2010.9.23

エッセイ風ドキュメント 新しい日本の“かたち”を求めて

ノンフィクション作家 石井清司
目次 プロフィール

鈍気―日本人が平気で日本人を虐殺できたファシストの時代

  日本戦争指導層が、一九四五年夏に連合国軍に無条件降伏を決断して国民を救出するまでには、驚くべきながい時間が不決断と優柔不断、 身勝手な議論に費やされている。降伏を結論し、やっとあの八月十五日正午の天皇のラジオ玉音放送に踏み切るまで、 この日本の戦争指導層の往生ぎわの悪さは情ないほど子どもじみていた。 すでにその頃の日本側は、戦争の完全敗北をこえていたどころか、民族及び国そのものの壊滅状態以下までに至っていた。 にもかかわらず、日本の戦争指導層はまだ連合国側に降伏を無条件ではなく条件付きで済まさせようと、執拗にねばろうとしてその分時間を空費させていた。 自分たちの最悪の状況すら正確に見る力が無く、我と欲と身のほど知らずと身勝手な甘えと小ずるさとゴチャマゼだった。 とりとめなく天皇のまわりをウロウロ動きまわっていただけだった。

  大平洋上のマリアナ島を占領した連合軍が、同島から日本本土を直接空爆可能にして以来、日本本土は猛火空襲下にさらされていた。 更にサイパン島にも滑走路は建設された。無条件降伏のすでに一年前の一九四四年(昭和十九年)七月七日には、 サイパン島の日本軍は住民一万人を伴って全滅している。すでに一年前にである。 翌降伏の一九四五年までに全国で一五〇〇万人の家が焼かれている。 その現実を見きわめる力を持たない日本軍事指導層は、連合国軍からの降伏勧告という絶好のチャンスに対し、 神だのみだの大和(やまと)魂だのというお題目にしがみついたまま、陸軍海軍は互いの縄張り争いでがんじがらめになり、降伏議論は空まわりしていた。

  もつれた内部議論の最後は、指導層ではもつれすぎてもう手に負えず、これまで巧妙に利用してきた “天皇” に判断してもらうという空洞へ逃げ込んだ。 急場に設営した 「御前会議」 では、中央の席にうやうやしく天皇が座り、天皇の決断にすがるというなさけなさだった。

  結局最後は日本指導層は戦争終結についてはサジを投げてしまった。 妙なめぐり合わせで降伏の判断をまかされてしまった天皇は 「戦争をやめる」 というサイコロを振るしかなかった。 一同にはもう何も為す力はなく、力なく天皇の振ったそのサイコロの目にただただ隨き従うしかない能の無さだった。

  このていたらくなのに、日本軍事指導層は、連合国軍から無条件降伏かノーかを付きつけられていたのに、 この救いようのない時点になってもまだ降伏後の 「天皇の地位(国家統治権)を保証する」 という連合国軍側の言質をひとこと取ろうとあがいた。 イエス、ノーの回答のみの連合国軍の無条件要求に対して、 “天皇制の継続確保” という降伏条件を連合国軍側に申し入れられないか内輪の議論をまた始めた。

  この時の日本指導層の往生ぎわのわるさは最悪だった。こうした天皇制保全への小細工のねばり腰、積み重ねが、 のちにマッカーサー総司令官へのすり寄りとして効を奏したといえなくもない。 結果、マッカーサー連合国軍総司令官の 「戦後の象徴天皇制容認」 という形での温存へつながっていくのだから彼らの小細工のねばりはムダではなかったかも知れない。

  しかし、連合国軍側は日本側のこの日本側の “お願い” とも天皇制容認の “確認作業” ともいえぬ奇妙な連合国軍側への問い合わせ作業なるものについにしびれを切らした。 優柔不断に終始し、降伏の決断があいまいな日本側に対し、 マッカーサーは日本側への “引導渡し” としてど級の大爆撃を自軍 「第二十航空軍」 に緊急命令した。 それはまさに、連合国軍側が提示した無条件降伏を促す 「ポツダム宣言」 を日本側がすでに受諾した後のことで、 執拗に日本側が連合国軍側に天皇制容認確認の問い合わせを行っているさなかの八月十四日から八月十五日 (天皇の正午のラジオ放送の日)未明に書けての驚愕(きょうがく)的日本大爆撃だった。

  八月十四日、十五日未明に掛け、 B29の爆撃機を中心にした八〇〇機弱(TWENTIETH AIR FORCE=第二〇航空軍)が秋田ほか関東計五都市を猛爆したのだ。 日本側はすでに同八月九日から十日にかけた 「御前会議」 で同 「ポツダム宣言」 の受諾を決定し、 直ちに中立国スイスを通して連合国軍側にその由申し入れている。 それなのに、前述のように従来通り天皇が日本を治める全大権を持ちつづける(変更しない)と、 即ちこの条件のもとでの日本側の 「ポツダム宣言」 受諾であることの確認を日本側は連合国側に、同八月十一日午前二時三〇分に求めている。