2008.7.3更新

メディアは今 何を問われているか

日本ジャーナリスト会議会員
 桂 敬一
目次 プロフィール

老人がなぜ怒るかを、若者に理解してもらいたい
―両者の生きづらさの根源を取り除くために―


  6月25日朝、東京地検公安部が24日、人材派遣大手のグッドウィル・グループ (GWG) の子会社、 日雇い派遣を手がけるグッドウィル (GW) を職業安定法 (労働者供給事業の禁止) 違反幇助などの罪で略式起訴、 これに伴って GWG が GW を廃業する方針を固めたことが、報じられた。容疑事実は同一労働者の二重派遣。 裁判で事実が認定されれば、厚労省はそれを派遣許可の欠格事由とみなし、GW に対する免許を取り消すはずだ。 そこで親グループ・GWG は先手を取って、廃業の挙に出たわけだ。
  その日の朝刊で朝日、毎日は大きく報じ、とくに朝日は、詳細な企画報道で 「派遣」 の実態と問題点にメスを入れ、翌日の社説でも 「派遣業界を変える契機に」 と論じた。 だが、日経、読売の報道は小さく、とくに読売はほとんど報道の体をなしていなかったので、呆れるとともに、腹が立った。 確かに翌日26日になると、ブッシュ米大統領が、注目の北朝鮮に対するテロ支援国家指定の解除を発表したので、 この関連ニュースが圧倒的に多くなるという事情はあった。 しかし、6月8日、派遣労働の若者が秋葉原で無差別殺傷事件を起こしたばかりではないか。 その背中合わせのところで、バブル期にディスコのジュリアナ東京で儲け、その後、介護ビジネスが始まると大手業者・コムスンを買収、 介護報酬の不正受給をやった男の支配する事業グループが、派遣労働でも悪事を働いていたことが露見したのだ。 これを大きく取りあげない手はない。
  GWG をのさばらせた制度の罪、行政の無責任、そして派遣でしか仕事にありつけない若者、その悲惨な実態を一気に明らかにし、 事態の根本的な解決、本格的な制度改革の必要について読者の理解と共感を呼び覚ます、またとないチャンスといえるからだ。 メディアはそのような大きな怒りを、ときには思い切ってはっきり示すべきだ。老人の私は、そのように怒ることのないメディアに、腹が立つ。

  最近、新聞を読み、テレビをみるたびに、腹が立ち、怒ることが多くなっている。それは、私だけのことでもないようだ。 後期高齢者医療制度に対しては、対象となる75歳以上の老人だけでなく、実に広い範囲の高齢者が怒っているが、これも同じ質の怒りだろう。 もちろん、報じられる出来事や、問題となる厄介をつくり出す関係者に、怒りは向けられるのだが、由々しき出来事、深刻な問題を受け止める世間の鈍感さ、 読者・視聴者をそのように鈍くしてしまう、見かけ上の派手な騒ぎを取っ替え引っ替え、断片的に流していくだけのメディアのあり方にも、 老人たちの怒りが強まっているように感じられる。
  老人たちの怒りには理由がある。かつて曲がりなりにもなにかをやりつづけ、ここまできた。だが、かねてからあったよきものがしだいに失われていく。 それを取り返そうにも、あるいは昔からの土台に新しいなにものかを付け加え、自分の携わってきたことの延長線上で新たな前進を追求しようにも、もう先がない。 自分のやってきたこと、存在はいったいなんだったのか。すべては無に帰するのか。そこにある普遍的な価値を、今の人は理解しない。 理解してみようともしない。自分が現在所属する、薄く狭い時間的、空間的な層のなかの経験と知見だけで、古くさいものを全部否定し去ることができ、 新しいものが創り出せると思っている。それがいかにとんでもない過ちかということが、年寄りにはわかる。
  だが、聞く耳もたぬ若い人にそれを理解させるのは、至難の業だ。 残るのは怒りだ。この怒りを、あるときは大いに示し、理解はされないまでも、重要な警告だけは発しておかなければならない。 そういう思いで、今も厚労省のまえでたくさんの老人が、入れ替わり立ち替わりして、デモを続行している。 後期高齢者医療制度反対のこうしたたたかいは、自分たちの既得権擁護のためだけのものではない。 後代につづく公共的な医療制度の基盤を守るための意味のほうが、よほど大きい。

