2008.7.27

メディアは今 何を問われているか

日本ジャーナリスト会議会員
 桂 敬一
目次 プロフィール

アキバ事件につづく八王子事件の衝撃
―メディアはどんなメッセージを送るべきか―

  また、「誰でもよかった」 殺人が起きた。7月22日、東京・八王子の書店、アルバイトで働いていた中央大学の女子学生が、売場で本を整理中、 包丁で胸を一突きされ、命を奪われた。派遣労働を繰り返してきた容疑者、33歳の男性会社員は、また失職の恐れに直面していた。 警察発表によれば、彼は、親と仕事のことで相談したが、話に乗ってもらえなかったと語った、という。テレビに出てきた父親は、息子はほぼ1か月、家に寄りつかず、 顔もろくに合わせていなかった、と語った。 いずれにせよ、ここにも、雇用不安定の状況と一番身近なところでのコミュニケーションの断絶とがあったことを、容易に想像させる。
  アキバ事件以後のこのような事件の発生、それをどう理解すべきかの社会的な問題意識の整理や議論の適切なリードができないメディア。 この社会はいったいどうなっていくのか、何もできずに手をつかね、社会が崩壊するがままに任せていくしかないのか、と不安になる。 疑問に思うことはたくさんある。以下に思いつくまま、列記してみる。

・ マスコミの責任: 7月24日のテレビ朝日 「スーパーモーニング」 をみていたら、女性キャスターは、 容疑者が “人を殺したらマスコミに出られるだろう” といった点を気にし、「そういわれると、マスコミの側としては辛い。 報じれば、マスコミに取りあげられることを願っている犯行者の注文にはまってしまう。 また、容疑者と同じような状況にある人を刺激し、模倣犯を生み出すおそれもある。どうしたらいいものか」 と、悩みを口にした。 おそらくその場の思いつきで述べたことでなく、テレビ朝日に限らず、ちょっと真面目に考えれば、このような事件の報道に当たるどのメディアの記者、 キャスター、ディレクターも本当に悩むところだろう。
  だとしたら、そろそろ本気で、それこそどうしたらいいか、検討することを始め、今までのやり方を思い切って変えていくべきではないか。 客観報道、中立報道でテレビ視聴者全体に、ただ一律に起きたことを伝えるだけでなく、世間に広く潜んでいるはずの模倣犯予備軍、その家族、学校の先生、 職場の人たち、行政関係者などを意識し、それらの人たちに切実に受け止めてもらえるメッセージをどう送ったらいいか、真剣に考えてみる必要があるのではないか。

・ 犯行予告模倣事件を伝えないマスコミ: 6月8日、アキバ事件のあと、9日に東京・池袋で、10日に新潟で、12日に茨城で、13日に大阪市で、 それぞれ無差別殺人をネットで予告した若者の逮捕事件が、相次いで起きた。14日にも、福岡のアルバイトの少女 (17歳) が九州の駅での大量殺人を携帯サイトで予告、 翌日捕まる事件が起きた。あとは広島、愛知、埼玉、栃木、東京・立川など、数日も経ないうちに立て続けに類似事件が連続発生、警察庁は6月24日、 23日夕方までに予告事件17件を検挙、逮捕・補導したことを発表した。 7月8日の毎日・朝刊は、その後の状況も含め、この種の模倣事件は警視庁によると、全国で100件以上起きており、33人が摘発された、と報じた。 同時点でNHKの報道によれば、35件発生ということだった。逮捕・補導されたなかで最年長は静岡県の会社員・43歳で、あとはほとんど10〜20歳代、 最年少は福岡の小学生11歳だった。
  不思議なのは、これらの事件の多くは発生の都度、ネット・ニュースには出てきて、知ることができたが、 新聞、テレビなど大きいメディアが、ほとんど報じなかったことだ。マスコミが報じなくても、模倣犯は大量発生していたのだ。 ネット情報がそれを手伝ったことが類推できる。おそらくマスコミは、模倣犯予備軍を刺激するのを控え、つまらぬ犯行予告を誘発すまいと、報道を自制したのだろう。 ところが、予告の模倣は大量発生してしまった。これをどう考えるべきか。
  報じることを止めて模倣犯を出すまいとするのでなく、愚行を思い止まらせるために、積極的に報じていくことを覚悟し、メッセージの内容、伝え方をどうするかを、 よく考えるべき時機がきているのではないか。

