2013.5.23更新

メディアは今 何を問われているか

日本ジャーナリスト会議会員
桂 敬一
プロフィール

第45回 だれが牧伸二を死なせたか―時代を映し出せなくなったメディア 2013.5.23
メディアウォッチ 特別版(2) より
    安倍改憲政権の企む日本改造の正体
        国難が生む “ファシズム” にどう向き合うか
 2013.5.10
<講演記録>安倍自民党による 「改憲」 の本質
    ―明治憲法より酷い立憲主義の否定
 2013.5.10
メディアウォッチ 特別版(2013年3月20日) より転載
      憲法学習を草の根で広げ、自民党の改憲策動を粉砕しよう
 2013.3.22
第44回 戦争が終わった日の明るさを想像してみよう 2012.5.28
第43回 子どもを救え、仕事をつくり出せ―国は過去の経験に学べ 2011.7.9
第42回 公務員・公僕・国民・憲法を考えさせられた 第41回 菅内閣不信任に向かう政治策動を許すな 第40回 いよいよ白熱化する安保・普天間問題めぐるたたかい 2009.11.13
第39回 日米安保50年の見直しにつながる沖縄 「密約」 裁判 第38回 民主党新政権の「官」による記者会見禁止の問題点 第37回 ネット時代とジャーナリズム不信の関係を考える(3) 第36回 ネット時代とジャーナリズム不信の関係を考える(2) 第35回 ネット時代とジャーナリズム不信の関係を考える(1) 第34回 ジャーナリズムはどのような転機に臨んでいるか 第33回 NHKは今どのような危機に立たされているか 第32回 言葉に責任が伴わない麻生政権の危うさ 第31回 伊藤和也さんを二度殺すな 第30回 戦後63年目の 「8・15」 ジャーナリズム 第29回 大分県教員採用汚職を貫くものは何か 第28回 アキバ事件につづく八王子事件の衝撃 第27回 洞爺湖サミットのカゲで何が起こっていたか 第26回 「ワシントン幕府」に吸収されていく自衛隊 第25回 老人がなぜ怒るかを、若者に理解してもらいたい 第24回 アメリカ追随型改革が日本経済にもたらしたもの 第23回 対米従属とナショナリズムの捻れがもたらした閉塞 第22回 秋葉原・通り魔事件と霞ヶ関「居酒屋」タクシー 第21回 「対米従属」はいつだれによってつくられたか 第20回 多極化と不安定化の時代 日本はどう生きるべきか 第19回 長期の支援が必要な中国・四川省の災害救助 第18回 ミャンマー・中国の災害救助に自衛隊の派遣検討を 第17回 「9条世界会議」参加者の熱気は何を意味するか 第16回 東北アジアの聖火リレーから見えてくるもの 第15回 光市母子殺害事件差し戻し審をめぐる憂鬱 第14回 もうデフォルトに戻す時期ではないか 第13回 北京五輪に賛成も反対もできない気分をどうする? 第12回 「8人殺傷事件」 と 「ホーム突き落とし事件」 の警告 第11回 日本は新しい鎖国時代に入るのか 第10回 報道・表現の自由追求にもっと緊張と迫力を 第9回 「ロスト・ジェネレーション」というな! 第8回 「阿倍定事件」 vs. 「ロス疑惑」 再登場 第7回 カストロ退任とコソボ独立―─歴史の進歩の見方が問われる 2008.2.26
第6回 沖縄・米兵暴行事件と報道 第5回 同胞の苦悩を顧みない大新聞―─今なぜアメリカ一辺倒なのか 2008.2.12
第4回 日本には教えられる過ちがたくさんある 第3回 ジュゴンが恥ずかしがっている──対米従属を脱せよ 2008.1.29
第2回 新テロ特措法のなにが問題か──ぶれる在京大手紙 2008.1.21
第1回 グローバリズムの時代──日本国憲法の出番 2008.1.14


プロフィール

桂 敬一 (かつら・けいいち)

日本ジャーナリスト会議会員


  私は1935年生まれです。敗戦の時は国民学校4年生でした。入学の1年前に、太平洋戦争が始まりました。3年の時、集団疎開で静岡に行き、 途中から縁故疎開で山梨に移り、敗戦を迎えました。山梨では5年の時、新しい歴史教科書 『くにのあゆみ』 に出会いました。 天皇家の神話を国の始まりと教えていた歴史の教科書が、考古学的な証拠に基づく、われわれの祖先の物語を教えるものに変わりました。 目からウロコでした。47年、新憲法が施行され、小さいけれど、印象的な教科書、『あたらしい憲法のはなし』 が出現しました。 翌年、新制中学の1年生になって教わりました。タンクや軍艦が溶鉱炉にぶち込まれ、鉄道や工場となって出てくるイラストが載っていました。戦争放棄です。

  戦争が長く続けば、いずれ戦場に連れて行かれ、死ぬのだと思っていた少年にとって、この時代の転換は、終生忘れられません。 戦後にこそ、新しい希望がありました。しかし、戦後の暮らしも楽ではありませんでした。父が失業、6人兄弟の中で、昼間の高校・大学に行ったのは、私ひとりです。 兄は昼夜開講の大学を出、姉は女学校を中退、すぐ下の弟は中学を出て工員として働きながら夜間の高校・大学に行きました。 私も高校のときから家庭教師を毎日やり、夏休みなどは町工場で働きました。大学に行ってからは翻訳もやり、学費は自分で稼ぎ、食費も家へ入れていました。

  こうした状況では、すでに進学競争が激しくなっていた高校時代、まともな受験勉強ができるわけもなく、いい大学への進学など、諦めていました。 その結果、学校に行きながらも、いまでいうフリーターのように働きながら、だらけた学生生活を送り、就職活動もまるでやりませでした。 しかし、大学を出た59年、日本新聞協会という新聞の業界団体事務局に、運よく拾われました。

  新聞協会では、やる気のある若い人は、編集関係の仕事をやりたい、国際関係のことをやりたいと、積極的に希望を述べていましたが、私はそういう気が起こらず、 なんでもいいと思っていました。そのため、いってみれば、ずっと傍流の仕事に回されてきたようです。 一生懸命やったのは労働組合でした。戦争から戦後への時代の転換、戦後の貧しさ、同じ兄弟でも学歴格差が生じざるを得なかった事情などや、 59・60年の警職法・日米安保反対闘争などが、どうやら私を労働運動に導いたようです。

  組合は新聞労連=日本新聞労働組合連合に属していました。その関連で、企業を超えた、たくさんの友人に出会うことができました。 また、日本ジャーナリスト会議の会員となって、出版、放送、広告などの世界にも友人ができました。 88年、私は29年間働いた新聞協会を辞め、東大の新聞研究所に大学教員として勤めることになりました。 その後、立命館大学など、他の大学でも働き、2006年3月、立正大学を70歳定年で辞めましたが、この間、研究者の知人・友人にも恵まれました。

  このような私の人生は、時代とは自分にとって何なのかということを、いやでも考えさせるものでした。 そして、そういうことを考えるよすがは、新聞、本・雑誌、放送などでした。 ところが、最近のメディア、ジャーナリズムは、人にものごとを考えさせる力をうんと失っているように思えてなりません。 なぜそうなのか、それはどんなところに現れてくるのかということを、今後この欄で、みなさんと一緒に考えていきたいと思います。