2010.4.15

エッセイ風ドキュメント 新しい日本の“かたち”を求めて

ノンフィクション作家 石井清司
目次 プロフィール

「児童に何を教えたか−教師たちの8月15日」

  昭和20年8月15日、連合国への日本からの 「ポツダム宣言(無条件降伏)」 (受諾の通告は、実質前日の8月14日)は、 日本の民主国家への第一歩(ながかった帝国主義、軍国主義廃棄の第一日)として、永遠に記念(記憶)し毎年その日に民主主義への心を新たにし、 わずかでも帝国、軍国、全体主義色の復活を油断せずに心する日として 「国民再生(ルネサンス)の日」 と定めるべき重要な日なのであった。 しかし、国と国民のその心掛けの薄さが、ついに今日的社会と国のかたちを招(よ)んでしまった。 敗国の1945年8月15日、日本は連合国に頭を垂れたふりをしながら、内心 「明治維新以来の富国強兵」、「富裕企業家層優遇」 の一路を反省しようとは思わなかった。 ウラでペロリと舌を出し、連合国の眼をうまくはぐらかしおおせ、日本古来からの 「悪い何か」 の温存の賭けに成功したのである。

  8月15日を 「国民の日」(「新たな決意の日)」 としてつよい決意をもって 「祝日」 に設定すべきだった。 今の社会、国家のありさまを見れば、これもあとの祭りになった。毎年、この日が来るごとに、天皇を祭り上げた大げさな儀式などではない、 自らを 「哲学する日」 として立ちどまり、メディテイション(めい想)しなければならなかったのに、自らその日を定める能力をこの国の民は持たず、 国政を為政する人たちにもそのことを発想し、真に 「民主的な集い」 を主催する力量はなかった。 しかし、今となっては、個々の心が自分でそれを営むしかない。歴史は日々過去となり、世相も国政も激変してきたが、 この 「8月15日」 の定点意義の厳しさは今なお不動だ。

  米国との “沖縄核密約” の存在は今ごろやっと露(あら)わになった。それを約し、ずっとぬけぬけと隠れてつづけてきた為政者たちが営んできたこの国である。 侵略されたアジアの国々の人々にとっては、8月15日は怒りの 「歴史の日」 である。 日中の歴史認識、研究を両国研究者がまとめ、共同レポートとして2010年初頭にやっと表に出したが、 何と 「現代」 には触れきれず日中共同理解は浅いものに終わってしまった。「8月15日」 検証についてはやっと端著に付いたところ、いやまだまだというところだ。

  NHKテレビが 「朝鮮との二千年」 ほか、第二次大戦に拘りねばっている。民放テレビ局も散発的なねばりをみせているが、これらもまだまだ端著の域内にあり、 これからだろう。

  ひとりひとりが 「8月15日」 をあの日どう迎えたか、これからどう向き合っていくか。 社会や国政のなかのファシズム、言論・表現への抑圧、介入は今も日々つづいている。 「8月15日」 という日はこれからの日本のながいマラソンレースのスタートラインだ。 そういうキリのないエンドレスレースを日本は背負っているのだという自覚のもとにこの 「8月15日」 という日の “リアリティ” をこれからもわれわれはどう感じとっていくか。

  亜大陸・太平洋戦争と二人三脚で、これからの未来ある学童たちの心を軍国少年へと煽ったのは、内閣情報局下の新聞、 ラジオの大マスコミと、子どもたちを手中に持った教師たちだった。無条件降伏の8月15日の直前、 4月からの新学期にまだ戦争の色に染まり切っていない学童たちを教室に迎え、軍国の色を子どもたちの心のなかに毎日毎日丹念に塗りこんで行った彼ら。 学童たちに折々人間の心も培わさせてはいたが、「敵米英憎し」 「鬼畜米英」、ニミッツ(海軍提督)、マッカーサー(陸軍総司令官)の鼻を異様に高くゆがませ、 奇態を漫画に描いて、児童の増悪心を煽る教育をほどこした教師たち。それが戦争下の教師の役目とはいえ、国の軍国主義の共犯者だった。

