2009.12..1

音楽・女性・ジェンダー
―─クラシック音楽界は超男性世界!?
小林 緑
目次 プロフィール
第16回

女性作曲家と名前をめぐるポリティクス

  鳩山政権がなにやら足元不安になってきた。別姓問題の噂も、最近はほとんど聞こえない。 私は通称でやりくりしているが、本音は別姓の公的な制度化をずっと望んできた。 現政権が提案しているように、同姓でも別姓でも、各人が自由に選択できる選択的別姓なら、 誰にとっても不都合はない、と思うのだが、これでは楽観的に過ぎるのかしら?
  さて、今回はその名前と女性作曲家をめぐるいくつかの側面から、女性作曲家の受容にとって、「名前―本人確認制度」 というものがいかに大きな影響を与えてきたか、 男女を問わず読者の皆様にも改めて考えていただければ、と思う…とはいっても、法制度や戸籍問題は全く私の埒外なので、 ここでは、前回チラシでご案内したコンサート 「秋に舞うピアノの名品たち」(11月2日、昼夜二部構成、津田ホールにて開催済み。 以下 「名品」 と略記)で取り上げた女性作曲家にからむエピソードのご紹介に留まることを、予め御了解いただきたい。 なお、すでに12年前に遡るが、「まなぶ―働くものの月刊学習誌」(労働大学発行、1997年7月号)という雑誌に、 『女性と名前と音楽と―女性作曲家のアイデンティティ』 と題して一文を寄稿したことがある。 この雑誌が今なお刊行されているのかどうか、迂闊にも知らずにいるが、ともかくそこで述べた事柄とは重ならないように、書いてみたい。

  まずは 「贋作」 にからむ事例から。「名品」 昼の部幕開けに取り上げた盲目の女性マリア=テレージア・パラディス (1759-1824)―本連載第5回目の主題だった―の 『シチリアーノ』 はアンコールでも愛奏され、よく知られた佳品だ。 しかし最近、実は 『舞踏への勧誘』 などでおなじみのウエーバーのヴァイオリン・ソナタを基に、パラディス作として編曲されたもの、という説が浮上している。 真偽を論ずる暇は全くないが、ともかくわざわざその名が騙られ、利用されたのは、パラディスという女性が、 当時相当の敬意と知名度を得ていたことの証左ではないか? 編曲の楽譜が出版された1924年はパラディスの没後100年。 少なくとも編曲した著名なヴァイオリニスト、サミュエル・ドゥシュキンが当時、彼女を知り、評価していたことは明らかであるし、 同時に女性作曲家の無視と忘却が近代化と20世紀の進行とともに加速した事実が、ここでも確認されよう。

  ピアノの師モーツァルトから、二台ピアノ用作品などを献呈され、自身も即興的な作風の変奏曲で人気を呼んだヨゼファ=バルバラ・アウエルンハマー(1758-1820)は、 28歳でウィーンの官吏ベッセニヒと結婚したが、旧姓を保持したまま、公開の演奏活動を続けた。 結婚しながら旧姓のまま活動し、その名が伝えられている女性として、「名品」 夜の部のテレサ・カレーニョ(1858-1917)、 グラツィナ・バツェヴィッチ(1909-1969)の二人がいる。


グラツィナ・バツェヴィッチ

  ついでながら結婚しないために一貫して名前が変わらなかったのは、マリアンネ・マルティネス(1744-1812)とリリ・ブランジェ(1893-1918)。 後者が独身だったのは、幼時からの病弱ゆえ24歳で早世したため。 しかし前者の場合は、ウィーン宮廷儀典長の娘という貴族階級の高い身分に見合う伴侶に恵まれなかったからでは、と推察されている。

  「昼の部」 前半最後を締めくくったマリア・シマノフスカは、ロシア宮廷ピアニストに任命されるなど、 その人気の高さは、売り上げ増を目指してピアノ曲新刊楽譜に 「あのシマノフスカも演奏した作品」 というキャッチ・コピーが付されたと伝えられるほど…そのマリアはヴォロウフスキというワルシャワの富裕市家庭の生まれ、21歳で大地主シマノフスキと結婚するも、 夫が妻の公的キャリアに反対したため離婚、しかしその夫の名前を保持したまま旧姓には戻らず活躍を続けた。

  「名品」 昼の部後半は女性達の中では最も有名なクララ・ヴィーク=シューマン(1819-96)とファニー・メンデルスゾーン=ヘンゼル(1805-47)が登場。 クララの場合はロベルトとの結婚前にすでに天才ピアニスト・作曲家として名を馳せていたことを証明すべく、 クララ・ヴィークの名前で出版された性格的小品集から選曲した。 クララという音楽家を、絶えずロベルトの付属物のように扱ってきた歴史への反証のつもりである。 ファニーについては、すでにある程度知られていることであろうが、高名な弟と父がユダヤ・プロテスタントの女性規範に反するとして、 作品出版に強硬に反対したため、弟の歌曲集に自作を忍ばせて公刊…つまりフェリックス・メンデルスゾーンの名前のもとにようやく陽の目を見た、という経緯がある。 彼女の室内楽やピアノ作品が晩年にまとまって出版されるに至ったのは、夫ヘンゼルの後ろ楯も大きかったらしい。 いずれにせよ、ファニーの作曲者名表記が楽譜ごとに旧姓のみ、新姓のみ、新旧併記、旧新併記、とさまざまで、 全くの予備知識無しの人にとっては一致確認が難しい…こうした厄介は、男性作曲家なら一生経験せずに済むことであろう。

