2009.1.3

音楽・女性・ジェンダー
―─クラシック音楽界は超男性世界!?
小林 緑
目次 プロフィール
第8回
クラシック音楽の問題点(2)
谷戸基岩

●果たしてクラシック音楽に本物の「原典」は存在するのか?
  クラシック音楽の世界にいるとひとつのお題目のように 「作曲家の意図に忠実に」 という言葉を耳にする。 作曲家がかつて頭に描き、実演した音楽をそのままに再現することを目指した 「原典主義 」という言葉、あるいはそのために作り出された 「原典版」 楽譜も同様である。

  しかし、果たしてクラシック音楽に本当の意味での 「原典」 など存在するのだろうか? こうした言葉に接するたびに私はそのことに疑問を感じていた。 ポピュラー音楽の世界には多くの場合に本当の意味での 「原典」 が存在する。 例えばビートルズの大ヒット曲 「シー・ラヴズ・ユー」 の 「原典」 は何かといえば、当時ヒット・チャートにランク・インしていたシングル盤の音源である。 人々はその音源によってその作品の魅力に接し、この曲は世に広まったのだ。

  例えば、あなたが 「ビートルズの 《シー・ラヴズ・ユー》 を演奏していただけませんか?」 と頼まれたとして、もしこの曲を知らなかったらどういう行動をとるだろうか? 恐らくほとんどの人は楽譜を買うよりも前にまず彼らの録音音源を買うなりして聴くのではないだろうか? そうすることで音楽家は世間の人々が 「原典」 としてこの曲に対して持っている 「在り方」 を実際の音として知ることが出来るのだ。 仮に楽譜は無くともまずは繰り返し聴いてそれを寸分違わずコピーし、そこから演奏者独自の味付けを考える。

  それに対してクラシック音楽の場合はどうか? ほとんどのクラシックの演奏家はまず楽譜を購入する。しかし音源を耳にすることにあまり積極的ではない。 それは多くの場合に録音されたものを 「原典」 と認めていないからだ。 その最も大きな理由は作曲家が自分の作品を演奏した音源、 あるいは、作曲者の意思を忠実に伝えたと考えられる演奏家による音源を我々が耳にすることが出来るのは大体ブラームス (1833−1897)、 サン=サーンス (1835−1921) あたりから後の世代でしかないからだ。
  しかもこの時代の作曲家たちの場合ピアノ曲、室内楽、歌曲などにジャンルが限定される。 当時の技術では録音が困難だったオーケストラ作品のような大規模なものはさらに数が少ない。 それ以前の作曲家、例えばショパンのように録音機器が一般化する半世紀以上も前に亡くなっているケースでは、直弟子による録音すらも残っていない。 それよりさらに昔の作曲家たち、バッハ、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトに関して録音としての 「原典」 は望むべくもない。

  では20世紀前半には活躍したラフマニノフ、ラヴェル、R.シュトラウス、ガーシュウィン、ストラヴィンスキー、 ハチャトゥリヤンらのように自作自演の音源がかなり残っている作曲家たちの場合はどうだろうか? 意外なことに現代ではこうした音源よりも今日の演奏家たちによる演奏を好んで聴いている人が少なくない。 ある音楽大学のピアノ科教授が 「だってラフマニノフってピアノが下手だったんでしょう?」 と、 この作曲家の自作自演を聴かない理由を説明したという話を知り合いから聞いて、その厚顔無恥に仰天した。
  ここまで酷くはないにしても、「録音が古くて聴きづらい」、「演奏スタイルが古過ぎて参考にならない」、 「過去と現代では録音という行為の意味づけが違う」 といった風に難癖をつけてこうしたものを否定したがる傾向がある。 これらは紛れもない 「原典」 たりうるものであるにもかかわらず……それとともに作品によっては自作自演でないとその本来の良さが伝わってこないケースも少なくない。 特にロマン派〜近代のピアノのための性格的小品などでは、作曲者の意図するところが楽譜からは十全に読み取れないこともある。 シリル・スコットの 「蓮の国」、セシル・シャミナードの 「ピエレット」 などのピアノ曲はそうしたものの典型といえるだろう。