  8月15日正午、これら教師たちも 「聖上陛下」 のNHKラジオ録音放送を謹聴した。 これら教師たちは、7月26日に連合国側が日本の無条件降伏を促す 「ポツダム宣言」 を通告し、ソ連の突然の対日宣戦布告をすでにこの時知っている。 大ソ連軍が中国国境を越え、東北部(日本の植民地 「旧満州」)へ乱入したことは教師たちには想像がついた。 国の宣伝で 「満蒙(満州、蒙古)開拓民間団」 がその地に在り、ソ連軍のじゅうりんを受けたことも教師には想像がつく。
  そしてそれらのことを学童に教え、勇気を持つよう指導してきた。「ポツダム宣言」 は米、英、支(当時日本は中国を “支那” と蔑称した)、 のちに蘇(ソ連)が加わり4カ国共同宣言となった。連合国側のその無条件降伏の条件には、「天皇の日本統治の大権」、即ち 「国体護持」 が含まれていると、 8月15日の天皇のラジオ放送から教師たちは理解した。その意味では、無条件ではなくこの 「条件付き」 の降伏だと理解しようとし、 「天皇の地位は保全された」 とホッとした。しかし、天皇は連合国の最終回答で総司令官に従属するもの、とされていた。 天皇はこのラジオ放送で 「国が焦土と化しこれ以上戦火が拡大するよりも」 と 「ポツダム宣言」 を受諾したと述べた。 畏(おそ)れ多きことだが、指導者の教師たちには天皇の哀しみが分かった。この日の午後からは学校は授業は中止だ。 しかし、教師たちは児童たちに 「自暴自棄になって自滅するな」 としか言えない。それは教師自身自分に対してのことばだった。 阿南陸軍大臣は、天皇を補(たす)けることができず、と責任を表明して自決した。

  学校の校長は、正午、ラジオの前に行く前に全身を洗い浄(きよ)め、国民服とネクタイに “正装” し、両手に両陛下(ご夫妻)の写真を捧げ持ち、 家族及び町内会もいっしょにラジオの前に正列した。桓武初代天皇より今まで日本は天皇統治で貫かれてきたと軍も国も定め、 以来今年は 「皇紀2005年目」 としていた。日本大帝国では天皇の治世が、この日まで断えることなく 「2605年」 つづいた、とされて来て、 国民は定められたその 「歴史」 を疑おうともせず、また、疑うことも許されなかった。 日本はそれほどの天皇ご一統の国だから、天皇は畏(おそ)れ多い 「聖上」 なのであると。校長も教師もそう児童に教え、自分たちもそう信じた。 歴史上、天皇一統2605年などとそんな事実があろう筈がないことは、今日疑う者もいないが、戦中、そう信じることが常識であり国民の義務だった。

  天皇の5分ほどのラジオ放送のあと、NHKは細かくその 「説明放送」 を行い、これで聴取者は日本の無条件降伏とその意味を分かり、 そこで初めて脳を打たれがく然となった。教師たちはすぐには次へは進めず、心を失うまい、再起を誓おう、 最後は “勝ち” を手にするのだと自らを励まし児童の前で崩れまいとした。「もうダメだ」 とだけは口にせぬように。 しかし次第にながい勝利の歴史のつづいたわが大和(やまと)の国として降伏は恥ずかしい、情けない、くやしいの心情が湧き上がってきた。 笑って忍ぼう、死んだつもりでがんばろう、盛り返そう…と児童へ向けたことばも上すべる。
  その夜は、燈火管制用に電燈に黒い布を巻いて灯りを洩らさぬようにしたままの暗い家、それをとりはずして久しぶりに明るい部屋にした家、さまざまだった。 敵機がまいていった戦争終結を知らす目の前のビラも今夜は虚しい。食べるものもなく、教科書の不足した児童を前に耐えてきた。 しかし、日本がこの戦争でまちがいなく勝つはずだっただけに虚しい。憎い敵に20年かけてもどう復讐していったらいいか。 ナチス・ドイツが無惨にも降伏した姿をすでに教師たちは知っていただけに、1日も早くと米英との和したその意味もまたわかった。 「勝つまではがんばるんだぞ」 と児童を毎日励ましてきた自分、ではこれから教師として児童をどう教育していったらいいのか、 日本を滅ぼさないためには…、心は千々(ちぢ)に乱れた。天皇の大御心(おおみこころ)、そして天皇に率いられる 「国体」 は護れた。 大和民族は必ずいつか米英を撃滅してみせる。天皇のこの日の大詔は恵みだと児童に話して聞かせしっかり憶えさせた。 「教育勅語」 を忘れるな、と。陸軍大臣阿南大将自刃の辞世 「大君のふかき恵みにあみし身は、言い遺すべきことの葉もなし」。日本は癒しようもなく病んでいた。