2008.8.28

メディアは今 何を問われているか

日本ジャーナリスト会議会員
 桂 敬一
目次 プロフィール

戦後63年目の「8・15」ジャーナリズム
―メディアは忘却を促す役割を果たすのか―

  8月15日、各紙はさすがに夕刊では、当日あった63回目の戦没者追悼式を、一応大きく扱った。だが、力の入れ方は北京五輪のほうが、はるかに上だった。 一方、朝刊はどの新聞も、1面トップの体操・男子個人総合の 「内村航平選手、銀メダル獲得」 に始まり、オリンピック一色で埋まり、 例年の 「8・15」 ジャーナリズムはどうなったのかと、戸惑いさえ覚えさせるものだった。
  似たような印象は、8月9日、長崎被爆・平和記念式典の日の朝夕刊からも受けたものだ。 そう思って振り返ってみると、今年の8月は、NHKをはじめとし、テレビには、やはりオリンピックの陰に隠れ気味ではあったものの、 戦争を題材あるいはテーマとしたドキュメンタリー、ドラマなど、感銘を与える番組がいくつかはあったのに、見落としているのかもしれないが、 新聞のほうにはそうした力作というべきルポルタージュや企画報道があったという記憶がない。 とにかく北京オリンピックの日本選手の話題ばかりが多かったという印象しか、残っていない。いったいこれまでの 「8・15」 ジャーナリズムはどこへいったのか。

  そう思いかけていたとき、これはある種の 「8・15」 ジャーナリズムか、と思わせるニュースにぶつかった。 8月12日・日経朝刊が1面で報じた 「東条元首相 終戦直前の手記みつかる 1945年8月10-14日に記述 責任転嫁の言葉も」 の報道だ。 2面には手記の詳しい内容も載せた。残された手記の全文を入手したらしい。スクープといえるだろう。他紙はいっせいに夕刊で追いかけた。 東条英機陸軍大将は、太平洋戦争開戦時の首相で、敗戦前年に辞任、その後閣僚とはならなかったが、1945年8月当時、ポツダム宣言受諾をめぐる議論の際は、 天皇臨席の御前会議 (8月9日と14日の2回) に列なる立場にはなかったが、首相経験者として重臣会議のメンバーではあり、意見があれば、 天皇に対して上奏できる地位にはあった。
  手記には、10日の重臣会議で前日=9日の御前会議の報告を聞き、そこでポツダム宣言受諾=終戦の大筋が決まったことに反発、 「国政指導者及び国民の無気魂」 を非難、日経の報道によれば、「軍人の論理に固執する考え」 から、 当時の鈴木貫太郎首相や国民に 「責任を転嫁」 する言説が記述されていた、という。 「屈辱和平、屈辱降伏」 「新爆弾に脅えソ連の参戦に腰をぬかし」 など、悪罵に近い批判を政府首脳に加えてもいる。 彼自身の手記によって、東条の戦争責任の無自覚を浮かびあがらせた点が、今夏の 「8・15」 ジャーナリズムの成果の一つか、と思えないでもない。

  それかあらぬか、日本体操界の新星、内村クンでトップを飾った15日の新聞各紙も、「8・15」 への申し訳なのだろう、1面の名物コラムではこの手記を取りあげていた。 朝日「天声人語」 は 「国土は焼け、民は窮乏を極めていた。外地では、補給を絶たれた兵が銘々の処し方を問われた。 この期に及んで戦争を正当化するメモは、戦後の感覚からは読むに堪えない」、毎日 「余録」 は 「国の惨状をよそに継戦を主張する軍人の虚勢ともいえるが、 首をかしげるのはそれに続く言葉だ。『・・戦争指導に当たりたる不明は開戦当時の責任者として深くその責を感じる』。では何に対し責任を感じたというのだろう。 天皇というなら、非難している戦争終結の決断をしたのは天皇だった。・・人の運命をのみこむ巨大機構のとんでもない無責任や非人間性は、今日の私たちに無縁か」、 読売 「編集手帳」 は 「・・手記に国民を 『無気魂』 (=だらしない) と批判した一節があった。 <オトウサンハ 「マサノリ」 「キヨコ」 ノオウマニハナレマサセン・・>(注:特攻隊員の父が幼い我が子に遺した手紙の一部の引用)。 ・・手紙の形はとらずとも、父子と同じ悲しみに耐えた数限りない人々の、どこが 『無気魂』 か。そういう指導者のもとで遂行された戦争である」 と、 そろって元首相を、その手記をもとに批判した。

