2009.5.28

音楽・女性・ジェンダー
―─クラシック音楽界は超男性世界!?
小林 緑
目次 プロフィール
第12回

日本の女性と音楽:柳 兼子(1892-1984) をめぐって

  このところ二回、日本女性と音楽に絡めた話題で書かせて頂いた。ついでにもう一回、同じ趣向で続けてみたい。 対象に選んだ 「柳兼子」 (以下兼子) とは、残念ながら全く個人的には相識らぬまま終わってしまった。 しかし私にとって、兼子は音楽の領域で格別重大、かつ身近な問題意識を引き出してくれる、眞に貴重な、そして特異な存在なのである。
  このテーマ、実は2007年末、国立音楽大学 (以下国音) を定年退職するに当たり、最終講義として選んだもの。 その折のタイトルは “Think globally, Act locally [=Penser globalement, Agir localement : この提言はもともとフランス人細菌学者ルネ・デュボスが発したとされる] ” だった。副題に 「日本の女性として <日本・女性・音楽> について考える」 と続けたのは、生半可な学術研究発表ではなく、 日ごろの自分の生活態度と音楽上の関心をなんとか結び付けてみたい、その一念からである。 「女性と音楽」 「音楽とジェンダー」 に目覚めて以来、自身の教育・研究の方向性を生き方の指針と重ねなければ意欲も湧かないし、 成果も望めまい… 「最終講義」 とは 「自分史」 を語る場でもあると割り切ったうえで、「地球規模で考え、地元優先で行動する」 と訳される上記モットーを、 遠慮なく掲げてみた次第である。

  そこでまず、女性学研究者の常として私の立ち位置をはっきりさせておこう。
  日本人の中老? 女性で、元私立音楽大学教員 (現在は退職して私立女子大学非常勤講師)。結婚しているが仕事上は別姓で通し、子供はいない。 留学先はフランス、西洋クラシック音楽一本やりで教育されてきた不幸を嘆き、相対音感・移動ドを信奉。 「もったいない」 精神とリサイクルで固めた? 実生活でも、また音楽的趣味としても simple, short, slow, slim の “4S” を座右の銘とする… こうした自分史もどきの前提から、最終講義では最後の論点として柳兼子に到達するために、以下9曲を試聴・試写した。 何故これらの曲で、またこの演奏なのか―つまり、現今のメジャーな音楽シーンにはほとんど見られないこれら作曲家、作品、演奏家、楽器、演奏解釈、 楽譜の問題、日欧の交流といった諸相を説明することで、日本語の歌とヨーロッパの歌を分け隔てなく歌いあげた歌手、 柳兼子に最後の焦点を当てる理由に代えたいからである。

1 ルイ・モロー・ゴッチョーク
Louis Moreau Gottschalk (1829-69) :バナナの木
  ニュー・オーリーンズ生まれ、幼時から超絶的技巧と人気を誇りヨーロッパでも活躍したピアニスト作曲家ゴッチョークのピアノ曲。 黒人の歌を模したジャズの予兆ともされ、19世紀半ばヨーロッパで初めて聞かれたかもしれないアメリカの民俗音楽の一例。 これを同時代 ; 1826年グラーフ製のピアノで聴けるのも貴重だが、さらにびっくりしたのが初版楽譜の “ジャエル氏もゴッチョーク氏も演奏した Exécuté par messieurs Jaéll et Gottschalk” というキャッチ・コピーだ。その理由が2につながる。


バナナの木

2 マリア・シマノフスカ
Maria Wolowska=Szymanowska (1789-1831) :ポロネーズ
  シマノフスカはショパンに先駆けマズルカやノクターンなどの小品でロシア宮廷ピアニストにまで遇せられたポーランドの作曲家。 楽譜販売促進のため1のゴッチョーク同様、しばしば表紙にその名を大書されたというから、彼女の人気の程がうかがえる。 このヘ短調作品を、1846年製プレイエルによってしみじみと味わってみた。


