時に日本政府が米政府に裏金を渡す密約を交わしていた沖縄密約事件から明らかなように、 日本政府は、有権者が知っていなければならない情報を隠し続けてきた。 この事件ではすでに密約の存在が米国の公文書が公開されたことによって明らかになっているにもかかわらず、政府は頑なにその存在を否定している。
  また、日本政府は、在日米軍人が犯罪を行った場合の裁判権を放棄する密約を交わしていた。 このことが大きく報道された後、法務省は、国会図書館に対し、密約が書かれた文書を閲覧禁止とするよう要請し、国会図書館はそれに従った。密約の隠蔽だ。
  情報公開も制度はあるが、警察の裏金に関する情報のように主権者として本当に知りたい情報はなかなか開示されない。
  情報が共有されていないこと、これこそが国民主権を実質化できない大きな理由ではないだろうか。

  では、情報が共有できないのはなぜか。沖縄返還裏金密約にしても刑事裁判権放棄にしても、市民は政権を交代させるほどの怒りをぶつけることはなかった。 政府が保有する情報が公開されないことについても問題意識を感じている人は極めて少数のようだ。
  何だ、やっぱり、市民が怒りを感じるほどに成熟していないだけなのか…。そう結論づけたくなる。
  しかし、食品の産地偽装などに対する市民の怒りは相当激しかったのではないだろうか。 北朝鮮の拉致問題や中国産の餃子騒動についても、市民は怒りを共有していたように思う。

  その違いは何なのだろうか。やはり、マスメディアの取り上げ方に尽きるように思う。 沖縄返還裏金密約にしても裁判権放棄密約にしても、マスメディアは政府の問題を徹底的に追及することはなかった。 本当のことを明らかにするまで毎日、この問題を取り上げることも可能だったはずだが、そうはしなかった。
  では、なぜ、マスメディアが取り上げることができないのか、その裏には、マスメディアに対する日本独自の規制があることは間違いない。 戦後、米国が占領したときに日本のマスメディアを民主化するために、米国は放送行政を郵政省から取り上げ、独立行政委員会 (電波監理委員会) のもとに委ねたが、 日本政府は主権を回復したとたん、この独立行政委員会を潰した。その後は、放送と新聞を系列化することによって、 両者の牙を抜いてしまった (詳しくは、拙著 「マスコミはなぜ 『マスゴミ』 と呼ばれるのか」 をお読みいただきたい)。
  結局、政府与党によるこのマスメディア操作を知り、マスメディアに本来の機能を取り戻させる努力をすること、 そのことが実現しない限り、国民主権を実質化することはできないのではないだろうか。

  海軍大佐にまで昇進しながらも、第一次大戦の惨禍及び米国の経済力を目の当たりにして当時としては極めて先見的な非戦・平和論を唱えた水野廣徳氏は、 戦後、友人にあてた手紙の中で次のように述べている。
  「次の選挙こそは、日本がはたして正しく生き返るや否やの試金石であると思います。 しかし概観すれば、鳩山一郎や清瀬一郎などのご都合主義の人物が、矢張り多数を制するのではありますまいか。 きわめて露骨にかつ率直に白状すれば、日本人という民族は、無主義、無節操のオッチョコチョイで、時の権力に阿附することを恥としない、 きわめて劣等な性格の持主であると思います。しかも病すでに膏肓に入った奴隷的人種であると思います。 むしろ米国人によってこの機会に厳正なる選挙と、政治の標本を示してくれんことを望みます。 僕等より見れば日本人は今後数十年間は、正しき立憲政治を行う能力はないものと思われます。 これは一般国民の愚蒙よりも、むしろ指導者の故意の教育によるものと思われます」
  (http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/mizuno.html

  次に戦争放棄の原則について考えてみたい。東京大空襲や原爆投下の被害に遭った市民は、戦争をするくらいなら占領されてもかまわない、そう思ったはずだ。 戦争放棄の条項は、そういう市民の気持ちに適うものであり、画期的な条項として受け入れられたはずだ。 当時の新聞記事からも市民が積極的に受け入れていることがうかがえる (それらの記事をそのまま信用できないとはいえ…)。
  ところが、当時の悲惨な体験を有する世代が失われていくにつれ、戦争を回避するための強い意思も失われていった。 自衛隊の紛争地や海賊多発地域への派遣が戦争放棄の放棄へつながることへの危惧を抱く者は少数派となってしまった。

  しかし、占領されてでも戦争を避けるべきだという強い意思を継承することはそんなに難しいことではない。 東京大空襲や原爆の悲惨さ、日本軍による空爆被害などを伝える施設を日本各地に設立し、戦争がいかに非人道的なものかを学ぶことで、 戦争放棄への意思は継承できるはずだ。
  そうすれば、イラク戦争への国際貢献、ソマリア海賊対策への参加などの名目で自衛隊を派遣する前に、イラク戦争を中止させるため、 あるいは、ソマリアの海賊行為を防ぐために市民が英知を絞り、協力することが可能となるはずだ。 そして、その積み重ねが日本だけでなく世界的な戦争放棄へつながるはずだ。
  同時に、日本が軍事費を削減し、経済が繁栄するならば、当然、各国の企業は各国政府に対し、軍事費削減を求めるはずだ。

  他方、近い将来、エネルギーや鉱物資源が底をつき、武力による奪い合いが起きるかもしれない。 そのような悲惨な事態を避ける方法は、代替エネルギーや代替資源を開発することしかない。
  幸い、私たちは、そのような開発を行い、エネルギーや鉱物資源獲得紛争を回避する途を現実的に模索することができる立場にある。 そう、日本は、材木資源が失われるとともに文明が滅んだイースター島の悲劇が世界的規模で繰り返されることを防ぐことができる数少ない国の一つだ。 実現すれば、世界史に偉大な一頁を残すことができるはずだ。
  悲惨な戦争体験を継承するとともに、真の国際貢献という栄誉ある目標を掲げることで、戦争放棄を堅持し、世界各国に軍備削減を促すこと、 これこそが、第2次大戦で亡くなった膨大な人の霊を慰めることになるのではないだろうか。

  記録的な不況となったいま、生存権などの基本的人権が見直されている。 しかし、国民主権と戦争放棄に裏打ちされなければ、基本的人権は絵に描いた餅に過ぎない。 派遣村の成功は喜ばしいが、湯浅誠さんたちだからこそ成し遂げることができたという状況は喜ばしいことではない。
  国民主権の実質化と戦争放棄の堅持を実現する方法、ほかにも色々あると思う。皆さんの声を聞かせて欲しい。