  だが、なにかすっきりしない。東条は酷い、というのには別に異論はない。しかし、第2次大戦の責任を考えるとき、どうしても東条、 さらには東京裁判で裁かれた戦争犯罪人とされた被告たちの責任を問うだけではすまされないのではないか、と思えてならないからだ。 主権が天皇にしかない憲法体制下での昭和天皇、熱狂して戦争を歓迎したくせに、戦後は被害を受けたとばかりいう国民、 それらの責任についても徹底した検討が加えられなければならない、という問題が残るはずだからだ。 また、メディアの責任も当然吟味されねばならない。
  目にした限りでは、東条の手記の読み方に関して、毎日の玉木研二記者が 「東条の孤影」 と題し、 コラム 「発信箱」 に寄せた一文が、群を抜く視点を示しており、興味深かった (26日朝刊)。 玉木記者は、大方の見方は、この手記を東条の 「狭量」 を裏付ける資料というが、「どうしてこの程度の人物が開戦直前から2年9カ月も首相を務め得たか。 その硬直した無責任政治システムの狭量も当然批判・解明されなければならない」 と述べる。そして敗戦後、「政府・軍部が懸念したのは東条の自殺である。 裁判で責任を負ってもらわねば累が他に及ぶ」 という事情を明らかにし、東条が自決に失敗してくれたからよかったものの、もし死んでしまい、 「東条の姿が東京裁判の被告席になかったら、責任追及はどのような展開になっていたか」、「陸軍省高級副官」 のひとりはある文章のなかで、 東条の自殺未遂を 「『日本のために幸であった』 と記している」 と結ぶ。

  玉木記者は、自分でも東条の自殺未遂を 「日本のために幸であった」 と思っているわけではない。本当にそうなのか、とする疑問を投げかけているところが、ミソだ。 東条が死んでいたら、その後の日本の戦争についての 「責任追及はどのような展開になっていたか」 のほうにこそ、重要な意味がある。 この疑問は実は、戦勝国による裁判によって、生き残った東条がほとんど全部の責任を背負わされ、その 「責任」 とともに消滅してくれたおかげで、 不問に付されるなりゆきとはなったが、なくなったわけではない。東条が被告席にいなかったら、彼をはるかに下回る 「責任者」 が群がって被告席にいても、 戦勝国の眼差しはそっちにはいかず、東条とそれ以下の 「責任者」 たちとを全部まとめても、これをはるかに上回る 「責任者」=昭和天皇に向けられたはずだ。 実は日本のあらゆる人もそのことを、敗戦直後も、またその後も、ずうっと気にしてきたはずだ。
  だが、戦後いつの間にか、昭和天皇の 「聖断」 で 「終戦」 が導かれ、国民が平和を享受できることになった、とする歴史が定着、 そうした流れが強く太くなっていく一方、東条の輩は平和主義者・昭和天皇の思いをねじ曲げ、戦争遂行に天皇を利用した、 いわば 「君側の奸」 とされるようになってきた感じがする。そういう流れをだれがつくってきたのかと考えるとき、メディアの役割が無視できない。

