2008.8.20

音楽・女性・ジェンダー
―─クラシック音楽界は超男性世界!?
小林 緑
目次 プロフィール
第4回
クラシック音楽の問題点

谷戸基岩 (音楽評論家)
  13年間で約3,300のコンサートに通うとともに、「レコード芸術」、「コンサートなび」 などで執筆。共著に 「古楽CD100ガイド」、「女性作曲家列伝」 など。 「知られざる作品を広める会」 を主宰し20のコンサートを開催。

クラシック音楽の問題点
  私がレコード会社に勤めていた1990年代の初め頃から、すでに 「クラシック音楽の危機」 ということが叫ばれていた。 その後もこの世界では折に触れ、コアを成すファン層の高齢化・減少が問題にされて来た。 何となく 「たしかにそうだ!」 とは思いつつも、同時に 「少なくとも自分にとってこんなにも面白いものがなぜ他の人にとって魅力的ではないのか?」 という疑問を私は抱き続けてきた。
  レコード会社のクラシック部門担当者として18年間半、音楽評論家として約14年間クラシック音楽の世界に関わり合いになって来たが、 つい最近になるまでその疑問に対する答えが見つからなかった。 しかし尚美学園大学で 「クラシック音楽特論」 という授業を通して、学生たちに 「クラシック音楽とは何か?」 という問題を提起し、 ディスカションするうちに自分の考えも整理され、ようやく何が問題なのかが判ってきたような気がする。そんな中から思いつくまま、何回かに分けて記してみたい。

クラシック音楽の聴衆とその嗜好
  私が思うに、クラシック音楽の世界には恐らく二つのタイプの聴衆がいるのではないだろうか。すなわち
@ クラシック音楽をひとつの情操教育に良い 「教養」 としてとらえ、「クラシック音楽業界の価値観」 を自分はいかに良く理解しているかを競い合うゲームをしている人々
(ちなみにここでいう 「クラシック音楽業界」 はレコード、放送、楽譜出版、楽器製造などの産業界のみならず、 作曲家、演奏家に加え、音楽ジャーナリスト、音楽評論家、音楽教師、音楽学者なども含めて現在のクラシック音楽界全般を指す)

A ポピュラー音楽や歌謡曲などと同じようにただ自分が好きだから、そして好奇心の赴くままにクラシック音楽を聴く人々。

  勿論、単純にタイプ @ のみ、タイプ A のみという人ばかりではないだろう。しかし、この人はタイプ @ ではないか、と思うような人が意外とこの世界には多い。 私は15歳くらいから約40年間クラシック音楽を聴いてきたけれども、聴衆としての基本的なスタンスは最近ではもっぱらタイプ A である。 「世間で話題になっているから」 とか、「大々的に宣伝されているから」 という売り文句にも、「有名名曲だから」 という評価にもほとんど興味がない。
  「そもそも100人の人間がいたら100の嗜好があり、それゆえ価値観の合意などは取れるはずがない」 というのが私の基本的な考え方で、 余程好みの傾向が似たクラシック音楽ファンと話していても、何が好きか嫌いかという点で合意が取れるのは3割がいいところである。 よく知り合いの演奏家にも 「9割の人から何となく良いと思われるような演奏家になろうとせず、まず1割の人に熱狂的に支持されるようになりなさい。 その後それを2割、3割と高めるように努力したらどうですか」 と話している。
  考えてみれば、誰もが同じ音楽家を好きにならなくてはいけない、同じ作品を 「名曲」 と思わなくてはいけないという思想はとても怖いし、危険で、受け入れ難い。

全てを把握することの難しさ、それを探求する面白さ
  そもそもクラシック音楽の歴史を辿って行くなら各1回ずつしか聴かないとしても、一生の間に聴き切れないほど膨大な量の作品がある。
  例えば18世紀後半から19世紀初頭にかけての時代だけで1万曲を超える交響曲が存在しているという。 しかし、そのうちで一般に知られているものはといえばハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンくらいで、やや詳しい人でもサンマルティーニ、バッハの息子たち、 ボッケリーニ、シュターミッツ、ディッタースドルフ、クラウス…といった作曲家の作品を挙げる程度ではないか。 この時代の交響曲を500曲も知っていたらかなりの通である。
  そんな中で一般的に知られている上記3人の作曲家たちの作品だけでこの時代を代表させて良いものなのかどうか?  ひょっとするともっと違った価値観を提示して楽しませてくれる曲があるのではないか…そんな疑問が頭をもたげてくる。
  実のところ18世紀以降の作品についてクラシック音楽の世界で一般的な話題になるものは、現存する中のほんの氷山の一角に過ぎないのだ。 海外ではマイナーレーベルを中心にこれまで埋もれていて一般に知られていなかった作品の楽譜を出版し、CD録音する動きが盛んになっている。 例えばナクソス・レーベルの 「18世紀の交響曲」 シリーズでは 「オヴィディウスの転身物語に基づくシンフォニア集」 をはじめ、 ディッタースドルフの標題を伴った珍しい交響曲が発売されているのだ。



  その一方で有名名曲なら何百・何千という録音がその曲について存在する。その中である曲に関してあなたが最も好きな演奏に出逢える可能性はどうであろうか?  演奏が自分の好みであるか否かは、その曲が好きになれるかなれないかの大きな分かれ目になるだけにこれは重要なポイントだ。 コンクールというものが支配的になってきた今日では、演奏家のスタイルは優勝・入賞するための様式に画一化されつつあるので差異の幅は大きくないが、 戦前やモノラル期の録音を耳にすると一人ひとりの個性がかなり異なっていて驚かされる。
  やはり、ある作品の姿をしっかり把握しようと思うなら古今東西の代表的な録音を丹念に追っていくしかない。 これも大変な作業だが、幸いなことに海外のCDに目を向けるとこうした過去の録音、 とりわけ戦前の録音を復刻する運動はLP時代とは較べものにならないほど盛んになっている。 私たちは今日ではサン=サーンス、ドビュッシー、スクリャービンらの自作自演すらも容易に手にすることができるようになった。

  このような海外の動向を追いかけ、自分の嗜好に忠実に、勝手気ままに作品・演奏を探求して行くのはとても面白いし、いくら続けても飽きない。 けれどもとにかくお金と手間暇がかかる。さらに残念なことに、こうした業界の一押しでないような、マイナー視されているものを探求しその良さを紹介したとしても、 なかなかそれが広がって行かないのが我が国の現状なのである。
2008.8.20