2011.5.17

音楽・女性・ジェンダー
―─クラシック音楽界は超男性世界!?
小林 緑
目次 プロフィール
第25回
エコロジーと反近代の女性像


  ☆はじめに… 『アレクセイと泉』 を観ましたか?
  「それにしても、あらゆる問題について回る、企業上層部や国の執行機関にもっと女性が登用されていれば少しはましな状況が生まれていたかも、 という恨み節はここでも聞かれた」 …身の程しらずにも原発問題を取り上げた前回の結びに書いてしまった一節だ。 大量の電力消費が豊かさと幸せの証と勘違いしている、その近代社会はまた、実は学問や芸術世界においても男性支配をスタートさせた時代だった。 言い換えれば、近代消費社会に先立つ時代においては、自給自足を前提に男女が応分に協力し合って生き抜いてきたのだ。
  先般チェルノブイリ25周年の節目に、東中野ポレポレ座で上演された本橋誠一監督 『アレクセイと泉』 は、21世紀(2002)の製作にもかかわらず、 原発汚染地域の村から離れようとしない村人たちの 「働くことが生きること」 という昔ながらの暮らしぶりを描いたドキュメンタリー映画だが、 この一作こそ、近代巨大産業─―原発の愚劣さと醜悪さを静かに、しかし圧倒的な説得力で告発している。 霞ヶ関周辺にうごめく原子力利権集団の男たちは、手近にあるこうした美しくも気高い教材から、少しは学んでみるがよい。

  政府の退去命令に抗って村に居残る高齢者たちの中で、30歳前半のアレクセイはただひとりの若者というわけだが、水汲みから薪割まで、 すべて当たり前という顔で人々を助けている。そこでの生活者としての振る舞いには、微塵も男女の区別がない。 野の花に目を止め、蛙にも愛おしげに話しかけ、「お嫁さんなんて要らないよ」 と大きな体ではにかむアレクセイは、 まさにジェンダー区分を超越した聖者のよう…3・11以後、デモをはじめできる限り参加している脱原発関係のイヴェントの中でも、 この映画から得た感動は類を絶し言葉にならないほど深く、美しかった…

  というわけで、興奮覚めやらぬうちに、とアレクセイの話から始めてしまった手前、ここに前回触れた通り、 私流の超節約型ライフ・スタイルをご披露するのも許されるのでは、と考えた。 以下は 『婦人通信』 (no.479, 1998年11月号)に掲載された 「音楽と女性とエコロジー」 と題するエッセーに随時追加や修正を挟みつつ、 再構成したものである。最後に、前近代はおろか中世ヨーロッパや古代ギリシャにも男性を圧する実積を積んだ女性が実在したことの証として二人、 簡単に触れてみた。それぞれの生きた時代には大きな影響力を振るいながら、近代社会―─すなわち男性支配の隆盛とともに無視され、 ようやく20世紀末から復権の兆しが見えてきたこれら女性たちについて、NPJ読者の皆さまにも是非記憶に止めて頂きたいと思う。

  ☆音楽と女性とエコロジー
  私の教員生活もいまや35年! に及ぶが、この20年来、「女性と音楽」 をライフワークと定め、マイペースで取り組んでいる。 私にとって、この 「女性」 は単に生物として男性に対する女性を意味するのではない。西洋近代テクノロジーの発展とともに無視され、周縁化され、 軽んじられるようになって音楽の 「正史」 から外された諸問題も、そこに含ませている。

  その筆頭に挙げたいのが、特に1980年代以降その存在が多数確認されるようになった古今の女性作曲家たち。 そして今は専門家たちの占有のようになってしまった昔の楽器の数々。それらの古い楽器は鳥の羽(チェンバロの弦をはじく爪)や動物の腸(弦楽器に張る弦)、 木片や竹(笛)など、すべて身近な自然の素材から造られている。そしてそうした楽器を伴って歌われる音楽の内容は、自然の風景に加えて祈り、 機織、ゆりかご、恋愛など、あくまで人間生活に密着したものであり、時に戦いや革命など歴史的な事象まで取り上げた例もあるが、 そうした肉声による歌こそ、実は女性達が最も得意としたジャンルだった。 18世紀まで、音楽といえば歌が主役で、楽器だけの音楽の隆盛は近代19世紀以降であることも、ついでに確認しておこう。

