2010.2.18

エッセイ風ドキュメント 新しい日本の“かたち”を求めて

ノンフィクション作家 石井清司
目次 プロフィール

−去勢された日本人、おとなから子どもまで−

  天皇の日本全国民へのかの敗国の8月15日のラジオ放送に、天皇に忠実なる日本の殆どの国民たちが、よよと泣き伏し、 敗国を心から哀しむとともに敵米英に勝てなかったことを、天皇にお詫び申し上げたき方々ばかり。 その場所は、東京有楽町に近い皇居二重橋前広場だけでなく、神々(こうごう)しき御所(みところ)は全国いろいろなところに在ったが、 天皇在所の皇居に準ずるともいえる御所は、今の武道館に近い九段の靖国神社だった。 天皇のために戦場で命を散らした英霊柱(はしら)が建立(こんりゅう)されている聖なる場である。

  その場に正座し平伏して天皇に詫び拝み泣き伏す光景は、皇居前のそれといずくもおなじで、ただただ両手を玉砂利に押し当て、 その上に額(ひたい)を伏し当て拝み身をふるわせて泣き伏す。ある人は坐らず不動の直立姿勢で両掌を顔面に合わせ頭を垂れ天皇に向け伏し拝む。 または正坐の形のまま右腕を両眼に当てて泣く男たちも。 天皇をお悩ませ申し上げたことをお詫びし、敗国を心底から哀しむ以上に、ただただ天皇に拝し捧(たてま)つっているのである。

  こうさせるまで、全(まった)きかたちで殆どの国民の心を掌握した帝王は世界でも大日本帝国と三国同盟を結んだ国の総統、 ナチスドイツのヒトラーほか数少ないのではないだろうか。

  天皇御自らのラジオ放送について、その8月15日の新聞 「讀賣報知」 は、トップ面で、 正午からの天皇のNHKラジオ放送を 「御親ら御放送けふ(今日)正午」 と予告している。そしてその放送内容をあらかじめ知らしめるごとく、 同紙面の解説大タイトルとして 「帝國政府 四國(石井注・連合國米英露華)共同宣言(同注・無条件降伏を促すポツダム宣言)を受諾 萬世の為に太平を開かむ」 と銘打った。この大タイトルの意は、「わが大日本帝国は本日敗国したのではなく、萬(よろず)世のために(同注・連合国からの強請を受諾し、 わが君天皇は世界に、自らのお力で)太平を開こうとなさる」 の意である。わが大君(おおきみ・天皇)のご意志により世界を平和に導くのである、と。 何とも名文、無条件降伏という完全な敗国を巧みに取りつくろい、これまで国民が心服した天皇の大権威をポツダム宣言の受諾によってもわずかなりとも揺るがせにせず、 激しく煽る新聞表示だった。しかし、この時の大日本帝国の天皇へのこの深い全国民総力によるご配慮・ごいつくしみこそがその後の日本、 今及び今後の日本の方向を定める根幹となったといっていいだろう。 そしてその日の同紙の大タイトルの副題にこうある。「(同注:神の国たる大日本帝国は今なお)神州不滅」 であること。 ことここ、連合国への無条件降伏に至ってなお、大日本帝国は敗れておらず、「(神の国)神州」 として皇国としての大帝国は不滅、かつ微動だにせずだ、と。

  この大新聞マスコミの国民への大煽動は、他民族を含め自国民などの膨大数の生命を奪い、またその生活・幸福を根底から破壊しつくしたその時にしてなお、 その重大な責任や国際人としての反省などみじんも無く、 それどころか逆に天皇の太平を希う御心(みこころ)こそ 「畏(おそれおお)く」 天皇はむしろ 「敵の残虐・(同胞)民族の滅亡」 を深くご懸念なされておられる、と、 更になお副タイトルを付けている。同日同紙面で 「敵(英米)の残虐」 を声高に掲げてみせたが、日本軍の 「残虐」 など考えが及ばぬはもとより、 アジアの占領地民に対しては、天皇は 「アジア平和への志しによる御慈(おんいつく)しみ心あるのみ」 と、 同紙面は日本国民への民心欺瞞(みんしんぎまん)の語調を強めさえしていた。

  この8月15日の同新聞紙面は、天皇の御(み)心により 「戦争終局へ(天皇)聖断・(この日天皇自ら)大詔渙發す」 と、敗北色も敗国の語調も片言もなく、 強弁につぐ強弁のものだった。いや、おとな達は本気でそう思っていたに違いない。