マリア・シマノフスカ

3 テレサ・カレーニョ Teresa Carreńo (1853-1917) :バラード
  カレーニョは1のゴッチョークにピアノの手ほどきを受けたヴェネズエラ貴族出身の神童ピアニスト。4度の結婚暦あり、オペラ団の運営および歌手としても活躍した。 今回の演奏は広瀬悦子の 「女性作曲家音楽祭2007」 でのもの。楽譜の入手が間に合わず、 CDを聴いて8分にもおよぶ全曲を自ら記譜した広瀬の離れ業は連載第3回で記したとおり。その超越的能力はまさにカレーニョ張りだ。

4 マリー・ジャエル
Marie Jaëll (1846-1925) :4手用ワルツ集 op.8 より
  このマリー、晩年はリストの協力者、演奏理論家として見事な実績を残した作曲家ピアニストだが、実は1に登場した 「ジャエル氏」 の妻。 私が1を選んだ本意もジャエル夫妻の存在を知らしめたいがためだった。夫妻でフランス国外へも広汎に演奏旅行を実施、 そうした目的にあわせ書かれたマリーのこの連弾曲を、国音創立80周年記念企画のコンサート (2005/9/30) で取り上げた際のビデオを試写。 国音同僚のピアニスト、河村初音氏と三木香代氏にお願いしたのは、もちろん 「地元優先で動く」 を意識してのことである。

5 セシル・シャミナード
Cécile Chaminade (1857-1944) :ピエレット [女道化師]
  シャミナードの200ほどあるピアノ曲はどれも逸品そろい、そして披献呈者には著名なピアニストが列なっているが、 4のマリー・ジャエルにも “タランテラ” という無窮動風の華麗な演奏会用練習曲が捧げられている。 だが残念なことにこの曲は、シャミナードの軽妙洒脱なピアニズムを知る最良の音源である自作自演録音には含まれていない。 やむを得ず、自演盤からもっとも愛奏されている曲 (1901年録音) で代用した。

6 ガブリエル・フォーレ Gabriel Fauré (1845-1927) :月の光
  フォーレはシャミナードともジャエルともほぼ同時代者ではあるが、ここでの眼目は、もちろんこの周知の作曲家ではなく、 歌い手のジャーヌ・バトリ (1877-1970) にある。3のカレーニョと同じくオペラ団の歌手兼運営に献身、南米とフランス音楽の架け橋ともなったこのバトリが、 なんと、ここで自らピアノ伴奏も受け持っているのだ (1929年録音)。ポップスや民俗芸では当たり前の、この弾き語りという演奏実践、 クラシックでは今は死滅したようだが、あのカレーニョと同じヴェネズエラ出身でパリのサロンを魅了した作曲家レイナルド・アーン Reynaldo Hahn (1875-1947) にも、 実は見事な弾き歌いの録音 (1909-29) が残されていた…


ジャーヌ・バトリ

  ついでながら、兼子の生涯唯一の師で、1909年東京音楽学校に着任したハンカ・ペッツォルト Hanka Pezzold (1862-1937) : はもともとパリ・オペラ座でも活躍、 マスネーのお気に入りだったというノルウェー人のアルト。リスト門下であっただけにピアノも専門家はだしの腕前、 その赴任記念コンサートで披露したシューベルト 『魔王』 の弾き歌いが兼子に圧倒的な感銘を与えた由。 その際の録音が残っていれば、もちろん何を措いてもここで聴きたかったのだが…!

7 ベートーヴェン
Ludwig v.Beethoven (1770-1827) :自然における神の栄光
  ここでようやく兼子の出番となる。ベートーヴェンの独唱曲として一番知られている作品を、兼子1925年の録音 (ピアノ伴奏はジェームズ・ダン) で聴く。 日本歌曲と並んで最も得意としたドイツ・リートのひとつとして、この曲は1928年、宿願のドイツ留学を果しベルリンで帰国間際に開催したリサイタルでも取り上げられた。 文化の華咲き乱れるワイマール共和国黄金時代のこの期に、兼子のドイツ語歌唱がお膝元で絶賛され、次回契約のオファー舞い込むも、 猶予は半年間限りとの夫との約束履行のため辞退…その無念さはいかばかりだったか!