  この事実に気づいてから、私の中で、女性―音楽―自然(環境)が一本の糸でつながるようになった。 音楽における女性的な事柄を、ずいぶん前から本能的に拘ってきた自然やエコロジー問題と結びつけて考えたい。 そうすれば毎日の生活が研究と乖離せず、どちらにもプラスになるのではないか…私流のエコロジカル・ライフを敢えてご紹介しようと決めた所以である。

  買わず、捨てず、増やさず…当然ながら基本はこれ。外出の際は買い物袋とお箸を財布、鍵、手帳など必需品とともに携える。 お箸にこだわるのは、外食につきものの割り箸が、ゴミを増やす使い捨ての象徴だからだ。 間伐材の使い道として割り箸生産が森林保護に役立っているという誤解が、 海外の割り箸工場の存在や森林破壊の現実を隠蔽してしまっている事実も黙過できない。ワーキング・ウーマンにマイ・バッグ持参を求めるのは酷、 という意見があるそうだが、私が持ち歩くのはその辺に転がっているビニール袋で、これを畳んでバッグに入れることはちっとも手間にならない。 体型が高校時代からほとんど変わらないこともあり、スーツ類も 大体20年は着ている。 それも多くが姉妹や友人たちからサイズが合わなくなった…などの理由で回ってくるお古だ。
  仕事柄、重い資料を持ち運びするし、 自宅の杉並から勤め先の玉川上水までは(当時まだ多摩モノレールもなく)乗換えなどで結構大変なのでやむを得ず車で通勤していたが、 それ以外は原則として乗らない。15年以上乗っていた車を2000年に買い替える必要が生じたので、ぜひ電気自動車を、相談したところ、 トヨタ社員から、電気はもちろん、ハイブリッド車もまだ技術不全だからやめたほうが良いといわれ、不本意ながら断念。 以来燃費が安いマニュアル車に11年乗り続け、専任退職後3年を経たこの3月にそれを最終的に手離すことにして、 すべての手続を終えたのが3月8日…震災を予測してガソリン不足に怯えたわけでもないのに、なんと言うタイミングのよさ!

  さて家の中ではどうか。夏は暑い、冬は寒いと覚悟を決めてエアコンは来客時しか使わず、団扇とおしぼり、堀炬燵で凌ぐ。 省エネはもちろん、体にもこの方がずっと快い。執筆にも永い間手書きを貫いていたが、さすがに10数年前, ワープロからPCに切り替えたものの、 今もってメールと原稿以外はほとんど活用していない。ファクスも普通紙対応型を選び、コピー済の裏面で送受信している。 同じくPCのプリント・アウトもコピーの裏面を活用。授業で配付する資料も大体裏紙でまかなう。 年度始めに宣言した私すなわち 「緑の先生」 の意図を理解し、レポートや手紙を裏紙でくれる学生が出てくると本当に嬉しくなる。
  ティッシュなどは再生紙製品のみを買い、歯ブラシもブラシ部分だけを付け代え、把手は一生使えるドイツ製の優れものを愛用している。 使用済みのティッシュや着古しの下着類で汚れをざっと拭き取れば台所にも洗剤は不要だ。 このために外食でもらう紙ナプキンも必ず持ち帰り、台所で重宝している。 洗濯の回数はほぼ週1回、お風呂もせいぜい週2回で朝シャンどころか週シャン! 食材はなるべく丸ごと頂くようにしているが、 わずかに出る生ゴミはマンションの専用庭に設置したコンポストで処理、飲料はリターナブル瓶のものに限り、自動販売機とは縁がない。 コンビニに走るのは想定外の訃報が届き、お香典袋が手元にない場合だけだ。 毎日たまる新聞、雑誌など紙類の整理は夫の週末の仕事。当初は非協力的だったが、私のしつこさに負け(?)今ではしっかり自らの役割と割り切ったものか、 きっちり分別、束ねてゴミ置き場に運んでいる。