  毎日・朝刊の2面に 「発信箱」 というコラムがある。筆者が交代する方式のものだが、6月6日の 「『信』 を取り戻せるか」 には参った。
  後期高齢者医療制度が話題だ。「『これじゃあ、うば捨て山だよ』 『さっさと死ねというのとか』 …と声を荒げる年寄りを目にすると、つらい。 父親や母親に面と向かって、ののしられている気分になる」 「年寄りをないがしろにする気はない。逆に敬意を抱いてきたからこそ、キレたような激高ぶりに困惑してしまう。 …酸いも甘いも知り尽くした人生の先輩には似つかわしくない」 「…鈍い政治など数々の積み重ねが 『信』 をむしばんできた。 だから高齢者は疑心暗鬼になり、現役や孫の世代の負担を論じるに至らないくらい内向きになってしまったのだろう。 とすれば、負担の軽減とか、制度を廃案にするとかで解決するわけでもない」 「『信』 を取り戻すために何をするかが問題なのだと思う」。
  まず、問題の医療制度は、「制度」 としてどう悪いかがまるでわかっていない。 社会保障制度としての健康保険制度は本来、全世代を網羅し、加入者には職業、居住地域に関係なく、負担能力の大きいものが多少余計に負担する一方、 医療給付については、支払い保険料の多少に関わらず、だれにでも必要な治療が受けられる程度のものを平等に保障する、という仕組みで成り立つものだ。 だが政府は、財政潤沢な企業の単独保険組合の設立、政府管掌健保からの離脱を許し、健保制度の母体を弱体化してきた。 またアメリカの要望を入れ、健保不適用の医療─―民間保険会社の医療保険が幅を利かす混合医療制度も許し、 社会保障制度としての健保に集中すべき原資を分散させたうえ、今度は高齢者だけの医療制度を事実上、健保から分離、独立採算でやれ、といってきたのだ。
  これを許せば、自分たち、今の高齢者が困るという話だけでなく、健康保険制度そのものが消滅してしまうおそれがある。 だから老人たちは怒っているのだ。こういう老人の怒りを理解していないのが、この記事の二つ目の特徴だ。
  酸いも甘いも噛み分けて、現役や孫の世代にかかる負担の重さを理解し、国への 「信」 を取り戻して、静かにこの制度を受け入れれば、 この記事の筆者は、そうした人生の先輩を尊敬するらしい。
  だが、冗談ではない、われわれがここで矛を収めてしまったら、あんたたち、さらには孫たちがもっと酷い目に遭うんだぞ、といいたい。

  秋葉原事件は、格差社会の底にアナが空くといったかたちをとりつつ、実は現代社会の基底が崩壊しだしている状況を、さらけ出してみせた。
  政府の派遣制度の導入、その後の度重なる法の改悪による悲惨な状況のなかで、これに反抗するには、 そうした状況が生まれてくるのを放置した社会全体の無責任に対して復讐することだ、といわんばかりの犯罪が起こったのだ。 まるで 「自爆テロ」 だ。メディアはそのような意味をどれだけ真剣に追及しているだろうか。 この事件を、メディアを売れる商品につくりあげる材料として消費しただけのような記事、番組が目につく。 そして、ほかに派手な、新手の事件が出てくれば、それが代わって目につく場所を陣取っていく。
  ところで、無料ブログ・サイト、「Hatena::Diary ようこそゲストさん」 に 「革命的非モテ同盟」 を名乗るブロガーが、秋葉原事件について、 『生きさせろ!』 の著者、雨宮処凛さんと、『<丸山真男> をひっぱたきたい:31歳フリーター。希望は、戦争』 の筆者、赤木智弘さんにコメントをうかがった、 とする報告がアップされていたので、読んでみた。雨宮さんは 「不安定雇用が原因のひとつではないかと思う。 …しかし、秋葉原で何の関係もない人を殺したことは間違っている。経団連やトヨタといった相手に労働運動を通じて怒りをぶつけることができればよかった」 と語っている。 これに対して 「起こるべくして起きた事件であると思う。…若い人が亡くなったことは残念だ。 2ch 等では渋谷でやればよかったというような意見があるが、むしろ巣鴨でこれまでこんな社会を作り上げた人をまきこんだほうがよかったというべきだろう」 というのが赤木さんの意見だそうだ。これらに対するコメントもあった。「雨宮は結局派遣労働者を自分の運動の道具としてしか見ていない気がする。 本質は経営者と変わらん。金くれるだけ経営者のほうがましだなw 赤木のターゲットは巣鴨にすべきだったというのはちょっと面白かった」。
  赤木さんの目には、現在の怒れる老人も、これまでラクしてきやがって、すべてを奪い、オレたちに何も残さなかった奴ら、とだけしか映らないようだ。 われわれは、自分たちの力足らずは、今の若者たちに詫びなければならない。だが、多くの老人が、若いころからさまざまなよき社会制度のためにたたかってきたのも、 事実だ。だから今も怒らざるを得ない。怒りはますます募る。われわれと若者たちとは、お互い話し合うことさえできない存在なのだろうか。