  「(大日本帝国は)神州不滅」 の語を少年の頃から学校、町内会、家庭で心の奥底まで叩き込まれたわが子どもたちには、 この 「神州」 の 「全滅」 をわずかなりとも想像する感性は壊滅させられていた。 ただただ 「日本は “神の国”」 「世界の中心の国」 「常に “神風” (かみかぜ)が吹いてきて敵艦を全滅させる」 としか考えつかせぬよう教育されていた。 町のひとりひとりが長い布(ぬの)に糸と針で小さな “結び目” をつくって 「千人針(せんにんばり)」 の布とし、 それを軍人が腹に巻けば敵弾の方がはずれてくれるのだ、と。「“神風” と赤い字で画かれた布を額に巻いた鉢巻きは、航空機戦で敵弾をはずしてくれる、と。

  迷信、呪術づくしで教育された子どもたちには、この昭和20年(1945年)の天皇のラジオ放送では、 ただラジオ拡声機の前でうなだれるおとなたちの姿がきょとんと眼に入るばかりだった。 そのとき、自分たちは国に “だまされたのでは?” など考えつく力も感性も子どもたちははぎ取られ、このときすでに持ち合わせるはずもなかった。

  のちに知ったことだが、東京ではこの8月15日の前日、敵機来襲の空撃警報のサイレンが町に鳴り響き、町内会役員メガホンで駆けながら叫びつづけていたという。

  まだ少年の私が東京の大森で空襲にやられる前のこと、敵機来襲のサイレンを聞くや、わが少年はおとなに隠れてすぐにその上空を見上げることを知っていた。 キラッ、キラッと遙か天空のわずかな一点一点が陽光に反射して敵機群がゆっくりその天空を移行していくことを実感する冒険に励んだ。 10機、20機いやもっと。その行き去った敵機の軌跡か、あるいは移動飛行中か、1条、2条、切れつ続きつ陽光下の真っ青の天空にくっきり示され、 その飛行機雲(ぐも)を遺していくことを。宇宙のようなそれははるかに高い上空だったが、 スーッと糸を引くような白雲の発生とひきづりを 「あそこに敵機のいるのがボクにはわかる」 と。 近海上の空母艦からの艦載機は同天空でも中空を通過するが、大型爆撃機B29はその空の上の更に上、1万メートルもあったか。耳知識でそれを知った。 以前は日本軍の高射砲がそれらに向ってまれに撃ち上げられ、敵機に少しも届かぬ蒼い中空に小さな高射砲弾の空(むな)しい破裂雲を見ることができたが、 遙か上空の敵機群にはとても当たりもしない。敵機群は、それを眼下に悠然と移行していってしまう。そんなやられ放だいの東京だった。 が、のちに知った話では、東京のこの8月14日の早朝のそれはB29がわずか1機だけで大量のビラを東京上空に撒き落としていったと口から口へ伝えられていたという。 ビラには日本語が書かれてあり、「天皇陛下は平和を御希望している」 とかいろいろだったらしい。 そんなビラに触れたのを知れただけでも憲兵に捕まるからと、おとなたちはみなヒソヒソ声だったという。 以前、空から撒かれた錫(すず)片を拾ったが、電波妨害用に撒かれたとかで触れた指に毒がまわるのがこわかった。

  その8月14日の夜9時の 「JOAK」(NHKラジオ)のニュースであした(8月15日)の正午に重大ニュースがあることが伝えられ、お互いにそれが何なのか、 もしかしていよいよこの戦争について何かたいへんなことが伝えられるのではと、新聞社や放送局の知り合いのつてを頼って聞いて歩いたおとなもいたらしい。 しかし、「何があっても日本のために働きつづけるのだ」 とある少女は日記に書いている。 その14日の夜も東京では警報が鳴り響き、当の翌8月15日の午前5時すぎにも敵機来襲の警報があったという。 当日の朝のラジオニュースからも正午からの重大ニュースのことが伝えられていた。 「陛下おんみずから事態を解決される。陛下のお心を思い、涙が出る」(前出ある少女の日記)。 が、ここにいたってなおどの人の心にも、“天皇のお心を思うばかり” でこの戦争の悲惨、被害に憤(いきどお)る “怒り” は生まれてこない。 そんな自分を不思議がる力(ちから)さえ失われ、忘れさせられてしまっていた。