2008.3.18

メディアは今 何を問われているか

日本ジャーナリスト会議会員
 桂 敬一
目次 プロフィール

報道・表現の自由追求にもっと緊張と迫力を
共感できる毎日の 「ニュース」 づくり

  沖縄とイージス艦を覆い隠した観の 「ロス疑惑」、道路財源・暫定税率と日銀総裁人事で止まった国会。 どの新聞、テレビも、週刊誌も、スポーツの話題、タレントのゴシップ、天皇家の噂、ヒラリーかオバマかなどを騒ぎ立てるほかは、いまなにが大事な問題かを、 国民にちゃんと考えさせようとする気がないみたいだ。だが、現実の事態は、そんなことではすまないところにきているのではないか。 メディアは、こんな状況に安住、商売の勝ち負けにかまけているだけだと、手にしているはずの報道・表現の自由を使う術さえ忘れ、 いざというとき、不正や悪とたたかえないのではないか、と心配だ。
  こんなとき、最近の毎日新聞がよく頑張っており、ニュースのとらえ方に新機軸を開きつつあるのが、注目される。 ニュースを一過性のままに放置せず、かつて大きく報じられた事件のその後や、後になってみえることとなった当初のニュースの真実を、 あらためてニュースにするなどのことが、試みられている。

  そのなかでまず注目されるのが、ブッシュ大統領のイラク攻撃5周年を迎え、米軍占領下のバグダッドから、直接取材による報道を開始したことだ。 3年半ぶりに現地に入った小倉孝保記者は3月11・12日、米軍施設や政府機関が集まる、安全な 「グリーンゾーン」 を出、 レッドゾーンと呼ばれる危険な一般市街地に入り、町の状況、普通の人々の様子を第1報として伝え、 3月16日の朝刊に、連載企画 「戦争のつめ跡 5年後のイラク」 の第1回、「『防護壁』 が囲むバグダッド 敵意の海、浮かぶ要塞」 として掲載した。 翌17日には連載第2回が載ったほか、大型社説 「イラク開戦5年 不安定さを増した世界 米軍の早期撤退がカギに」 で、 ブッシュ大統領に戦争続行を翻意するよう促すとともに、日本にも 「出口戦略」 の検討を求めた。
  バグダッド現地報告は、英インディペンデント紙のパトリック・コバーン記者の 『イラク占領 戦争と抵抗』 (緑風出版) という優れたルポがあるが、 それを裏書きするようなルポを日本人記者が、あらためて現地から送ってくることの意義は大きい。それがあるからこそ、社説も大きな説得力をもつこととなった。

  毎日の頑張りはこのほか、3月6日朝刊・6面の企画報道 「REPOルポ」 (外信対抗面企画) の 「ハリケーン禍2年半 ニューオーリンズ ため息の高架下  家屋修復支援制度支給待ちが9万人」 にもうかがえる。写真ともどもの現地直接取材で、アメリカ社会の歪みを、痛切に告発する。 9日朝刊は3面の企画報道 「クローズアップ2008 沖縄米兵暴行から1カ月 くすぶる地位協定 『再発防止の壁』 改定要求の声 進む再編 減らぬ負担」 が、 終わらない沖縄問題を強く印象づける。
  また、同日の社会面記事 「長井さん銃撃 最期の写真4枚 米カメラマン撮影 レンズは兵士を追い続けた」 も、迫力があった。 A・ラティーフさんの撮った写真4枚を組構成で掲載、長井健司さんが、最期までカメラを相手に向けつづける姿を克明に伝え、 報道者の仕事もたたかいであることを理解させた。
  さらに11日夕刊の 「特集ワイド」 は、先の市長選で落選した山口・岩国市の井原勝介前市長 のロング・インタビュー。 市長交代で一件落着どころか、在日米軍再編がますます地方・市民を苦しめるおそれがある問題点を、浮かび上がらせていた。

  毎日の迫力は、重要と思われる問題へのこだわりを深めていくことから生まれている。突発的に起こった事件の見かけの大きさに振り回されるだけではすまさない。 この点、最近の朝日は、なにか迫力がない。なにが重要な問題かとする頑固なこだわりが、あらゆる面でだんだん薄れていく感じだ。 だが、さすが朝日と思わせるところも、まだまだある。
  すでに一部の週刊誌が制作者側を非難する口調で騒いでいたドキュメンタリー映画、 『靖国 YASUKUNI』 問題の報道だ。この作品の監督は中国人の李纓さん。 この作品は、文化庁の指導下にある独立行政法人の芸術文化振興基金からの助成基金を受けており、靖国神社を訪れる様々な人々の姿を97年から記録する労作で、 2月のベルリン映画祭にも招待されていた。ところが、若手国会議員の勉強会 「伝統と創造の会」 の会長、稲田朋美衆院議員 (自民) は、 反日の疑いのある作品に国がカネを出すのは問題だ―実態を調べるため、自分たちに一般公開前にみせろと、試写を要求したのだ。 制作者側は文化庁とも相談、一部の議員だけにみせるのは事実上の検閲になるが、全議員参加なら応じられるとし、3月12日に試写会が開かれることとなった。 朝日はその顛末を3月9日朝刊で報じた。

