2009.11.25

憲法9条と日本の安全を考える

弁護士 井上正信
目次  プロフィール

政治的早産に終わった 「ピョンヤン宣言」

、 わが国のこれまでの北朝鮮政策には、一貫した戦略がありません。その反面、北朝鮮はわが国の安全保障上最大の脅威とされ続けてきました。 そのことがわが国の防衛政策を規定し、9条解釈にも大きな影響を与えてきました。 また北朝鮮は、国連加盟国の内、わが国が国交を結んでいない地上最後の国でもあります。
  このような北朝鮮とわが国との関係を考えると、北朝鮮がわが国にとって脅威ではなくなるようにするための、一貫した外交戦略が存在することはむしろ当然です。

、 私は、わが国の北朝鮮政策の基本になるのが 「ピョンヤン宣言」 であると考えています。 その理由は、ピョンヤン宣言に至る日朝交渉の積み重ねを踏まえたものであること、日朝双方の首脳が合意したこと、その後の6者協議において、 北朝鮮核開発問題を解決するために、日朝がピョンヤン宣言に基づいて国交を正常化することが合意されていること、 ピョンヤン宣言の内容が理にかなっていることなどです。

、 ところが、ピョンヤン宣言は調印直後からわが国ではほとんど省みられなくなりました。 2002年9月日朝首脳会談で明らかにされた拉致被害者の状態(13名中8名死亡)に対して、拉致被害者家族会や支援組織、マスコミを挙げた非難の合唱の中で、 拉致問題解決が日朝交渉の入り口問題とされてしまい、ピョンヤン宣言は拉致問題という闇の彼方へ消え去ってしまったからです。 ピョンヤン宣言は誕生の直後から、保守勢力のみならず革新勢力からも批判を受けてきました。 保守勢力は北朝鮮の体制転覆を狙い、拉致問題を利用してピョンヤン宣言を葬り去ろうとしました。 日朝首脳会談へ官房副長官として出席した安倍元総理大臣は、ピョンヤン宣言を締結せず席を蹴って帰ることを小泉首相へ進言したといいます。 革新勢力も、米国に従属した日本が米国から自立した北朝鮮外交を進めるはずがないという先入観や、小泉首相が実行したといううさんくささ、 植民地支配に対して補償を行わないとする内容などから、正当に評価されませんでした。

、 結局、当時のわが国ではピョンヤン宣言を受け容れられなかったのです。政権内部の保守派から妨害されることを懸念して、 小泉首相は秘密裏に外務省の田中均アジア大洋州局長(当時)を派遣して準備を進めました。 秘密外交で一気に頂上会談に持ち込んでも、長年にわたる北朝鮮脅威論が沈潜している世論を変えることは出来なかったのでしょう。 当時のわが国では、ピョンヤン宣言を受け容れられるだけの政治的条件が熟しておらず、政治的早産であったと思います。
  私はピョンヤン宣言の全文を新聞で読み、その内容は高く評価すべきであることを主張しましたが (自由法曹団通信1070号 2002年10月1日 「日朝首脳会談と有事立法問題」 参照)、 次のように述べたのです。

、 「私は十分評価に値すると考えている。10年以上にわたる国交正常化交渉で乗り切れなかった問題をここで解決し又はその道筋をつけたからである。 それだけではない。拉致問題、不審船問題の再発防止を約束し、日朝間の安全保障問題の協議を立ち上げ、北東アジアの信頼醸成枠組みを展望し、 これまで北朝鮮が拒否してきた日本を含む北東アジア6カ国協議にも金総書記は 『参加の用意がある』 と発言している。 また宣言4項で、『核・ミサイル問題を含む安全保障上の問題について関係諸国間の対話を促進し』 と米朝高官協議にまでふれているのである。」
  「平壌宣言は、日朝二国間だけではなく北東アジア、さらにはグローバルな安全保障問題に両国が互いに取り組むことを宣言しているのである。 今後日朝間では国交正常化交渉と二国間安全保障協議が車の両輪となって関係改善に進む道筋がつけられた。 我が国は、平壌宣言により二国間だけでなく、北東アジア、米朝関係の平和的進展に政治的責任を負うことを公約したことになる。」