  考えてみると演奏レパートリーに関して、クラシック音楽界では多くの場合そのアーティスト独自の作品というのは無く、既存の楽曲を演奏することを基本としている。 従ってこの業界は 「ある既存の楽曲を、新たな演奏によって再現し続ける」 ことによって成立している。 そうした目的のための楽譜があり、出版産業がある。演奏家がいて、演奏家を育成する教育産業がある。 コンサートがあり、そのマネージメント会社が存在する……もしクラシック音楽の世界にポピュラー音楽のような 「音としての原典」 が存在してしまったら…バッハ、 ベートーヴェンやショパンの自作自演などがあったら、恐らくクラシック音楽界は産業として成立しなくなるだろう。 なぜなら聴衆はその作品の本来あるべき姿を知ろうと思えばそれらを聴きさえすばいいのだから…… 「音としての原典」 が存在しないこと、あるいは仮に存在してもそれを認めないことによって、クラシック音楽業界が存続しているとさえ言えるのではないだろうか?
  別な見方をするならクラシック音楽は、 「録音」 が存在しなかった時代の 「音楽ビジネスの在り方」 を今日に引き継いでしまっている音楽ジャンルの典型と見ることもできよう。 そこでは常に新しい音楽学習者、楽譜購入者、演奏家が既存のレパートリーを再現するために必要とされる。 そして、新しく提示される演奏に何らかの価値を見出さないと業界が存続して行かなくなる。 それゆえに新たに登場する録音に対してひとつの価値観として 「作曲者の意図に忠実である」 という演奏の正統性がしばしば主張される。 その一方で、過去の音楽性豊かな優れた録音が業界全体としては不当に過小評価され、終いには廃盤となり、CDカタログから消され、忘れられてしまうのだ。

  例えば80年前の世界を考えてみよう。それはラジオ放送や電気録音のレコードがようやく世に出てきた時代。 ショパン・コンクールも、パソコンも、ゼロックス・コピーも、テレビも、当然のことながらコンビニエンス・ストアも無かった時代だ。 しかし、生活環境としては私たちの時代よりはバッハ、モーツァルト、ショパンの時代に近かったはずだ。 そして、恐らく音楽の持つ意味も現代よりはこうした作曲家たちの時代に近かったのではないか。 そのことは措くとしても、次のことは認めざるを得ないだろう。
  その80年前すなわち1920年代後半はフランスならフォーレ、ドビュッシー、サン=サーンス、 サティらが亡くなって間もない頃、さらにはラヴェル、プーランク、ミヨーらが実際に活動していた時代でもある。 少なくともこれらの作曲家たちのことは、我々よりこの時代の音楽家たちの方がよく理解していたと考えるのが自然ではあるまいか? 同時代者として時に作品に対して否定的であったとしても、彼らは 「1920年代後半」 という枠組みの中でそれらに接することが出来た人々なのだ。 後追いでそれらを体験する私たちには理解できないような当時の暗黙のルール、常識、価値観などをこれら作曲家たちと共有することが彼らにはごく自然に出来たのだ。 たとえこうした時代の演奏家たちによって録音されたものが、今日の常識、価値観や趣味と違ったとしても、それは即座に否定するのではなく、 もっと尊重されるべきではないか。それゆえに私たちはそうした時代の、さらにはもっと古い時代の録音のことを積極的に知ろうとする必要がある。

  先に述べたようにクラシック音楽は同じ作品に対して多様な解釈が存在しうることによって産業として存続している。 そうした 「在り方」 の中で、「現役演奏家のもの」、「新しいもの」 の中から今日的な価値を見出し、 「作曲者の意図に忠実」 という幻想を更新し続けるだけでは、クラシック音楽業界は早晩立ち行かなくなるのを私たちは十分に理解すべきだ。 それを防ぐには古今東西のあらゆる表現の可能性が研究・探求されるべきだろう。 そうした研究の重要な柱として、私たちは過去の録音を蔑ろにするのではなく、それぞれの作品について19世紀末から今日に至る録音史、 演奏史をしっかりと把握する努力をすることが何よりも必要ではないか? その上で個人個人が――聴衆であれ演奏家であれ、膨大な種類の演奏の中から自分の好みのスタイルのものにアクセスして行けばいい。 それを実行に移すのには大変な手間と労力を要するだろう。金銭的な負担も馬鹿にならない。 けれどもそんな大変な苦労を課せられることの方がまだ遥かに幸福な状況なはずだ。クラシック音楽業界の画一的な価値観を押し付けられる現状よりは……

  CDの時代になって、19世紀末からSP時代末期の1950年頃までの録音が世界的に大変な勢いで復刻されている。 こうした動きを単なる好事家のマニアックな趣味の表れととらえるべきではない。それは紛れもなく時代の要請なのだから。


シリル・スコット


スコットの自作自演8曲をボーナス・トラックに含む「スコット:ピアノ作品全集第1集」

2009.1.3