 今回の日経のスクープに接して、日経は06年にも、いわゆる 「富田メモ」 をスクープ、新聞協会賞まで取ったことを思い出した。 「富田メモ」 は88年当時の宮内庁長官、富田朝彦が昭和天皇の言動を記録した備忘録。 報道によれば、同年の4・5月のメモには、靖国神社が自分に相談もなく、意思も汲まず、78年秋にA級戦犯や、日独伊3国同盟締結時の外相、 松岡洋右被告や白鳥敏夫元駐イタリア大使を合祀したこと (翌年の報道で発覚) を昭和天皇が怒り、 「だから 私あれ以来参拝していない それが私の心だ」 と語った、と記してあったという (白鳥元大使は戦犯被告とはなっておらず、この部分は天皇の記憶違い)。 この報道も、昭和天皇のそのような発言は、戦犯や親独伊路線をリードした責任者を批判するものであり、 また、そうした考え方を理解しない靖国神社側に対して怒りを示すものだ、とするメッセージを国民に送り、平和主義者・昭和天皇のイメージを増幅するうえで、 大きな役割を果たしたといえる。
  さらに遡れば、89年の昭和天皇病没の翌年、雑誌 『文藝春秋』 12月号が 「昭和天皇独白録」 と題する、宮内大臣・侍従らによる長大な記録を収載、 話題を呼んだことも思い出される。文芸春秋社は91年、これを 「第1部」 とし、さらに寺崎英成元御用掛日記 (45-48年) も収録、 大部の単行書、『昭和天皇独白録 寺崎英成御用掛日記』 を刊行した。 これが平和主義者・昭和天皇のイメージを一般に広く流布するうえで果たした役割の大きさは、計り知れない。

  しかし、筆者としては、そうした昭和天皇像のつくられ方には合点がいかない。これでは昭和天皇は、最後は勇気を振り絞って終戦の決定に踏み切ったとはいえ、 それ以前は長らく、強圧的で悪辣な軍国主義者、腹黒くて乱暴な軍人たちに意思を踏みにじられ、彼らの強引なやり方に受け身で応じてきただけの、 気の毒な人物ということになる。だがそれでは、同情は買うにしても、意志薄弱、愚鈍の誹りを免れ得ないのではないか。 戦争の可否は別として、いただく最高指導者がそんな人物だったとしたら、一国民として恥ずかしくさえある。
  平和主義者・天皇のイメージは、忘れもしないマッカーサー元帥とツーショットのあの写真が撮られた、敗戦の年の昭和天皇の第1回・元帥訪問、 その後に続く人間宣言、帽子を振っての各地行幸などでもつくられてきた。それは、神秘性と権威をはぎ取られた、弱々しい天皇だった。 東京裁判で戦犯が裁かれ、天皇も騙されていたのだと知るのは、国民としては情けないが、頷ける気がしていた。
  そんなとき、筆者は73年、アメリカ人研究者、デイヴィッド・バーガミニの 『天皇の陰謀』 (いいだ・もも訳。れおぽーる書房) を読んで一驚した。 そこに描かれた昭和天皇は、「日本軍国主義者たちの受動的な傀儡ではなくして、彼らの能動的な大元帥であった」 存在として描かれていたからだ。 バーガミニは作為的にそのような天皇像を描こうとしたわけではない。日米の膨大な文献、とくにアメリカですでに公開されていた広範な資料に当たり、 戦争に関する昭和天皇の役割を精査するうちに、その実像を発見したのだ。 彼は、昭和天皇が国際情勢に通じ、軍事知識も深く、英明・果断な指導者であることを見抜いた。 筆者はそのことが理解できると、ある意味では昭和天皇に敬意と誇りさえ感じた。自国の指導者を褒められて、国民としては悪い気はしない。 だがバーガミニは、そういう天皇であればこそ、その責任もまた厳しく問われるべきだ、とするのだ。筆者は、ぐうの音も出ない思いを味合わされた。