、 「グローバルな安全保障問題」 とはいささか筆が滑った感がありますが、今読み返しても、 ピョンヤン宣言を読んでわずか数日の間に原稿を書いた時の高揚した気持ちが思い出されます。 その年の12月、ある民主的法律家団体の総会で、私はピョンヤン宣言を評価すべきであること、 北朝鮮問題について日本外交が対米従属から自主的な歩みを一歩しるしたという趣旨の発言をしたところ、私の発言は支持を受けなかったのです。

、 なぜ2002年9月、日朝首脳会談が開かれ、ピョンヤン宣言が締結されたのでしょうか。それは当時の米朝関係、南北関係、日朝関係が反映しています。 簡単にいえば、米朝関係は最悪の状態になりつつあり、南北関係は良好な関係になりつつある中で、北朝鮮が自らの体制保障のため、 南北関係と日朝関係改善に大きく踏み出したからといえます。

、 米朝関係は、クリントン政権時代の末期には米朝首脳会談と米朝国交正常化の寸前まで改善されながら、ブッシュ政権となって、その成果をすべて否定されます。 ブッシュ大統領は個人的にも金正日をひどく嫌悪していました。金正日を 「ピグミー」 「独裁者」 などと述べ、嫌悪感を隠そうとしなかったようです。 2002年1月ブッシュ大統領は議会での年頭教書演説で、北朝鮮をイラン・イラクと並んで 「悪の枢軸」 とこきおろしたのです。 ジュネーブ合意も軽水炉建設の約束も破棄しようとしました。2002年1月策定されたブッシュ政権の核戦略 「核態勢見直し(NPR)」 の中で、 北朝鮮との紛争を核兵器先制使用する喫緊の紛争と位置づけました。 2002年9月にはブッシュドクトリン(単独行動主義と先制攻撃戦略)として悪名をはせた国家安全保障戦略を策定します。このころにはイラク攻撃を決意していました。

、 2000年6月、歴史的な南北首脳会談が開かれました。クリントン政権末期の米朝関係改善の流れを受けたものです。 2002年4月に金大中大統領の特使として林東源が訪朝し、金大中大統領の親書を届けます。 その中で、米国の世界戦略は根底から変わったこと、米国は核拡散を防ぐために軍事力行使の決意を固めており、 北朝鮮も含まれることを伝えます(「北朝鮮とアメリカ 確執の半世紀」 ブルース・カミングス著より)。 金正日はこれを受けて、対米安全保障のため、わが国との国交正常化に動いたのでしょう。

10、 ピョンヤン宣言は、それまでの日朝国交正常化交渉で協議された諸問題を、早期国交回復という目的のもとに、包括的に解決することを合意したものでした。
  日朝国交正常化交渉は、91年1月第1回本会談から92年11月第8回本会談まで数ヶ月間隔で継続されて中断し、 2000年4月第9回本会談から同年10月第11回本会談まで継続されて中断し、2002年9月日朝首脳会談でピョンヤン宣言に合意しました。 日朝国交正常化交渉の開始と中断の時期を見れば、米朝関係や北東アジアの国際関係が反映していることが分かります。 日朝国交正常化交渉に先立つ90年9月自民・社会党訪朝団(いわゆる金丸訪朝団)が、正常化交渉の呼び水となりますが、 北朝鮮は米・韓関係の改善に動き出した時期です。第8回本会談までは、核開発問題を巡る米朝高官協議が進展していました。 南北基本合意書や朝鮮半島非核化共同宣言が合意されたのもこの時期です。米国が米韓合同軍事演習 「チーム・スピリッツ」 を中止し、 それに応えて北朝鮮がIAEAと保障措置協定を批准します(92年4月)。 IAEAによる査察の結果、IAEAが核廃棄物処理施設の疑いのある施設への特別査察を要求し、北朝鮮が拒否したことから、米朝関係が険悪となり、 北朝鮮に対する国際社会の圧力が強まり、北朝鮮はNPT脱退宣言を行います(93年3月)。これ以降、米朝関係は戦争の危機をはらんできます。
  その後94年10月ジュネーブ合意により米朝関係が改善され、99年にはペリー・プロセスが発表され、米国の北朝鮮政策が大きく転換して、 国交正常化を目指した歩みが進展します。そのような中で日朝国交正常化交渉が再開しますが、 2001年1月発足したブッシュ政権の北朝鮮強硬政策(強行関与政策と称されています)により、米朝関係が一気に悪化し、日朝国交正常化交渉も中断します。 ピョンヤン宣言直後の2002年10月再会された第12回本会談は、同年10月の米朝高官協議での高濃縮ウラン問題から米朝関係が一気に険悪となり(第二次核危機)、 拉致問題を巡る対立も絡んで再び中断します。

