2008.2.5

メディアは今 何を問われているか

日本ジャーナリスト会議会員
 桂 敬一
目次 プロフィール

日本には教えられる過ちがたくさんある
―─中国製ギョーザ中毒事件に思う

  1月30日、JT (日本たばこ産業。旧専売公社) の子会社が輸入した中国製の冷凍ギョーザを食べた千葉・兵庫の家族が、 激しい中毒症状に襲われていた事件が発覚すると、マスコミは連日、このニュースにたくさんの紙面と放送時間を割いてきた。
  はじめは中国の食品会社の製造過程における原料の残留農薬処理に問題があるかのような報道が多かったが、時間が経つに連れ、 中国での製品包装時あるいは日本での末端販売過程における意図的な汚染とする疑惑が浮上、原因・責任の追及が混沌とした様子を呈しだしてきた。
  こうなると、日本は中国の管理不行き届きや無責任さを批判し、これに対して中国は、根拠薄弱な批判は悪意ある中傷だと、日本に反感を強め、 両国の大衆がお互いに相手に悪感情を抱くことになる、不幸な連鎖反応が始動しかねない。

  人間の口に入る、本来安全なるべき食物が、闇雲な生産性向上、経済成長の追求のカゲで、信用ならない危険な商品に転落してしまった問題は、 日本のほうが早くから、また実に多岐にわたって、いやというほど経験してきた。
  森永ヒ素ミルク中毒事件 (1955年)、イタイイタイ病 (カドミウム。55年)、水俣病 (有機水銀。56年)、新潟水俣病 (60年) などが先駆をなし、 やがて農村に急速に浸透した農薬が多様な事故や犯罪、自殺などの発生に結びつくこととなった。 名張毒ぶどう酒殺人事件 (ニッカリンT。61年)、農業従事者の中毒事件の多発 (信濃毎日新聞社 『新しい恐怖―しのびよる農薬禍』 65年刊)、 カネミ油症事件 (PCB、ダイオキシン。68年) が思い出される。
  レーチェル・カーソンの 『沈黙の春』 (64年に 『生と死の妙薬』 の題で邦訳刊行) が最初はピンとこなかった日本人も、 郊外の我が家に隣接する田んぼや果樹園の上を、ヘリコプターが低空でホリドール、パラチオンなどの有機燐系農薬をふんだんに散布するようになって、 にわかに慌てなければならなくなった。

  これらの粗暴で原始的な有毒物の放置状態は、さすがに修正を迫られたが、その後も、効率優先、経済成長主義のもとで食の安全が犠牲にされる状況は、 形を変えてつづいている。休耕制度などで小規模農家が整理される一方、大型ハウス奨励など、農業の商業化、 大規模化が促されていくのに伴い、農家は自家消費の作物と市場に出荷する作物とを分け、農薬の使用程度を変えるようになった節がある。
  家禽・家畜の大量飼育でも、飼料に抗生物質・成長促進剤を混入しているとの疑惑がしばしば指摘される。 このような状況の中で、野菜などの作物についてはポスト・ハーベスト農薬の多用 (収穫後の作物に防虫・防黴などの農薬を使う) が問題とされてきたが、 根絶されたとはいいがたい。
  その後、野菜・お茶などのダイオキシン汚染、水・土壌を汚染する環境ホルモン (内分泌攪乱物質) が騒がれ、 さらに雪印乳業集団中毒事件 (消費期限切れ牛乳の再利用など。2000年)、 雪印食品国産牛肉偽装事件 (狂牛病=BSE対策で国が被害を受けた国産牛肉を買い取った際、輸入牛肉を国産ものと偽り、買い取らせた。02年)、 ミートホープ牛肉ミンチ表示偽装事件 (07年) などが、今日まで起こってきた。

  このような日本の好ましからざる事態の変遷を顧みるとき、今度の事件の発生原因が、工程管理のずさんさ、あるいは犯意の介在を許してしまったこと、 どちらかであり、責任は中国側にあるということになったにしても、それはまだ、私たちの過ちの歴史の初期段階にあったものと同質程度のものではないか、という気がする。 言い換えれば、こういう状態をいい加減にしたまま、中国が今後も成長一本槍で食の問題にかかわっていけば、その成長の規模、速度からいって、 食に対する不信、不安の状況は、たちまち日本が今日直面している状況どころではない、はるかに巨大で深刻なものになっていくのではないか、と危ぶまれる。
  不思議なのは、JT、江崎グリコ、マルハ、加ト吉、味の素、伊藤ハム、日本ハム、日本食研など、今回の中国の食品会社と取引のある日本の食品会社は、 日本の経験豊富な一流事企業であり、そんなことはとっくに承知のはずで、自分たちの安全のためにも、中国の食品産業に日本と同じ過ちを繰り返させないよう、 普段から細かく気を配り、内面的な指導・協力をやっていたのではないかと思っていたのに、どうもそうではなかったらしい、という点だ。

  中国に熱心に求めたものは、ほとんど安い人件費と日本の消費者の嗜好に適合する、過剰なほど細かな加工技術の発揮だけであって、 自分たちが犯した過ちを繰り返してはいけない―─食の安全は、幾層もの供給者と購入者の信頼関係のうえに成り立つものだ、 ということを熱く語ってきた気配が感じられないのだ。
  中国で原料の農産物をつくる人たち、工場で製造加工する人たち、工程管理を行う人たちそれぞれに、 自分たちの産物・製品に自信と誇りを持とうと、仲間として語ってきた感じがない。 問題が起こった─―困ったな、とりあえず製品の回収だ、違う工場に変えなければいけないか、それとも発注先をタイやベトナムに変えるか・・・、 といったような慌ただしさばかりが、マスコミ報道から伝わってくる。
  日本の農業の荒廃、自然環境の悪化、食品産業のモラルハザードも、実はこれら日本企業のやり方が原因のひとつとなって、生じたものではないか。 国内の条件が悪化したから日本ではうまくいかない―─今度は中国でそっくりやればいい、という程度で中国にいったのだとしたら、 中国の人たちからも信頼は得られないだろう。地産地消―─食べ物でいえば、その土地でつくったものをその土地の人が食べる。 このような状況を東アジアが一つになって実現しなければいけない時代に、もうなりつつあるのではないだろうか。
  メディアには今、そのようなビジョンを示してもらいたいものだ。