  45年8月9日、第1回の御前会議は、ポツダム宣言が 「国体護持」 を保証するのか否か不明であるところから、即時これを受諾するということにはならず、 長い議論の末、「聖断」 によって連合国側に 「国体護持」 の条件を認めるなら宣言受諾・降伏する、と申し入れることになった。 この申し入れに対して、12日、バーンズ米国務長官からの回答 (バーンズ回答) が入電したが (正式回答は13日)、 それは、A 「降伏の時より天皇及び日本国政府の国家統治の権限は降伏条項の実施の為其の必要と認むる措置を執る連合軍最高司令部に従属する (subject to)」 (外務省は、「に従属する」 の部分を 「の制限の下に置かるるものとす」 と訳した) と、 B 「最終的の日本国の政府形態は 『ポツダム』 宣言に遵 (したが) ひ日本国国民の自由に表明する意思により決定されるべきものとす」 とされていた。
  14日、今度はバーンズ回答に応じてポツダム宣言受諾・降伏をすべきか否かが、2回目の御前会議で検討された。 阿南惟幾陸軍大臣らは、これでは敵国が 「天皇の尊厳を冒涜」 し、「国家の内部的崩壊を来し・・皇国の滅亡を招来する」 おそれがあるとして、 あくまでも継戦の主張を変えようとしなかった。その結果、第2の 「聖断」 を仰ぐこととなり、昭和天皇は 「自分の非常の決意は変りない。 内外の情勢、国内の情態彼我国力戦力より判断して軽々に考へたものではない。国体に就いては敵も認めて居ると思ふ毛頭不安なし」 と述べ、降伏反対論を押し切った。 この経緯の紹介は、纐纈厚・山口大教授の近著、『「聖断」 虚構と昭和天皇』 (新日本出版社) にほぼ完全に負うものだが、同書はまた、昭和天皇が憲法による閣議決定や、重臣会議への諮問などの方式によらず、天皇親裁の 「聖断」 方式にこだわったのは、 天皇自身がことのほか 「国体護持」、皇統断絶回避に固執、継戦派を抑えねばとする危機感に急かされていたためである事情を、実によく伝えている。

  昭和天皇は無為に手をつかねて 「国体護持」 を待つだけではなかった。バーンズ回答の A の部分に反応、自分が 「従属」 する相手、 連合軍最高司令官、マッカーサー元帥に積極的に会いにいき、11回もの会談を行い、米軍占領における自分の有用性をアピールしていった。 一方で、B の部分に関しては、国民の 「自由に表明する意思」 における 「国体護持」 の実現を求め、肉声による 「玉音放送」、人間宣言、全国行幸などに打って出た。 東条らに対する戦犯裁判の断罪だけに頼って自分が戦争犯罪人に問われる危険を完全に回避できるとは、昭和天皇は思っていなかった。 自分を救済するためには自分でやれるぎりぎりのところまではやる努力を、傾けたのだ。
  吉田裕 『昭和天皇の終戦史』 (岩波新書)、豊下楢彦 『昭和天皇・マッカーサー元帥会見』 (岩波現代文庫) を併せて読むと、そうした天皇の緊張感がよく理解できる。 その努力は実り、天皇は占領軍から 「国体護持」 を獲得、占領軍も自分たちにとって大きな利益となる 「無血占領」 を手にする。 天皇とその政府をほとんどそのまま、間接占領方式のなかで利用し、日本国民を統治できることになったからだ。 それは憲法的表現ともされ、新憲法では第1条で 「象徴」 としての天皇制が存置され、皇統の維持が保障された。 そして9条で 「戦争放棄・武力不保持・交戦権否定」 が位置づけられ、強大な米軍の圧倒的な支配下での 「無血占領」 が制度化された。 それは米軍の傘の下の日米安保体制として、自衛隊が巨大な軍事力を備えるようになった現在もなお、つづいているといえないだろうか。

  最後は国民の責任、メディアの責任だ。平和主義者・昭和天皇の幻想を強めるだけであり、また、アメリカが日本の 「無血占領」 のためにつくった9条を、 今度は自分の世界戦略再編のために覆し、日本にも血を流させようとしているとき、そのような企みを阻止するための9条に鍛え直すことができないとすれば、 徹底したリアリストだった昭和天皇と比べて、日本の国民はずいぶん甘いといわれてもしょうがない。 国民を真実に近づけず、覚醒とは縁遠い状態に馴れさせてきたメディアの罪も重い。 新しい 「8・15」 ジャーナリズムは、1945年の混沌・迷妄から早く脱却、 今後の天皇制を、昭和天皇に危機感を抱かせた制度的桎梏から解放するべく、壮大な議論を興せるものとなる必要がある。 さらに、アメリカの思惑を大きく超えたところで9条の発展を追求していくことも、重要な課題となるはずだ。