・ 身勝手さを戒めればいいのか: 上記の 「スーパーモーニング」 では、テレビで売れっ子コメンテーターとなっている女性の大学教授が、 「同じような境遇にある若者でも、ちゃんと生きている人がいる。所詮、身勝手な行動だ」 と、八王子の容疑者を批判した。 それに違いはないが、問題は、その言葉に、模倣犯予備軍に届き、類似の犯行や、犯行予告の模倣に走ろうとする若者に、それを思い止まらせる力、 メッセージ性が果たしてあるか、という点だ。
  7月24日の読売の社説 「無差別殺傷 繰り返される身勝手な凶行」 も、「不安定雇用などを改善していくことはもちろんだが、自らの努力不足や忍耐不足を省みず、 他人や社会が悪いといった責任転嫁の風潮が強まっていないか。…平穏な生活を守るために、犯罪には毅然と対処すべきだ。 それでこそ遺族の納得も得られる」 と述べ、最高裁が11日、9年前の下関駅殺傷事件の被告に言い渡した死刑判決を支持する見解も、ついでに示してみせた。 だが、こういうメッセージが模倣犯予備軍の人たちの自暴自棄を思い止まらせ、一般の人たちの 「平穏な生活」 を保証することになるのかは、大いに疑問だ。
  土浦駅の連続無差別殺傷事件の容疑者も、岡山駅ホーム突き落とし殺人の少年も、アキバ事件の容疑者も、死刑にしてもらいたいと、自分で言っていた。 そうした気持ちに囚われた人間を厳罰で脅し、凶行を止めさせようとしても、効き目はない。 むしろ反発を強める結果を招き、いっそう憎悪を募らせ、犯行への盲目的な突進を促すだけではないか。 これではマスコミは、模倣犯をなくすどころか、より多く誘発するだけではないのか。

・ 社会を問題にするしかない: 問題の 「スーパーモーニング」 にはコメンテーターとして男性作家も出ていた。 彼は 「犯行者は、敵意をだれに向けていいかわからず、社会全体に向かっていく。また、彼らは社会との接点がみつけられず、そこに自分を発見することができない。 犯罪でしか社会との接点がみつけられなかったのだ。マスコミに名が出るのを願うのも、虚栄心からでなく、自分の存在の証がそこにみつけられるからだ。 こういう犯罪には、社会の側から対応しなければいけない。社会がそのあり方を変え、 彼らを犯罪へと追い立てないですむものになっていく必要がある」 とする趣旨のことを語っていたが、こちらのほうが余程説得的に聞こえた。
  そういう意味では、朝日がアキバ事件直後、「派遣はいま」 (朝刊・4回連載) で若者の不定期労働のルポを掲載したのにつづき、「殺意の矛先」 (7月・朝刊5回連載)、 「公貧社会 支え合いを求めて―千葉・東京ベイエリア」 (7月12日朝刊3ページ特集)、「ルポにっぽん 車中12泊 なんでも運送」 (21日朝刊。過酷な 「傭車 (ようしゃ)」、 随時呼び出されたときだけ仕事をする運転者の労働実態のルポ) などの企画報道が注目に値する。
  八王子事件の翌日朝刊は、3面で 「漂う年長フリーター」 問題を取りあげ、若者から押し出された雇用不安定層の実態も、リポートした。 社会の側に意図的な悪意があるわけではないが、そこで働くしか仕事がない若者たちの側に、確実に孤独、絶望とともに、 社会に向けるしかない敵意が積み重なっていく状況が存在する現実を、これらのリポートは迫力をもって明らかにしている。

・ もっと先に進む責任がある: しかし、若者を閉塞した状況に追い込む社会の姿を捉えることができたとして、そこで足を止めていいものではない。 やるべきことに手をつけた以上、もっと先まで進まなければならない。その閉塞をどう打破するかの道を示すこと、少なくともそのための議論の場をつくっていくことに、 責任を負わなければならない。しかし、そうなると、朝日の議論も、力強さを欠き、もどかしさを感じさせる。
  7月24日の社説 「無差別殺傷 この連鎖を断ち切らねば」 は、そのためには第1に、「家庭や学校、職場で、人とのつながりが持てれば犯行を思いとどまる」、 第2に、「人々が少しでも安定した暮らしを送れるような社会にできないかということだ」、第3が 「教育の取り組みも必要だ。 …命の大切さを幼いころから時間をかけて学ばせるしかない」、という。
  いちいちもっともだ。だが、それらのことができてないから事件が起きているのではないか。 なぜそれができないのかを究明、そうできるようになるために、最も緊急かつ有効な方策を提案したり、その実現を阻む有害な要因の除去を主張したりすることこそ、 有益なリポートのあと、つづいて実行するよう求められるものではないか。
  朝日・毎日は政府・与党が日雇い派遣禁止の考え方を出すと、それが当然だと受け止めた。 これに対して、読売・社説 「日雇い派遣 規制強化の前に冷静な論議を」 (7月8日)、日経・社説 「日雇い派遣の禁止でいいのか」 (同) は、条件付きではあるが、 その続行を提唱した。これと比べれば、朝日のほうが確かに事態をより切実に受け止めている。 しかし、派遣を問題とし、グッドウィルなど派遣元企業の問題には厳しい目を向ける割には、派遣先企業、派遣労働を受け入れて利用、 非正規労働の若者を企業利益のために消耗品のように使ってきた企業の問題には、まだそれほど厳しく斬り込んではいない。

