2008.3.12

メディアは今 何を問われているか

日本ジャーナリスト会議会員
 桂 敬一
目次 プロフィール

「ロスト・ジェネレーション」というな!
ひとりよがりで無神経な朝日の言葉の使い方

  昨年=07年の各紙元旦号は、小泉改革の置きみやげ、「格差社会」 をテーマとして取り上げていた。とくに朝日は、元旦から3日つづけて、 「ロスト・ジェネレーション25〜35歳」 という特集企画を連載、その後も折に触れて 「ロスト・ジェネレーション=失われた世代」 なる言葉を用い、 1995年前後からの10年間に大学を出た、07年現在で25歳から35歳の青年たち―─バブル崩壊不況のまっただなか、まともな就職ができなかった若者たちのことを、 取りあげてきた。
  だが、最初の正月企画のときからそうだったし、その後の記事でもそうなのだが、読めば読むほど、朝日が使う 「ロスト・ジェネレーション」 なる言葉になじめず、 紙面にこの文字をみるたびに違和感を覚え、いらいらさせられる。最近ではその短縮形、「ロスジェネ」 なる言葉も平気で使うのだから、無神経だ。

  昨日=11日の朝刊に載ったコラム、「政態拝見」 の 「オバマ人気 小泉ブームと似て非なり」 は、曽我豪編集委員の筆になるもので、 いま 「変化」 のオバマを支持するアメリカの20〜30代は、05年・郵政総選挙で 「改革」 の小泉を支持した、当時の日本の20〜30代と似ているが、 オバマはいま 「統一」 を志向しており、小泉が 「分裂」 を志向していたのとは事情が異なる─―この点の相違は重要だとする、なかなか興味深い一文だった。 ところが、ここでもまた、日本のこの20〜30代を 「ロスト・ジェネレーション」 と呼んでおり、少なからずがっかりさせられた。 なにか朝日のなかでは、彼らをこう呼ぶのが決まりごとのようになっているみたいだが、それが世間全体の通念になっていると、朝日の人たちは思っているのだろうか。 少なくとも私には納得がいかない。

  あらためて 「ロスト・ジェネレーション」 という言葉とその周辺の事情を調べてみた。 調べるまでもなくこの言葉を聞いて思い浮かべるのは、あの 『日はまた昇る』、『武器よさらば』 のアーネスト・ヘミングウェイ、 大作 『U.S.A.』 を著したヘンリー・ドス・パソスなどのアメリカの作家たちだ。彼らは19世紀ヨーロッパの伝統的な社会、文化を崩壊させた第 1次大戦後に青年期を迎えた。 1920年代のヨーロッパは戦後の混乱と疲弊のなかにあったが、戦禍に見舞われない戦勝国・アメリカは未曾有の好景気に沸いていた。 ヘミングウェイ、ドス・パソス、スコット・フィッツジェラルドたちはパリに遊び、アプレゲールと呼ばれた大戦後のフランス社会のなかに生まれてくる新しい文学・芸術から、 大きな刺激を受けた。パリに住む年長の女性作家、ガートルード・スタインの家は、彼らの文芸サロンの趣を呈し、彼女は彼らをまとめて 「ロスト・ジェネレーション」 と呼んだ。

  この言葉は、その後日本では 「失われた世代」 と訳されたが、彼らが第 1次大戦後に遭遇した時代状況、パリの社会・文化状況を考えれば、 英語の 「lost」=フランス語の 「perdue」 (「世代」 は女性語なので語尾は e )は、どちらも 「行き当たりばったりの」 「迷子になった」 の意味を含むので、 「ロスト・ジェネレーション」 はむしろ、「迷子の世代」 「行き場がみつからない世代」 の訳のほうがふさわしいのではないか、と思える。 アメリカ文学者の西川正身さんは 「人生の方向を見失い・・・社会と政治に背を向け、・・・新しい文学の世界を切り開こうとしてさまざまな実験を試み (た)」 作家たち、 と評している (平凡社 『世界大百科事典』)。自分たちの世代が、まるごとすぽっと 「失われた」 というような、意気消沈した話ではないのだ。 伝統から断ち切られ、不安に投げ込まれはしたけれど、自力でなにかが選び取れる、大きな自由に飛び込んでいった若者たちの姿が、そこに認められる。