  日朝国交正常化交渉で話し合われた議題は、
  歴史問題(植民地支配への謝罪と補償)、文化財の返還、在日朝鮮人の地位、拉致問題、ミサイル問題、「よど号」犯引渡問題、工作船、麻薬密輸問題などです。
  ピョンヤン宣言はこれらの諸問題を包括的に含む内容となっています。 日朝首脳会談を準備した日朝局長級協議(2002年8月、日本からは外務省田中均アジア大洋州局長)で発表された共同発表文の中で、 「過去の清算に関する問題を含む国交正常化に関する諸問題並びに人道上の問題を含む諸懸案……を解決していくために、 政治的意思を持って取り組むことが重要であることにつき認識の一致を見た。」 と述べています。 「政治的意思を持って取り組む」 とは、それまでの日朝国交正常化交渉や日朝赤十字会談が個別の問題(例えば李恩恵問題)で協議が決裂して中断したように、 実務者レベルの議論では、はかばかしい進展が見られないことから、国交正常化という最重要な課題の解決を目指して、 諸問題を包括的に可決するという両国首脳の強い意志を確認したということです。

11、 ピョンヤン宣言での拉致問題の位置づけは、日朝国交正常化までに解決すべき諸問題の一つです(宣言1項)。 すなわち、国交正常化交渉の入り口問題ではないという意味です。拉致問題未解決を理由として国交正常化交渉には応じないという姿勢は、 ピョンヤン宣言への重大な違反です。拉致問題をこのような位置づけにした理由は極めて合理的です。 なぜなら、国交正常化実現は日本の安全保障政策の基本となる問題ですが、拉致問題解決は、北朝鮮により過去に行われた国家犯罪による原状回復、 賠償請求の問題ではありますが、決して日本の安全保障政策を左右する問題ではないからです。 拉致問題を日本の北朝鮮政策の基本において、拉致問題が解決されない限り国交正常化交渉を行わないとか、 拉致問題の解決のため圧力を掛けるというこれまでのわが国の北朝鮮政策は、 言い換えれば、わが国や私たちの安全を拉致問題解決のためのカードに使うことです。 もっと言えば、拉致問題がこじれ日朝関係が緊張した場合、私たちの安全が脅かされたとしても、拉致問題解決を優先させるという政策でもあります。 しかし、拉致問題はこのようなレベルの問題ではありません。

12、 ピョンヤン宣言では、わが国からの本格的な経済支援は国交正常化の後に行われるとしています。 この点も、六者協議でそれぞれの段階に応じた経済支援を行う方式をとったことと比べても、賢明であったと思います。

13、 ところが、拉致問題に対するマスコミの北朝鮮非難キャンペーンと、国民世論の圧力から、 日本政府は拉致問題解決を国交正常化交渉の入り口問題にしてしまいました。これはピョンヤン宣言に対する重大な背信です。
  特に、横田めぐみさんの遺骨がDNA艦艇で偽物だとした直後の2004年12月頃の世論調査では、70%を越える国民が北朝鮮に対する制裁に賛成しました。 これで完全にピョンヤン宣言に基づく日朝関係改善の期待は消し飛んでしまったと思います。