  老人の怒りというと、アメリカの女性平和運動家、アリス・ハーズさんが1965年、政府のベトナム戦争に反対して焼身自殺を遂げたのを思い出す。 享年82歳。敬虔なクエーカー教徒。ナチに追われてドイツから亡命、そうした経験から平和運動に身を挺し、 ベトナムの僧侶・尼僧らの焼身による反戦のたたかいに感銘を受け、みずからも同じ行動で抗議の意志を示したのだ。
  日本では1967年11月、横浜の73歳の弁理士、エスペランチストである由比忠之進さんが、やはりアメリカのベトナム戦争に盲従する佐藤栄作首相に抗議、 官邸前で焼身自殺をしたのが、強く記憶に残る。佐藤首相は当時、沖縄返還にこだわっていた。 アメリカの歓心を買って返還を早めてもらうため、ベトナム戦争へのさまざまな協力をすることを、アメリカに約束した。 由比さんはそのやり方に反対した。周囲では、由比さんの行動は、早期の沖縄返還の妨げになる、と批判するものもいたが、佐藤首相のやり方こそ、 今日に至る沖縄の広大な米軍基地、多くの基地犯罪の原因になったことが歴然としており、由比さんの先見性が証明されたといえるだろう。 40年前、由比さんの怒りがどれほどの惑い、絶望との葛藤を繰り返しながら大きくなっていったのか、とても想像できなかった。 しかし、今年11月、亡くなられたときの由比さんと同い年になる私には、激しい由比さんの怒りのわけや、それが人生の終期のなかでどんなことを意味するものなのかが、 よくわかる。それがたたかいの表現だったことは確かだ。
  ちょっと評判になった本で 『暴走老人!』 (藤原智美。文藝春秋) という本がある。これも読んでがっかりした。 なるほど、ケータイに馴染めない老人が多い。老人の周辺で情報化も加速している。 そういう環境に取り残され、ケータイや個人化が生む新しいメンタリティが共有できないのも、老人だ。 しかし、だからコミュニケーションがとれず、孤独に苛まれ、キレやすくなった老人が 「暴走する」 というのは、どんなものか。 むしろ、ケータイと個人化に自覚なく馴れてしまい、その範囲内での情報のやりとりをコミュニケーションと勘違いしている若者のほうこそ、危機的なのではないか。 知らないもの同士でも、道ばたで、電車のなかで、お互いに顔を合わせ、目と目を交わせさえすれば、なんとなく雑談できる老人のほうが、 本当のコミュニケーションの力を保持しているのではないか。老人の怒りの根底には、本来のコミュニケーションにつながる、大きなエネルギーが潜んでいる。

  怒ることにはいい点もある。新聞を読み、テレビを眺め、そのたびに怒っているが、それが若さを保つ秘訣ともなっているからだ。 だが、新聞を読み、テレビをみて、よくたたかっているなと、大いに感心したいのも本当だ。 若者も老人も、それぞれの立場から、食い入るように紙面に目を走らせ、番組に目を凝らす新聞、テレビになってくれれば、両者の理解、話し合いが成立するのではないか。 ぜひそうなってほしいと思う。
  しかし、6月28日の朝刊を開いて、これはだめかもしれないと、がっかりするとともに、また怒りが湧いてきた。1ページ全部を使った全面広告。 舛添要一厚労相の大きな顔。キャッチコピーは 「長寿医療制度について、改めてご説明させてください」 ときた。 ちょっとチェックしてみたところ、全国の新聞全部に出たようだ。新聞社にとっては広告不況が深刻ななか、干天の慈雨というところか。 しかし、後期高齢者医療制度廃止法案が参院で可決され、衆院に回って継続審議となっているはずだ。与野党対立中の審議事項だ。 政治広報のセオリーでは、政府省庁の行政広報は、国会で成立した法律・政策の実施に伴ってなされる、情報サービスに限定されるべきで、 政治的争点について一方の側に立って宣伝するようなものであってはならない―─そのような広報を政府が国税を使って行うのは、公正さを欠く政治広報であり、 行政広報としては許されない、とするのが通説だ。
  そんなことは新聞の側は百も承知のはずだ。メディアの独立の原理にこだわる老人としては、やはり黙過することができない。若者の意見も聞いてみたい。