  ここから先は私の感じ方になるが、こうした本来の 「ロスト・ジェネレーション」 には、もっと大きな歴史の混沌のなかに進んで身を投じていくエネルギーや、 そこで不正に立ち向かっていく勇気も、ふんだんにあったといえるように思う。
  ヘミングウェイとドス・パソスは、ナチの支援を受けたフランコの軍事独裁に反対するスペイン人民戦争に際しては、国際義勇軍に参加、 人民政府軍の側に立ってたたかった。その戦列には、『カタルニア賛歌』、『1984年』 を書いたイギリス人ジャーナリスト、ジョージ・オーウェルも、 『希望』 を書いたフランスの作家、アンドレ・マルローもいた。第2次世界戦争の前哨戦ともいうべきこの戦争に加わったこと、 その体験を通じて希望と失意を味わったことが、ヘミングウェイ、ドス・パソスの文学に大きな世界性を与える結果となったことは、上記の作品を読めば明白であろう。 こうして彼らは、アメリカを世界の現代史のなかで、相対化する大きな役割を果たしたのだった。

  彼らが世界のなかで発見したアメリカを、国内の同年代の作家、『怒りの葡萄』 のジョン・スタインベック、『響きと怒り』 のウィリアム・フォークナーも、 大恐慌の嵐に翻弄される農民・労働者の姿、退廃と崩壊に侵されていく南部を通じて、発見していた。 彼らもまた 「ロスト・ジェネレーション」 に属する人々だった。これらの作家は、1910年代の荒れ狂うアメリカの産業資本主義の悲劇、惨状を描いたセオドア・ドライサー、 アプトン・シンクレア、シンクレア・ルイスなどの到達点を、大きく前進させ、20世紀の世界に現代アメリカを注目させる役割を果たした。
  フランスの女性批評家、クロード=エドモンド・マニーは第2次大戦後まもなく、『アメリカ小説の時代』 (邦題は 『小説と映画』 中村真一郎・三輪秀彦訳。講談社) で、 伝統的手法にこだわらない文学表現で時代を切り裂いてみせたドス・パソス、ヘミングウェイ、スタインベック、フォークナーの文学を高く評価、 戦後フランスの文学が新たな脱皮を遂げるうえで、彼らの影響を大きく受けたことを証言している。

  要するに本当の 「ロスト・ジェネレーション」 という言葉には、歴史的にも、そこに属する人々の属性、仕事にしても、固有の意味があるのだ。 そういう言葉を、安直な風俗的世代論のために援用するというのは、いかにも不見識だ。マスコミ用語で 「失われた10年」 というのもある。 その期間に思春期・青春期を迎えた若者たちの就職難、派遣・請負などの非正規雇用、オタク、引きこもり、ニート、加速する格差社会のなかの差別など、 さんざん問題にされてきたことを総ざらいするために、いま 「ロスト・ジェネレーション」 という言葉に新しい意味を与えようというのは、あまりに安易だ。 パクリどころか、誤用・悪用ではないか。これを 「ロスジェネ」 などの新語にするなど、悪ノリも過ぎるというものだ。
  不当な社会的処遇を受けている若者の問題を真剣に追及するというより、「ロスト・ジェネレーション」 といういい言葉を思いついたので、 これをはやらせるために若者たちを材料にしている、という観さえなきにしもあらずだ。

  問題の若者たちに対する不当な処遇は、単なる差別というより、不公正な社会的排除というべきものではないか。 そして、そちらに注意を引かれているうちに、後期高齢者といわれる世代の人たちにも、恐るべき社会的排除が始まろうとしている。 もはや公平公正な社会的参加を政治に求めていくべき問題は、世代論ごときものの対応では間に合わなくなっている。
  貧乏人たちのジャンヌ・ダルクというべき雨宮処凛さんは、自著 『生きさせろ! 難民化する若者たち』 (太田出版) のなかで、 自分たちのような 「不安定を強いられた人々」 は 「プレカリアート」 だ、と定義する。 イタリア語の 「Precario (不安定な)」 と 「Proletariato (プロレタリアート)」 を合わせた造語だという。 このほうが 「ロスト・ジェネレーション」 より、よっぽど実態に合った言葉、問題をしっかりとらえることができる言い方だ。安易な世代論がつけ込む隙もない。
  昨日の朝日の 「政態拝見」 の筆者、曽我編集委員にも、「ロスト・ジェネレーション」 という言い方から離れた目で日本の若者をもっとよくみてもらい、 アメリカのオバマ支持の若者と、支持する相手がみつけられない日本の若者とのあいだに、どんな違いがあるのか、しっかり論じてもらいたいと思う。