2011.5.31

メディアは今 何を問われているか

日本ジャーナリスト会議会員
 桂 敬一
目次 プロフィール

菅内閣不信任に向かう政治策動を許すな
反原発で総選挙をたたかう共同戦線構築を

  恥知らずな自公の菅内閣不信任案の策動
  5月28日土曜の夜、7時のNHK総合テレビのニュースを見ていたら、「菅首相に不信任案の動き」 がトップに出てきた。 谷垣自民党総裁、民主党の小沢元幹事長、山口公明党代表がつぎつぎに映し出され、谷垣・山口氏は、菅首相を政権の座から追い落とすことこそ、 日本を今の政治危機から救うことになると、口々に語っていた。呆れ果てるとはこのことだ、とつくづく思った。

  菅首相がいい、よくやっているなどとはいわない。むしろ、何やってるんだ、もっとしっかりしろと、いろいろいいたいことばかりが浮かんでくる。 しかし、こと原子力発電政策推進に関する限り、ほとんどの民主党員はイノセントだ。菅首相も、野党にいた当時の立場でいえば、ほぼ無罪だ。 これに対して自民党は、55年体制以来の与党独裁の下、日本における原子力発電政策を、財界・電力業界やアメリカ政府、 GEなど米大企業のいいなりになって推進してきた張本人だ。 今日の福島原発の、大量の放射性汚染物質を地球環境の全域に撒き散らす、未曾有の人災を招いた最大の責任は、 歴代の自民党内閣にあるといわねばならない。

  公明党も責任から逃れられない。1993年総選挙の敗北(細川非自民内閣成立)以降、総選挙での単独過半数獲得が不可能となった自民党が連立を模索、 99年に新進党から分かれた自由党(小沢一郎党首)と連立を組んだとき、公明党もこれに加わり、その後、自公体制が確立された。 小泉構造改革・民活の推進においても公明党は自民党を支え、原子力に重点を置いたエネルギー政策推進についても、 公明党の責任を無視することができない。 また、今は民主党にあって主流から外された小沢氏も、かつて自民党田中派・同経世会の実力者だった経歴から、原発に関する限りイノセントであるとは、 到底いえない。

  彼らがまともなら、今、菅内閣に対して起こすべき行動は、ただちに政治休戦を申し入れ、東北全域の災害復旧計画の立案、 ならびに必要な政策の具体化と実施に携わる政策本部を、国会に議席を持つ全政治勢力の代表と被災現地の首長との参加を得て閣外に設けることであろう。 そして国会を、政策本部の活動を担保する審議機関としていくのだ。 これなら、ほかの野党も賛成する。もしこれを菅内閣が拒むなら、それ以外の勢力が一致して決起し、政権を奪取、所期の復興体制を整えるべきだろう。
  その場合、自公には当然、過去の原発政策の反省が迫られる。破綻し、重大な人災を生んだ原発政策に責任を負うべきものが、その反省もないまま、 再び政治の表舞台に出、同じ政策の続行あるいは拡大をつづけようとするのであれば、それは現在の状況をさらにこじらせ、問題をいっそう深刻化させてしまう。 そんな事態こそ、われわれ国民にとって最悪の政治的危機というべきものだ。 菅内閣が瓦解し、谷垣・山口・小沢氏らとそれに同調する輩が代わって政権を取るなどの事態が生じるだけだとしたら、なんとおぞましいできごとか、 と思わざるを得ない。

  原発人災の話をわかりにくくするメディアの罪
  原発をつくり、増やしてきた自公より、つくらなかった菅内閣のほうがまだましではないか。また、原発事故では、菅のいうことも東電のいうことも、 くるくる変わり、どっちも信用がおけない点では似ているが、東電に騙される菅より、菅を騙す東電のほうが悪いというのも、決まり切った話だ。 また、東電を、このようなずぼらで身勝手な企業にのさばらせてきた責任も、自民党にはある。 長年潤沢な政治資金をくれ、与党政府の高級官僚の天下り先をたくさん提供してくれる東電に、自民党政府がまともな監督のできるわけもなかったのが実情だ。
  これに比べれば、最近、これまでのエネルギー政策の白紙見直しを口にし、浜岡原発の停止を実現、発送電事業分離の考え方を示唆、 G8サミットでは再生エネルギー利用発電量を20%に引き上げる将来目標、太陽光発電設置 1000万戸実現のビジョンなども提示した菅首相のほうが、 まだましだ。場当たり的で整合性を欠くのは事実だが、こういうことをまったく口にせず、露骨に敵視する政財界の連中よりはましだ。