8 吉田隆子 (1910-56)
:ヴァイオリン・ソナタ ニ調 (1952) の第三楽章
  兼子は戦時中、戦意高揚目的のコンサート出演を拒み続け、夥しい戦歌/軍歌を書いた戦争推進派の山田の歌曲も自発的には決して取り上げなかった。 吉田も生涯反戦・民衆主義を貫き、4度までも投獄された女性で、このソナタは公私にわたる同志にして劇作家の久保栄との協同による記念碑的作品 「火山灰地」 の伴奏音楽を下地としたもの。小林美恵 (vn) と花岡千春 (pf) による演奏は2003年3月28日、 パリ日本文化会館でのコンサート 「日本の女性とタイユフェール」 の際の映像の試写。 時まさにアメリカのイラク空爆開始と重なったこのコンサートに、吉田のような日本女性の存在を反米色の強いパリで紹介し、 好意的な反応を得られたことは本当に嬉しかった。

9 ジョルジュ・ビゼー
George Bizet (1838-75) :カルメン (1875) より “ハバネラ”
  この超有名曲の日本初演 (1911) を担った兼子が、83歳当時、旧奏楽堂にて和服で歌う姿 (ピアノ伴奏は大島正泰) を試写 (『ドキュメンタリー 兼子』 (兼子製作委員会2004) から)。まだ楽譜が手元に無く、もっぱら恩師ペッツォルトが歌うのを聴き真似て覚えたという、まさに口伝の利点が生きたのだろう、 そのフランス語発音も表現力も、現今の有名歌手になんら引けをとらぬ歌いぶりに拍手!

  以上、とりとめなく見えながらどこかに前後の接点を探り出し選んだ音源試聴を経て、やっと柳兼子を語る結びの段となった。
  柳兼子はドイツを中心にフランス、イタリア、日本語の歌で90歳まで現役を通したアルト歌手である。 ベルリン (1928)、ボストン (1929)、パリ (1976) でも歌い、日本芸術院会員 (1972) にも選出された、日本の例外的女性といえる。 私生活では柳宗悦 (1989-1961) の妻 (1914〜) として民芸運動をともに支え、朝鮮美術保存 (1921〜)、 日本民藝館開設 (1936〜)、さらに沖縄民芸研究 (1939〜) やアイヌ工芸 (1941〜) にも関心の環を広げた夫に協力、計り知れない貢献を成した。 加えて息子三人の育児と家事全般、民芸館を訪れる多数の来客の接待なども一手に引き受けており、 公私にわたるこうした兼子の目覚しい働きと演奏収益なしには宗悦の業績は実現しえなかった― 長男宗里はじめそれぞれの道に大成した息子たちが異口同音に語っているところからも、これに疑いの余地はまったく無い。 にもかかわらず、百科事典宗悦項目、宗悦全集、民藝館展示・売店、柳家住居などでは、兼子は不在同然の扱いで放置されているのだ。

  東京藝術大学 (旧東京音楽学校) 卒業生、国立音楽大学教授 (1954-72) としても先輩に当たるこの女性に強烈な関心をそそられた私は、 最終終講義の論題に迷うことなく彼女を取り上げた。夫妻の記念碑的共同作業として建てられた日本民藝館と柳家住居がいまなお駒場にあり、 都立駒場高校に通学した因縁もあらたな意味合いに感じられる。意外にも兼子は、私の身近に足跡を残していたのだ。 以下、兼子の発言 (門弟松橋桂子による 『柳兼子伝』 [水曜社、1999] から引用) から取り分けインパクトの強い例をご紹介しよう。

  まずは兼子のトレード・マークである和服姿 〔珍しい洋装姿も添えておく〕 について。 「帯はお相撲さんの締め込み [回し] と同じで、発声の腹式呼吸を整えるのにとてもよい」。音楽修行の原点が長唄と琴の邦楽があったのに加え、 隅田川近くで育ち幼いころの小屋掛け見物から生涯の愛好者となった相撲にも重ね合わせているところが面白い。

