憲法9条と日本の安全を考える
日本の核政策
私たちは、日本の核政策は 「非核三原則」 が国是であり、原子力基本法で平和利用原則を定め、核不拡散条約、部分的核実験禁止条約、
包括的核実験禁止条約を締結し、国際原子力機関 ( IAEA) の査察を受け入れて、IAEAの優等生を自他ともに認めていることなどから、
日本が核武装するなど夢にも思わないし、いざとなっても米国の核兵器を持ちこませないと信じて疑わないのではないでしょうか。
ところが、実際には日本の核政策は極めて危ういものなのです。核兵器持ち込みの密約に関する外務省有識者委員会の報告書が先般公表されましたが、
一部密約ではないと評価していることの問題性があるものの、非核三原則は一貫して破られてきたことが明らかとなりました。
米国の憂慮する科学者同盟が、「日本とアメリカの核態勢」 という論文を先日ホームページ
(注1)
で公表し、日本の新聞もこれを取り上げていました。
この報告書のもととなった日本の資料も併せて公表されており、日本政府が過去に、核武装の選択肢を真剣に検討したことをうかがわせます。
日本が唯一の被爆国であり、ビキニ水爆実験で犠牲者を出し、核兵器に対する拒否的意見が強いといっても、
日本政府の核政策は私たちが思っている以上に危ういものなのです。5月には核不拡散条約再検討会議が開かれます。
オバマ政権の核軍縮へのイニシャチブに期待が集まっています。昨年9月には核軍縮・不拡散に関する歴史上はじめての安保理首脳会議が開かれ、
1887号決議が採択されました。このような背景の中で、私たちはもう一度日本の核政策を振り返り、
核兵器廃絶へ向けた日本政府のイニシャチブを求めてゆかなければならないと思います。
まず政府の9条解釈ですが、一貫して純粋の防御目的のものであれば核兵器を保有することは9条に違反しないというものです。
次に非核三原則ですが、佐藤首相が国会で表明し、国会が議決したことから国是とされています。
ところが、佐藤首相は非核三原則を表明した約1カ月後の国会で、「核四政策」 を表明しました。
これは、非核三原則に加え、実効的な核軍縮の努力、米国の核抑止力へ依存、平和利用に努めるというものです。明らかに非核三原則の意義を低めるものです。
佐藤首相は、非核三原則を表明しながら、他方で、沖縄施政権返還交渉で、有事に核兵器を沖縄へ配備すること、
そのためのインフラを沖縄に残すことを容認する密約を締結した張本人です。
そればかりか、核武装の選択肢について、極秘に専門家チームへ研究させたのです。
佐藤首相自身が研究へどこまで直接かかわっていたかは不明ですが、報告書の内容は佐藤首相も承知していたようです。
この秘密研究は、内閣調査室が1967年蝋山道雄氏、永井陽之助氏など国際政治学者や科学者10数名へ委託しました。
1ヶ月1回の定例研究会は、内閣調査室の名前も出さないよう秘密保持に心を砕いたといいます。
1968年9月 「日本の核政策に関する基礎的研究」 その1、1970年1月 「日本の核政策に関する基礎的研究」 その2としてまとめられました。
憂慮する科学者同盟の論文が引用している文献の一つが、この 「基礎的研究」 です。
これまで政府が核武装の選択肢に関して研究した文書では、私の手元には、「我が国の外交政策大綱」 (外務省1969年4月)、
「核装備について」 (防衛庁防衛研究所1981年7月)、「大量破壊兵器の拡散問題について」 (防衛庁内部の有志研究1995年5月
憂慮する科学者同盟論文が引用するもう一つのものです) がありましたが、「基礎的研究」 はまったく知りませんでした。
憂慮する科学者同盟のホームページからダウンロードした文書は、現物のコピーですが、表紙に 「朝穂蔵書」 の印が押してありましたので、
まさかとは思いつつ、水島朝穂教授へ問い合わせました。その結果、水島教授が持っている原本のコピーであることが判明し、
水島教授も知らない間にコピーが憂慮する科学者会議へ提供された可能性があることがわかりました。