  さらに朝日は、13日朝刊で試写会の模様についても追跡報道を行い、大方の議員は、多面的な解釈ができる作品だった、と感想を述べているにもかかわらず、 依然として稲田議員は、「靖国神社が、侵略戦争に国民を駆り立てる装置だったというイデオロギー的メッセージを感じた」 と語り、 助成金にふさわしい中立的な作品であるかどうかについて疑問を呈し、その適切性について平和靖国議連との合同勉強会を開いて検討していく、 とする態度を保っていることを報じた。
  また、14日夕刊で、試写会案内状に 「協力 文化庁とあるのを文科相がとがめ、映画を推薦したかのような誤解を与えたと、 文化庁を厳重注意したことも報じた。
  問題は、ことが報道・表現の自由の根幹に関わる事件であるにもかかわらず、他のメディアがなにも報じなかった点だ。 辛うじて12日、TBSのニュース23が、比較的詳しく、当日の試写会の模様を報じ、映画監督の森達也さんのコメントもしっかり伝えたので、ほっとした。 稲田議員らは、国のカネが絡むから、事前試写を求めるのは、広い意味での国政調査権の行使だと、自分たちの行動を正当化していた。 国会議員が表現の問題で国政調査権を振るうなど、絶対にすべきない─―特定機関による検閲よりよほど悪質だ。 表現には表現で応ずるのが筋だと、森さんは批判した。他の事案で意見が異なるにせよ、どのメディアも報道・表現の自由を守る点では、 こうした原則的な考え方を共有することができるのではないか。それができないとしたら、おかしな話だ。

  だが、読売のこの間の姿勢をみると、そのおかしな話が、当てはまってしまいそうで、危ういかなという思いに襲われる。
  3月14日、戦時中の最大の言論弾圧事件、「横浜事件」 の再審上告審の最高裁判決が出た。当時適用された治安維持法などが戦後に廃絶され、失効したので、 裁判そのものが法的に成り立たないので 「免訴」 にするというのだ。酷い話だ。原告 (戦時中、訴えられ、有罪とされた被告たち) は、 当時自分たちを裁いた法律そのままの下でも誤捜査・誤審があったのであり、有罪は不当だ、と訴えてきたのだ。 再審制という裁判制度本来のあり方からしたら、それに答えを出す義務があるのに、最高裁が形式的な法律論だけで逃げたのが、今回判決だといえる。
  読売はいまや中央公論社の親会社だ。「横浜事件」 で最も大きな被害を被り、有為の人材を失ったのは、改造社と並んで中央公論社だった。 その名誉回復は、自社の切実な問題のはずだ。ところが、15日、朝日、毎日の社説が今回判決を正当に批判したのに、 読売の社説は 「最高裁判決から何を学ぶか」 と題したものの、「致し方のない結論だろう」 「(裁判で) 戦時下の言論弾圧の実態が明らかにされてきた」 「二度とそうした時代にしてはならない、という教訓が残された」 「横浜事件の教訓から学ぶものは多い」 とする生ぬるいものだった。

  報道・表現の自由をなんのために使うかも、問題にされなければならない。 その点にもメディア側に不一致、狂いが生じれば、虐げられた民衆や正当な権利を行使できるはずの市民の側にメディアは立てず、 権力の手先となり果ててしまうおそれがある。
  いま第1に気になるのが、3月14日、チベット・ラサで生じた 「暴動」 の報道だ。 死者も出たと伝えられる大規模な騒乱がなにをきっかけに起こったのかは、いまだに不明なままだ。 さらに、新華社・中国テレビ側と、ロイター・APなど外国通信側とでは、問題がチベット人住民らの暴力行為にあるのか、 中国政府側の軍・公安警察の襲撃・暴行にあるのか、の判断に影響を及ぼす情報・映像の内容的な方向性が、かなり異なる。
  こういうとき、迂闊に 「暴動」 なる言葉を用いれば、チベット人住民が暴動を繰り広げ、中国政府側は過酷であっても、秩序回復に努める側だという構図に収まってしまう。 それで果たしていいのだろうか。朝日は15日朝刊以降、中立的には騒乱の語を用い、チベット人住民の側の行動については抗議行動、抗議デモなどの言葉を使っている。 これに対して他の新聞は、連日 「暴動」 の語をためらいなく使っているが、もっと朝日の慎重さを見習うべきではないか。

  読売の14日夕刊に、やっぱり出たか、と思わせる記事が載った。札幌入国管理局が、小樽に入港したロシアの貨物船に乗船、 上陸しようとしたドイツ人男性 (37歳) を 「上陸条件不適合」 として上陸不許可・入国禁止とし、14日夕方、ロシアに送り返そうとしている、とするニュースだ。 滞在日程が不明、帰りのチケットをもたないなど、拒否理由がいろいろ付けられているが、要はサミットが近くある折から、面倒起こしそうなのは追い返せ、 と判断したのが実情のようだ。読売は記事の末尾に、「男性は14日午前、報道陣に対し 『サミットへの反抗が必要とされるところへはどこへでも行く。 …より良い労働環境や社会の実現のために話し合いたい』 と語った」 と記すが、全体的には怪しい奴の排除第1号とする扱いの感じだ。
  ところが、この男性について共同通信はもっと早く、マーティン・クラマーさんと氏名まで付けて報道、 彼が15日の札幌市内で開かれるサミット反対集会に出席予定であったこと、13日以後、入管難民法に基づいて入管に異議を申し立てていることも伝えている。 さらに14日の毎日・北海道版朝刊も、クラマーさんが昨年のハイリゲンダム・サミットでも会場付近の抗議活動に参加してきたこと、 日本にいる知人が、「彼はテロリストではない。表現の自由の範囲内で (反グローバリズムの) 活動をしている」 人物であり、 ロシアではそうした活動から弾圧されたこともあり、ロシアに送り返すのは問題だ、と語っていることも伝えている。

  世界中どこでも、サミットがあれば必然的に、これに抗議する世界中の市民たちの集会、抗議運動が、これまで繰り広げられてきた。 また、それを報じるのも、サミット報道の役割の重要な一部と考えられてきた。日本のメディアはそれをやるのか、あるいは、世界中からくる 「怪しい奴」 を、 テロリストよろしく排除することに与し、無視することにするのか。まさにサミットを前に問われるところだ。