柳 兼子

  上記9の、83歳時の “ハバネラ” のフランス語歌唱の映像はまさに衝撃的だったが、1926年夏、 同志社大学生たちによる日本初の混声合唱団を組織して指揮棒を揮ったときも和服姿、 しかも5ヶ月の身重だったという…評伝と同じ著者の編集になる詳細な 「柳兼子音楽活動年譜」 (1987,日本民藝協会) には、 この類の瞠目すべき兼子のエピソードで溢れている。
  ついで、いまや神格化されているクラシックの 「巨匠」 たちに対する容赦なき批判は眞に痛快だ。「ああいうものを理解して歌ふことの出来る唄ひ手がございましょうか? メロディそのもの、ハーモニイそのものが…しみ、マア、しみでございますね」。 これは恋愛中の宗悦から 「歌ってみては…」 と勧められたシェーンベルクの最新作 『心に芽生えたもの Herzgewächse』 (1911) の譜読みを終えて書き送った感想である。 評伝の筆者松橋は、調性破壊に接するこうした前衛音楽をまだ兼子は理解できていなかった、と解釈しているが、 私はむしろ、音楽の本義に悖る 「現代音楽」 の逸脱を、兼子が鋭く見抜いていたのだ、と捉えたい。

  ベートーヴェンに対しても一切遠慮はない。1937年、N響の前身新交響楽団の指揮者ローゼンストックから出演依頼を受けながら、 それを断った理由を評論家山根銀二から尋ねられ、兼子はつぎのように答えた。 「『第九』 のアルト・パートは歌っていてもちっとも面白くないから…」 ―なんという率直さであろう! N響をバックに 「第九」 を歌うという、 クラシック歌手の最高の栄誉とされる機会さえ、自分の好悪を押し通して断ってしまうとは見事というほかない。

  「あんな歌、チョロイわよ…山田耕筰の歌はみんな女学生唱歌よ」。日本の作曲家として最高ランクにある山田を兼子が全面否定していたことはすでに上記8で触れた。 ここに引いた発言は1944年、戦時下の慰問で例外的に歌った山田の 『兵士の妻の祈り』 に関連して吐いたもの。 当時山田が妻永井郁子―兼子の音楽学校同級生にして同じペッツォルト門下、 そして翻訳歌唱の提唱者としても見逃せぬ歌手だった―に暴力を揮っていた事を許せなかったという私怨が言わせたものらしいが、 山田への評価の正当性を疑わせ、同時に兼子の正義感を称えたくなる一件ではないか。

  確立した権威に阿るのでなく、あくまで自らの感性を判断の拠り所とする兼子の真骨頂は、黒人歌手マリアン・アンダースンをめぐる次の発言でも示される。 「とても上品で人間がよく出来た人でしたよ。黒人の声で歌われた黒人霊歌の素晴らしさに比べると 『魔王』 などの演奏は多少の破綻がある。 けれども例え音が下がろうと、その奥にそれを補って余りあるものを聴く力を持たなければ駄目ですよ。去年来たトラウベルと較べてごらんなさい。 大声だけ張り上げて歌う人と、アンダスンの音楽性がいかに違うかを」。1953年、来日したアンダスンとの対談を回顧して門弟に言い聞かせた一節である。 ヘレン・トラウベルは音楽狂の愚父の口から聴いて10歳当時の私さえその名を知っていたアメリカの白人歌手。 本稿を書くにあたって改めて彼女がワーグナー歌いだったと知り、兼子のいう 「大声だけ…」 に納得だ。

  しかし何より衝撃的なのは、1928年、念願のドイツ留学を果すべく宗悦に懇願した次の言葉である。 「どうぞ、女中さんのヤブ入りみたいに、半年ばかり私におひまを下さい」。 滞欧の必要資金全額を自ら賄い、留守中の生活費も調達した挙句、出立後の演奏会出演料まで夫に差し出してなお、 このような物言いを強いられるとは…後を絶たぬDV、レイプ事件、就業差別、無償家事労働など、 女性へのあまりに不当な扱いが世界的にさらなる悪化の気配を感じさせる21世紀。 兼子の場合のような、婚家に入った女ゆえの悲痛な想いを知り、わずかでも共感する人を増やしていくことしか、解決の道筋はないのかもしれない。 しかし私にはこれこそが “Think globally, Act locally” の説く教えと思われる。
2009・5・28