  こんなわかりやすい話をわかりにくくさせ、無能な菅首相が政権の座から去ったら、日本の政治はうまくいき、東北の復興もなんとかなるんだと、 根拠もなく国民に思いこませようとする点で、一番悪い影響を及ぼしているのがマスコミだ。 テレビは、前述の政治家たちの不信任案への動きが表面化すると、出たものは出すという程度の、屁のような客観報道主義で、 屁のようなこれら政治家の軽挙妄動を頻繁に画面に映し出す。政治座談会や情報番組の話題もこれで持ちきりだ。
  新聞はもっと罪が深い。読売に至っては、5月19日朝刊第6面に半ページ近くの記事紙面を使い、西岡武夫参院議長(議長のため党籍離脱しているものの、 民主党所属)の菅首相に辞職を迫る、長大な寄稿 「首相の責務 自覚ない」 の全文を載せ、 これを第1面で 「参院議長 『首相退陣を』 異例の要求 震災・原発対応巡り 本紙に寄稿」 とアピール、でかでかと紹介した。

  つづく20日朝刊でも、第3面のほぼ全部を用い、社説 「西岡参院議長 首相 『退陣勧告』 の意味は重い」 ならびに、 全段抜きの特集記事 「西岡論文 発火点 強まる 『菅降ろし』 『16人組』 不信任同調も」 とを、セットで掲載した。 「16人組」 とは民主党内の反菅派のことだ。不信任されたら菅首相が 「解散権」 を使い、衆院を解散、総選挙実施に踏み切る可能性にも触れている。 しかし、憲法上の問題はないが、被災地の苦難を思えば選挙どころではあるまい、一票の格差の不平等が解消されないままの選挙も問題だと、 もっぱら菅首相を牽制するものだ。そして社説は、西岡論文を全面的に支持、「与野党には、菅首相の退陣を前提に、 新首相のもとでの大連立を行う構想も浮上している」 と、渡辺主筆のかねてからの持論、「大連立」 をクローズアップしている。 語るに落ちるとはこのことではないか。西岡論文 「寄稿」 も、自作自演という気がしてならない。

  菅引きずり落としのあとに控える危険な企み
  ほかの新聞は、さすがにこれほど露骨ではない。だが、菅首相が自発的に辞めてくれるんだったら、それはそれで一番いいかも、 とするような言葉の端々が、朝日にせよ毎日にせよ、政治部系の記事のなかにしばしば出てくるのが実情だ。これでは読売に舐められてもしょうがあるまい。 しかし、しょうがないですますわけにもいかない。5月3日の産経の 「憲法施行64年」 社説(産経では 「主張」)= 「非常時対処の不備を正せ 『自衛隊は国民の軍隊』 明記を」 は、大震災に臨んだ菅首相の不作為の数々は、 基本的に憲法が国家の緊急事態に対処する規定を持たないからだ、と述べ、今回の災害経験に学び、憲法を急いで改正、 非常事態に対処する法体系を整備せよ、とするもので、急いで現行憲法96条(改憲発議を衆参両院議員の3分の2以上と規定)を改正、 「過半数の賛成」 で発議できるようにせよ、とまでいう。ところが、西岡論文が菅首相を責める第1の理由も、 大地震発生とともにすぐ 「緊急事態法」 をまとめ、立法化を図らなかった、というものなのだ。

  冗談ではない。菅首相引きずり落としを策す政界仕掛け人やメディアの一部は、菅首相のことをアキ菅(空き缶)などと嘲笑を浴びせるが、 自分たちはその空き缶を散々叩いて空騒ぎしたあげくに、被災地復旧・住民支援・原発放射能漏出封じ込めはそっちのけで、 菅退陣ドラマを自分たちの意図する方向での政界 「大連立」 の政局づくりに利用し、果ては改憲にまで持っていこうとしているのだ。 そればかりではない。消費税引き上げも、TPP参加も、普天間問題のアメリカより解決も、みなこの 「大連立」 の流れのなかで解決しようとしている。 菅首相が延命のため、それらに応じるならそれもよし、しかし、所詮菅は使い捨てだ、というのが連中のハラだ。 こんな策動に引きずられて、いいはずがない。私たちは今、こんな汚い動きにこそ、大いに怒らなければならない。 そして、若い人たちにうんと怒ってほしい。腹のそこからの怒りを示すときだ。