水島教授は、ご自身のホームページ上で 「直言」 という論評を連載していますが、その中で 「基礎的研究」 をとりあげたことがあり、写真もつけています。
(注2)
これらの研究は、歴史的に日本の核政策が大きく転換する時期に行われていることが分かります。
「基礎的研究」 や 「外交政策大綱」 は、非核三原則が形成される途上で、且つ核不拡散条約に加盟するかしないか論争がなされていた時期です。
「大量破壊兵器の拡散問題について」 は、冷戦終結後で且つ核不拡散条約が無期限延長された直後のことです。
これらの核武装選択肢の可否に関する研究の結論は、一定の条件があれば日本は独自の核武装が可能だが、
軍事戦略や安全保障政策上得策ではないというものです。「我が国の外交政策大綱」 では、
「核兵器製造の経済的・技術的ポテンシャルは常に保持するとともにこれに対する掣肘を受けないよう配慮する。」 と述べています。
「大綱」 は安全保障政策として、有事駐留を色濃く打ち出していますので、核武装選択肢を残すという意味も、その文脈で見る必要はあるでしょう。
日本政府が核不拡散条約を調印し批准するまでの間、反対論や核武装論が持ち上がりました。核不拡散条約は1968年7月に署名のため解放され、
1970年3月に発効した条約です。日本政府は条約発効の直前の1970年2月に署名したのですが、批准まで年月がかかり、1976年に批准しました。
それは、日本の核武装の可能性を閉ざすことや、条約の不平等性など、ナショナリズムを背景にした反対論が、与党や野党を問わず存在したからです。
このように日本では、中国やロシアといった核兵器国に囲まれ、安全保障政策として、
あるいは大国のパワーの象徴としての核兵器への信奉が強かったといえるではないでしょうか。
そのため現在でも、有力政治家から核武装論や核武装の選択肢を議論すべきだという主張がなされることがあります。
むろん多くの国民にある核兵器に対する拒絶感情や反核意識は、他の先進国と比較して大変強いものがあり、しかもこれには一貫して変化はありません。
政治家、軍人、官僚など安全保障政策に関わる人たちの間に根強くある核兵器信奉と、国民の反核意識のせめぎ合いの中で、核密約が形成されたといえるでしょう。
外務省有識者委員会の調査により、不十分ながら密約の一部が明らかとなりました。
その根源には、日本の安全保障政策として、安保条約による米国の核抑止力に依存する政策があります。
日本政府が核抑止力依存政策をとり続けられる理由の一端には、私たち国民のかなりの部分が核抑止力依存政策を受け容れていることが挙げられます。
私たちはそろそろ、この問題について明確に決着を付けなければならない時期に来ているのではないでしょうか。
日本の安全のため、米国の核抑止力に依存するということは、別の言い方に置き換えれば、万一日本の安全が脅かされたときには、
敵国に対する核攻撃を米国に要求するという政策です。
米国が同盟国の安全のため核抑止力を維持するということは、日本を守るための核攻撃の標的をリストアップし、
そのための核兵器をいつでも使用できる状態におく (これを即応態勢といいます) ということです。
北東アジアでは、中華人民共和国の樹立や朝鮮戦争以来、60年間にわたり、互いの根強い不信と脅威が再生産され、
冷戦崩壊後も地域の分断と対立の図式は続いています。
このような中で、中国や北朝鮮の脅威に対抗して、米国の核抑止力に依存する政策をとり続けることになれば、これからも分断と対立、
そこから生まれる脅威論のため、平和な北東アジアの国際関係は作れません。
9条改憲論も克服できません。脅威とそれに対抗する軍事的抑止論の中心に核兵器があります。
私たちが核抑止力依存政策からきっぱりと決別することが出来れば、日本を含む周辺諸国の安全は格段に高まるでしょう。
これが9条の恒久平和主義が要求する政策です。日本がイニシャチブをとって、北東アジアにおける核兵器の脅威をなくし、
平和な国際関係を作り上げる上で、9条の恒久平和主義はとても重要な手段なのです。
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