14、 しかし、ピョンヤン宣言は日朝双方とも破棄していませんし、歴史的文書でもなく、現在も生きています。 私は今こそピョンヤン宣言に立ち返り、日朝国交正常化を促進すべきと考えています。 その理由は、これまで述べてきたことに加えて、ピョンヤン宣言が日朝を含む北東アジアでの協調的関係の構築を目指しているからです。 宣言第4項で 「双方は、北東アジア地域の平和と安全を維持、強化するため、互いに協力していくことを確認した。 双方は、この地域の関係各国の間に、相互の信頼に基づく協力関係が構築されることの重要性を確認するとともに、 この地域の関係国間の関係が正常化されるにつれ、地域の信頼醸成を計るための枠組みを整備してゆくことが重要であるとの認識を一にした。 双方は、朝鮮半島の核問題の包括的解決のため、関連するすべての国際的合意を遵守することを確認した。 また、双方は、核問題及びミサイル問題を含む安全保障上の問題に関し、関係諸国間の対話を促進し、問題解決を図ることの必要性を確認した。」 と述べ、 北朝鮮は2003年以降もミサイル発射のモラトリアムを続けることを約束しました。

15、 日朝首脳会談で日本から六者協議を提案し、金正日はこれに賛成したのです。その結果、2003年8月の六者協議となりました。 ピョンヤン宣言第4項の趣旨は、2005年9月共同声明第4項 「6カ国は、北東アジア地域の永続的な平和と安定のための共同の努力を約束する。 …6カ国は、北東アジア地域における安全保障面の協力を促進するための方策について探求していくことで合意した。」 や、 2007年2月合意文書5項 「初期段階の措置が実施された後、…北東アジア地域における安全保障面での協力を促進するための方策及び手段を探求するため、 速やかに閣僚会議を開催する。」、第6項 「6者は…北東アジア地域の永続的な平和と安定のための共同の努力を行う。」 に盛り込まれたのです。

16、 これに加え、前回の 「北朝鮮による核開発をどのようにして止めさせるのか」 で述べたように、核兵器を巡る国際情勢が、 北朝鮮の核開発問題解決に向けた有利な条件となりうる中で、わが国がよい意味でも悪い意味でも鍵を握っていることを私たちは理解しておかなければなりません。 それは、日本の安全保障政策の基本とされ続けてきた「核の傘」政策に関することです。

17、 麻生政権時代、日本はオバマ政権の核政策見直し(核態勢見直し)に対して、米国の核軍縮政策へ懸念を表明し、 ある種の戦術核兵器を保有する(あるいは退役させない)よう要請し、日本のこのような要請を理由にして、米国内の核固執勢力が、 オバマ政権の核軍縮政策に圧力を掛けているのです。 わが国の 「核の傘」 政策を改めさせることは、私たちの固有の責任ですが、まさに現在この点が大きな焦点となっています。 さらに非核三原則に関わる密約文書調査に関わり、非核三原則を二原則にしようとの動きもあります。
  わが国が 「核の傘」 政策を改め、これに代わる安全保障政策として、北東アジア非核地帯を目指すなら、北東アジア地域の安全保障環境は大きく変わり、 北朝鮮核開発問題は大きく進展する可能性が出てきます。

18、 ピョンヤン宣言では、日朝国交正常化の後、わが国から北朝鮮に対して経済援助を行うことを約束しています。 その額は1兆円とも1.5兆円とも言われています。6者協議で合意された100万トンの重油相当の援助と比較しても、北朝鮮にとっては極めて大きな額になります。 日本政府がピョンヤン宣言に基づき日朝国交正常化を図る立場に立てば、6者協議で日本政府は大きなイニシャチブを発揮できます。 拉致問題を正常化交渉の入り口問題にしたため、拉致問題が解決のためと北朝鮮に対する圧力をかけ続け、 6者協議では本来場違いな拉致問題を重要な議題にしようとしたり、6者協議で合意された重油支援を、わが国だけが履行しないと表明するなど、 日本政府は六者協議の足を引っ張ってきました。
  6者協議の共同声明や合意文書で、わが国を含む6カ国は、北朝鮮核開発問題を解決する上で、 ピョンヤン宣言に基づいた日朝国交正常化が重要であると合意しているのです。 日本政府がこれを実行すれば、中断している6者協議の再開させ、北朝鮮核開発問題を含む諸問題の解決を促進させる重要な役割を果たすことが出来るでしょう。

19、 今こそピョンヤン宣言に息を吹き込み、北朝鮮との国交正常化を目指すプロセスを開始すべき時です。