・ 解決と希望の方向を示せるか: 06年4月、朝日は政治・経済・社会3部の協力体制の下、偽装請負摘発のキャンペーンを行った。 その結果、御手洗富士夫経団連会長の出身社、キャノンや、松下電器系の松下プラズマディスプレィ茨木工場での偽装請負をスクープ。 報復的に大広告主の両社から、9か月におよぶ広告の出稿停止の嫌がらせに直面した。
  だが、このスクープが派遣労働をめぐる暗黒部分に光を当て、これに抵抗し、労働条件の向上、 人間としての権利と誇りの回復を求めてたたかってきた若者たちへの世間の注目を集め、彼らを激励したことの意義は、実に大きかった。
  そのような報道の力は、アキバ事件に際しても、もっと大きく発揮されてしかるべきではなかったか。 容疑者の派遣先、関東自動車工業は、トヨタ自動車が50%以上の株をもつ、トヨタグループの中核企業だ。 そこに派遣元企業、日研総業がどのように組み込まれ、その派遣従業員を利益の源泉としてトヨタがどのように利用してきたかは、 もっと詳細に解明されてもよいのではないか。その解明を通じて、社会の側が何を変えるべきかの問題点が、かならず浮かびあがってくるはずだ。
  また、80年近くも前の小説、小林多喜二の 『蟹工船』 のなかに、今自分たちに過酷な労働と貧困を強い、 人間の尊厳を摩滅させるものと同質の敵を発見しだした若者たちも、自分が現在属する社会にあっては、その敵はだれなのか、 これとたたかうためにはだれと一緒に手を結んだらいいのかを、そうした解明から理解することになるはずだ。
  そうなれば彼らは、もう孤独ではない。出口もみえてくる。そのような解明がいまほどマスコミに待ち望まれている時代はないといってもいいのではないか。 そうした方向を指し示す姿勢と努力こそが、メディアの報道に有効なメッセージ性をもたらすのではないか。

・ 「万人の万人に対する闘争」 の阻止: 04年、佐世保小6女児同級生殺害事件が起きたあと、大学で3年生のゼミでこの問題について話し合ったことがある。 ネット、友情、親と子、学校のいじめ、その他いろいろの問題も、話題となった。とくに結論を出すつもりはなかったが、最後にひとつだけ質問を投げかけてみた。 「こういう世の中になると、君たちが卒業して20年近くも経ち、結婚し、子どもが中学生、高校生になったとき、ひょっとして自分の子どもがひとを殺すか、 あるいは逆にひとから殺されるかすることも、まったくあり得ないことではないように思える。そうなったと仮定したとき、親としてはどっちが辛いだろうか。 自分の子どもがひとを殺した場合か、あるいは殺された場合か」。
  表現の仕方に多少の違いはあったが、すべての学生の答えが、「自分の子どもが殺されたら、 不憫で悲しいが、もし子どもが理不尽にもひとを殺すようなことがあれば、それにもまして余程辛い。そんなことはけっしてあってはならないと思う」 とするものだった。 幼さを残した現代っ子ではあるが、人としてちゃんとした考え方ができているではないかと、安心もし、感心もした覚えがある。
  現在は、家族を殺されたら、加害者を憎み、これに対する極刑を望むのは人として当然だ、とする風潮が強まっており、 マスコミがそれを促しているようなところも目に付くが、社会性を備えた人間は本来、そのようなものではないのだ。 人間の社会性を破壊し、個人をひとり荒野に彷徨させるような事態を、自分の利益や支配に都合のいいものとしてつくり出すもの、 ホッブスが言う 「万人の万人に対する闘争」 の状態を好都合とするものを、暴き出し、罪することこそ、今ジャーナリズムに求められている仕事ではないか。