  ☆パリ留学と老母の生き様から教えられたこと
  こうした生活ぶりを続けられた第一の理由は、実家で長らく一人暮らしに耐えてきた母の存在だ。 あの戦争中に5人の子供を育て上げた母の体験は、私にとって節約と勤励の生ける見本なのだ。 その母は今や95歳、2年前から拙宅に程近い杉並区内のケア・ハウス住まいとなった。ところがトイレの水は勿体無いからと毎回流さず、 使った紙も川や海を汚すからと便器の外に隠し置くなどの “異常行動” で、スタッフとの間に悶着が絶えない。 しかし、このトイレに絡むエコ実践は、辺野古の海で米軍基地に命がけで抵抗する現地の人々が当たり前のように行なっていた…2009年秋、 アジア女性資料センター企画の宮古島ツァーに参加してこの事実を目の当たりにした私にとって、これほどの驚きと衝撃はなかったといえる。

  もう一つの理由は1971年から1年半のフランス留学である。華のパリの生活が、現実には一滴の水も無駄に流さぬ倹約振り、建物も家具も衣服も、 古いものを大切に、慈しみ使い続けるその気風は、まさにカルチャー・ショックだった。何しろ40年近くも前のこととて、 鼻を噛むにもハンカチで間にあわせるほど、使い捨てのものは全く見当たらない。 間借りしていたアパルトマンの持ち主の老婦人は、ほとんど一年中同じワンピース姿で、下着なども滅多に替えないし、洗濯した気配もない。 友人宅に夕食に招かれ、とっぷり暮れてからようやく蝋燭を灯して食卓を囲んだこともあった。 節電のきわみはホテルの廊下などにみられる自動消灯スイッチ。 廊下の手前で点灯した人が通り過ぎるに必要な1分後には自動的に消えるというすごい仕組みだ。 トイレもドアの開閉と電気の点滅を連動させるシステムがいまだなおカフェなどで健在。 21世紀、パリもアメリカ化が著しいとはいいながら、24時間電気漬けの東京と較べれば、昔ながらのつつましい生活様式ははるかにしっかり保たれているのだ。

  ☆ヒルデガルト・フォン・ビンゲンの世界の奥深さ
  エコロジーの理想達成は容易ではない。ともかく時間がかかる。焦らず、粘り強く続ける他にない。 音楽の世界でも、ドイツの女性宗教家・神秘家で女子修道院長でもあったヒルデガルト・フォン・ビンゲン(1098−1179、 図版1)の聖歌に、 生誕900年を隔ててようやく正当な光が当てられ始めたのだから… 幼時から神の幻視を得た女性として、ヒルデガルトはごく自然に聖歌の作曲も薬草学に基づく食事療法も実践していた。 神学的な教えだけでなく、心身の癒しと救いには歌声と食餌が不可欠だからだ。もちろん女子修道院でも衣食住は原則自給自足、 ごく自然にエコロジーを実践する場であったことは言うに及ばない。


ヒルデガルト・フォン・ビンゲン

  当時としては長命の81歳を全うしたヒルデガルトはおよそ70曲の聖歌を遺している。 手書きの古い記譜を解読して録音されたCDが 1990年代から多数出ており、現代の若者にもアピールするようロック調に編曲されたヴァージョンまである。 ヒルデガルトの元曲はしかしあくまで、歌い手である配下の修道女たちの声を想定してか、 同時代の男声のみによるグレゴリオ聖歌に比べかなり高い声域を自由に旋回するのが大きな特徴。 聴きなれるとすぐに 「あっ、これはヒルデガルトだな」 と判るほどだ。 なかでもお勧めの音源は、音楽史上はじめての宗教劇とも目される 『徳の教え Ordo Virtutum』 全編などを収録したBBC製作の2枚組DVD 『ヒルデガルト・フォン・ビンゲンのポートレート』 (2003年、OPUS ARTE 08750)。 生涯の痕を辿ったドキュメンタリー・ドラマの部分も秀逸で、自ら作った小さなハープを爪弾きながら、「音楽が最高の癒しですよ」 とつぶやく場面が実にいい。