  菅首相が不信任案の前に破れても、黙って退任するな、衆院解散・総選挙に打って出ろ、と応援しようではないか。 もうこの時機、総選挙の唯一の争点といえるのは、原発政策の続行是か非か、であろう。 とりあえずは、福島第1原発の廃止を前提にした、放射能漏れ完全停止が眼目だ。 チェルノブイリの 「石棺」 方式も躊躇せず、早く汚染物質の漏れを止め、避難地区の土地を除洗し、 住民ができるだけ早く故郷に帰還できるようにすることが急務だ。農水産物の放射能汚染に苦しめられているもの、 校庭で遊ぶことを禁じられている子どもたちも、それを待っている。
  われわれはこのような要求を選挙方針として高く掲げるが、それは菅首相とその支持組織だけに求めるのではない。 全政党・全候補に求めていくものだ。自民党や公明党にも改心のチャンスはある。 だが自公のみならず、この要求を受け入れず、さらに原発政策の続行にこだわるものは、どこの党の候補であれ、全部落とすというのが、 われわれの選挙のたたかい方になる。われわれはそこに既成の政党政派の別を超えた、原発反対の陣営の結集、大きな共同戦線が実現するのを期待する。

  新しいタイプの若者こそ、これからの運動の担い手だ
  なんのかんのいっても、高度成長真っ盛りの 1960年代後半からバブル期=90年代初頭までの若者は、あまりいじけずに青春時代を送ることができた。 就職でも、そこそこ安定した仕事先がみつかった。だが、バブル崩壊後の90年代後半にハイティーン時代を過ごし、 現在30歳台半ばに差しかかろうとしているものを先頭に、尻尾は現在ハイティーン時代に入りつつあるものに至る若者たちは、 安心して若さがエンジョイできるなどの体験は、およそ知らないで生きてきたし、現に生きているのではないだろうか。
  そして今、そうした若者たちが、自分たちを絶え間ない不安な境遇に陥れている根本原因は、今回の深刻な人災を招いた身勝手な政治であり、 その責任を曖昧にしたまま、従来どおりの政局ごっこに明け暮れている恥知らずな政治だということを、強烈に感じだしている。 これまで銀座、高円寺、渋谷で繰り広げられてきた反原発集会・デモの尻上がりの発展を支えたのは、そうした若者たちだった。 彼ら(彼女ら)は、かつての反体制運動の担い手だった若者たちとはまるで違う存在だ。党派的なエゴのためや所属組織の義務でやってきたものはいない。 反対すること、求めるもので一致できる若者たちが、なんのこだわりもなく、自分の意志でやってきて、一緒になって活動している。 どうやら若者たちは、共通の 「敵」 を見つけ出したらしい。

  デモの若者たちが掲げるプラカードには、「福島に原発は要らない 沖縄に米軍基地は要らない」 という、 福島・沖縄を対句で示したスローガンも目につくようになっている。国の発展のためにという建前で原発が福島の小市町村に、 国の防衛のためにという理由で在日米軍基地の圧倒的な部分が小さな沖縄に、それぞれ国の交付金付きで押しつけられ、 それによってさまざまな深刻な被害や問題が現地住民にしわ寄せされる状況が生まれている。 そうした犠牲のありようの構造的な特徴に共通性があることに気づき、若者たちは福島についても沖縄についても、 しだいに怒りを大きく抱くようになっているのだ、自分たち自身がこの社会のなかでオキナワとされ、フクシマとされているような思いで。 それは実にまともな怒りだ。こういう怒りこそ、行き詰まった状況を打破する力となり、新しい運動を推し進める動因となる。 若者たちの運命も、それによって切り拓かれていく。

  そのような運動のうねりのなかで、総選挙も辞さないとする覚悟を固める必要がある。それはけっして菅内閣支持の選挙ではない。 菅首相追放・大連立政権擁立・原発政策維持を足がかりに、21世紀に向かう政治でなく、 再び20世紀に逆戻りする政治をやろうとするものたちの企みを阻むための選挙だ。 その選挙の意義は、東北でも、かならず被災した住民からの理解を得ることになる。 選挙の勝利は、読売的 「大連立」 でなく、反原発で一致する政治勢力が結集する、 新しい連合政権の誕生につながる端緒となるはずだ。そういう創造的な動きをつくろうとせず、策略づくめの菅首相不信任案に安易に荷担し、 しかも内閣総辞職で菅首相に詰め腹を切らせるだけで足を止め、総選挙を回避するのであれば、読売的 「大連立」 の実現を許し、 取り返しのつかない過ちを犯すことになるおそれがある。 (終わり)
(マスコミ9条の会 掲載)