  「名品」 夜の部前半に取り上げた3人も、それぞれ名前に対するスタンスが異なって面白い。 ヴェネズエラの名家出身、ヨーロッパに渡り歌手、作曲家、ピアニストと多面的に活動したテレサ・カレーニョ(1853-1917)が一貫して旧姓を保持したのは、 4度の結婚で7子を設けたという事情も手伝ってのことだろうか? アメリカのエイミー・チェニー=ビーチ(1867-1944)はボストンの名士にして外科医と18歳で結婚後、 夫の勧めにしたがって公開演奏出演を控え、自宅で出来る作曲に専念。 夫の友人の出版社で作品は公刊されるも、夫の楚命中はヘンリー・ハリス・ビーチ夫人と署名したため、旧姓チェニーはおろかエイミーという名前さえも隠れてしまった。 このように名前も姓も夫のものを名乗り、最後に 「夫人」 とつけてかろうじて妻たる女性を示す習慣は、私もフランス留学中、ごく親しいフランス人夫妻を通して知り、 えらくショックをうけたものだった……

  「名品」 夜の部後半はフランス女性ばかり3人で構成。最初のメル・ボニス(1858-1937)の場合、 ボニスは旧姓、メルはメラニーという本名を男性化/中性化した一種のペンネームである。 正式にはマダム・アルベール・ドマンジュ、つまり上記のように姓名ともに実業家の夫につき従う上流夫人の身分を名乗っていた。 このメル・ボニスは出版に当たって、他にもいくつか男性のペン・ネームを使い分けている。

  次に取り上げたリリ・ブランジェが独身で早世したため名前が変わらなかったことはすでに述べた。 3人目、「名品」 全体を締めくくったのは、このところ楽譜出版や録音計画もあり、アンコールでの実演も聴けるようになったセシル・シャミナード。 40歳を過ぎて結婚するも、欧米にまたがる作曲家・ピアニストとしての活動は、最後まで同じ旧姓名のまま。 出版譜に夫の名前を一部冠してセシル・カルボナル夫人と書かれた例もあるようだが、それもことを容易にする方策に過ぎなかったらしい。 ところで、このシャミナードほど、有名・無名と作曲家のジェンダー問題ののっぴきならぬ因果関係を教えてくれた例はなかろう。

  シャミナードの 「フルートのためのコンチェルティーノ」 はフルート奏者やブラス関係の間では知らぬ人はいないほど有名だが、 実はその作曲者を女性と認識していない人が、業界関係者でも結構いるのだ。 同様に、クラシック界の超有名曲 「乙女の祈り」 も、その作者がテクラ・バラノウスカというポーランド女性であることは、案外知られていない。 「名品」 昼の部前半のグラツィナ・バツェヴィッチについては、結婚後も旧姓を保持した女性として上記したが、彼女の 「ピアノ・ソナタ」 第二番はすでに演奏例も多く、 特にいまやカリスマ的人気を誇るクリスチアン・ジメルマンのようなピアニストがリサイタルや録音でも取り上げる、 いわば 「名曲正典=カノン」 に接する作品。そのせいか、バツェヴィッチの話を私から聞いて、「ええっ本当!?」 とびっくり、 電話口で慌てふためいた音楽雑誌の女性編集者がいる。 つまり、有名=傑作の作者は当然男性と思いこむ習性が無意識に業界人にインプットされており、女性もそれを等しく内面化している、ということであろう。 古典派・ロマン派で固めた 「名品」 の対象外ではあるが、 バロック時代のチェンバロ教材として活用されているエリザベト・クロード・ジャケ=ドラゲール(1665-1729)の場合も、 楽譜の片隅に名前を省いて 「ドラゲール」 と新姓のみ記されていることが、作者を女性と一致確認する術を失わせているのである。

  ペン・ネーム、偽名使用について、「名品」 から離れ、特に注目したいのがオペラと歌曲で際立つフランスのオギュスタ・オルメス(1847-1903) 〔図版掲載は本連載で初出の女性の場合に限る〕。


オギュスタ・オルメス

  管弦楽の咆哮と官能的な半音階も自在に駆使、まさに 「男性的」 な作法にふさわしく、熱心なワグナー信奉者であった彼女は、 初期にヘルマン・ゼンタとドイツ男性風のペンネームで歌曲を出版、しかし後年、自己確認が進むに連れ? 本名に戻って活動した。

  同様のプロセスは優れたヴィオラ奏者・作曲家のレベッカ・クラーク(1886-1979)にも当て嵌まる。


レベッカ・クラーク

  代表作 『モルフェウス』 は作曲者の自作を含むリサイタルの一曲であったが、「自分の名前がいくつも続くのはなんだかおかしい」 と感じたクラーク自身が、 この曲の作者としてアンソニー・トレントという架空の男性名を与え、演奏したところ、「トレント氏はいまや希望の星…」 とばかり、他のどの曲よりも絶賛されたのだ。 一年後の 「ヴィオラ・ソナタ」 はその楽器を弾く音楽家にとって欠かせないレパートリーであり、日本での演奏機会も多いが、 当初作曲コンクール出品作として名前を伏せて披露されたため、ライヴァルのエルンスト・ブロッホが真の作者では、と疑われたが、 結局この作品によってクラークの作曲家としての評価が確立、以後は 「トレント氏を殺しました」 と自筆メモに記されている。 上記ドラゲールの研究書も著した現代作曲家のエディト・ボロフ(b.1925)が、自作を出版してもらおうと、男性名で掛け合い奏功したことはあったものの、 女性の本名ではことごとく退けられた、と回想していた…以上、名前と女性作曲家の受容・伝播に、いかにさまざまな力関係が介在しているか、 その一端は実感して頂けたことを願いつつ、今回を終えたい。

  なお次回は久々に谷戸基岩が担当、クラシック音楽界の問題点について、引き続き自説/私見を展開してもらう予定である。