  なお、このヒルデガルトを “史上初の女性作曲家” とする俗説が跋扈しているが、1987年にアメリカで刊行された 「国際女性作曲家事典」 改訂版では、 紀元後から12世紀まで、なんと80人もの女性作曲家が数えられている。彼女たちは近代的イメージの 「作曲家」 とはかなり隔ってはいるだろうが、 むしろ広く 「音楽も造る女性」 と捉えてみてはどうか。ヒルデガルトとほぼ同じ時代南仏の貴族女性、ディア伯爵夫人も、 自らの詩を旋律にのせて歌う詩人作曲家、すなわち現代流女性シンガー・ソングライターとよべるのだから…

  ☆中世初期の偉大な女性哲学者ヒュパティアとは?
  「哲学、数学、作曲は女に出来ない」 …日本の著名な大先生たちお気に入りのせりふである。 音楽界に身を置く私としては、女性の作曲家は古来それこそ無数に居たことをイヤというほど知っているので、この恥ずかしいまでの無知は相手にもしたくない。 ただ哲学や数学の歴史には全く疎いので、そちらはどうなんだろう…と気になっていた。 そこへめぐり合ったのがヨーロッパ中で大評判を呼んだという映画 『アレクサンドリア』。
  製作は2009年、監督はスペインのアレハンドロ・アベナーバル。ローマ帝国末期の学芸都市アレキサンドリアを舞台に、哲学、数学、 天文学に傑出した女性科学者ヒュパティア(355?〜415、図版2)の学問一筋に捧げた姿を、史実に基づき描き上げた映像作品である。 ヒュパティアを演ずるレイチェル・ワイスの知的な美しさも素晴らしい。 女性人名事典では、このヒュパティアはキリスト教義に反する科学的合理性を追求したため、時の大司教が大衆を扇動して彼女を馬車から引き摺り下ろし、 拷問死させたと紹介されている。


ヒュパティア

  またリーアン・アイスラーの画期的名著 『聖杯と剣』 (原著1987年、邦訳は法政大学出版局)でも、 391年の国教化以後完全に男性支配制を押し進めたキリスト教徒たちによって、 史上最高の学者の一人と認められているこの女性が 「<神> の命令に背いて傲慢にも男たちに教授した邪悪な女」 として、牡蠣の貝殻で切り刻まれたとある。 当時、新興のキリスト教がこのように 「異教」 世界を滅ぼし、古代文化の知の殿堂たる市の大図書館までも焼き払ったとは…

  ちなみに、こんな映画があると知ったのがまさに3月11日だった。あの大災害が起きる直前、 有楽町朝日ホールでの日仏女性に関るアート・シンポジウムに参加すべく急ぎ足でいたところ、 件の映画の主役女性の看板を掲げた旧マリオンの前を通り過ぎ、「あれ、なんだろう…?」 といたく興味を引かれていたので、後日ネットで検索、 ようやく横浜シネマリンというミニ・シアターで上映中とわかったのだ。 ところが私が件の映画館に出かけた4月29日の観客数はなんと5、6人! 作品内容の重大さと、 ヨーロッパ映画界の総力を結集して古代の美しい都市と人間像を再現したスケールの壮大さに比して、 余りにも酷いこの落差…まったく無名の女性が主役の映画なぞ、宣伝費用もかけたくないという日本のメディアのお粗末な対応が透けて見えるようだ。

  救いは映画館で販売していた日本語プログラム(松竹株式会社編集・発行)がなかなか充実しており、基礎知識は十分に盛り込まれていたこと。 それにつけても、男性ながらアベナーバル監督のように、ジェンダー偏見なしに取り上げるべき価値ある対象には正当な関心を寄せる業界人が、 この国にも出現することを願うばかりである。